藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

河内湾・河内湖・河内潟

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出発前の予報では今日は雨80%だったので覚悟していましたが、晴れ。
トレーナー1枚しか着ていないのに暑くてたまりません。
今日もタクシーは予約できず、駅にもいなかったので歩くことに。
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こんなに登らなくてはならないなんて全く想像できず、iPad
道順を確認しながら歩いていた時、目の前をタクシーが横切りました!
天の佑け!? とばかりに追いかけて行ったら、乗せて貰えました。
要するに、忍ヶ丘駅から2分ほど歩いただけでタクシーに乗れたのです。
よって忍陵(しのぶがおか)神社の階段も登っていません。
 
この忍陵神社河内国讃良郡の延喜式内社6座のうちの津桙(つほこ・つぼこ)
(甲可村大字岡山字八幡山1260番地)と、馬守(まもり)(甲可村大字砂字宮田162番地)
江戸時代以降に遷座してきて合祀されたと考えられています。
 
生駒山系の西麓にあたるこの地域は、海水と淡水が混ざり合う半鹹水状態の
河内湖畔だったとされ、馬の骨や製塩土器・製塩炉などが出土しています。
発掘調査によって、5-6世紀頃には馬の飼育に必要な塩を得るための製塩と
馬の飼育が行なわれていたことが証明されました。
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それにしても不思議なのは、昭和9年9月の室戸台風によって忍陵神社の社殿が
倒壊するまで、古墳の上に社殿が建っていると知られていなかった点です。
昭和10年4月の復旧工事の際、拝殿下から竪穴式石室の一部が出土したことで
発掘調査が行われ、前期古墳と認定されたというのですから驚きます。
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それでは、娑羅羅(さらら)馬飼部・菟野(うの)馬飼部の居住区にあったとされる
馬守社の旧地「砂」へ行ってみます。
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えええ〜、縄文と古墳時代の遺跡が石柱一本に化けてしまってます!?
ただ、忍岡古墳と至近距離であることだけはわかりました。
被葬者については、前方後円墳ですから渡来氏族であろうと言われるものの
古代の渡来系氏族・宇努(うの)連、河内皇別の早良(さはら)、当地を開発した
佐良々(さらら)連など、諸説あるようです。
 
砂遺跡は空振りだったので、先を急ぎます。が、道がない!?
運転手さんが悪いわけでもナビがおかしい訳でもなく、車が走れる道が
なかったため、ナビが次々と違うルートを喋り始めたのです。
こうなると、初めての土地でも人間の勘で進まなくてはなりません。
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これは凸凹ガタガタの難所をクリアして平坦な道に出たところです。
目指してきたのは高宮廃寺跡。ずっと追っている《薦枕》の「たか」です。
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現在は大社御祖神社のみ鎮座してます。
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同地区に、二社も式内社があるのは珍しいのですが、もう一つの
高宮神社はもっと狭い道に入らねばならないため断念…。
次の熱田大明神へ向かいます。
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これはまた不自然な配置の鳥居ですねぇ…。
右に見える狭い道を挟んで公園があるのは、社地の中に道路が出来たから
ではないでしょうか? もともとは社殿からL字に折れる形ではなく、
一ノ鳥居・二ノ鳥居と社殿が一直線だったのでは?
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そして社殿の向こうに見えるこんもりが「太秦廃寺」跡のようです。
当社の住所は寝屋川市太秦中町、少し北の寝屋川市川勝町2-22には
「伝 秦河勝の墓」があることでもわかるように、寝屋川市内には
「秦(はだ)」「太秦(うずまさ)」 といった秦氏ゆかりの地名があり、
平安時代の『和名類聚抄』 にも茨田郡8郷の中に記録されています。
 
秦河勝(6世紀後半~7世紀中頃)聖徳太子を補佐して活躍したという渡来系氏族。
推古天皇の時代から朝廷に仕え、用明2年(587)に厩戸(うまやど)皇子を守護して
物部守屋の首を斬るなどの活躍をしたと伝わります。
「うまやど」?!️
 
現在は淀川の東岸と言うべき河内潟に渡来人の居住区があったことが
わかったところで淀川を渡ります。
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今日のテーマは継体天皇の真の墳墓と言われている今城塚古墳です。
のちに継体天皇となる「男大迹王」は、越前から畿内へ来たことと
北河内の「樟葉宮」で即位したことで、大和王権の直系でないのでは?
と疑う説が根強くあるようです。
しかもその墳墓が淀川北西部の高槻市郡家新町にあったとしたら?
 
そして「男大迹王」が即位するきっかけを演出したのが『日本書紀』にも
登場する河内馬飼首荒籠(かはちうまかひのおびとあらこ)でした。
北河内の淀川河川敷に設置された「牧」で馬を飼育していた馬飼部の首長
河内馬飼首荒籠の知り合いだった「男大迹王」の出自を怪しむ声もあります。
「男大迹王」即位までの流れを簡単に追ってみましょう。
 
第25代武烈天皇には子供が居ませんでした。
そこで大伴金村大連らが仲哀天皇五世の孫 倭彦王(ヤマトヒコノオホキミ)
丹波国桑田郡(現 京都府北桑田郡亀岡市)へ迎えに行くと、倭彦王は顔色を失い、
山谷へ隠遁してしまったそうです。
次に名前が挙がったのが「男大迹王」でした。
 
元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰
男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」
物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰「妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。」
 
「枝孫」とは枝からさらに別れた枝。
大勢の「枝孫」から賢者を選ぶとしたら「男大迹王」しかいない…と
「男大迹王」=継体天皇が分家の分家であること強調していますが、
それでも継体天皇を「新王朝」の天皇とする説が根強くあります。
 
近江国で生まれた「男大迹王」は応神天皇五世の孫とされ、父の死後、
母の実家がある越前国坂井郡高向郷へ移ったことになっています。
が、大和からあまりに離れた土地でもあり、応神天皇五世の孫は後付けで、
王朝が交代した可能性が高いと考える人は少なくないようです。
 
丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三国。
 
越前の三国まで迎えが来ても「男大迹王」は皇位に就こうとしません。
 
天皇、意裏尚疑、久而不就。
適知河內馬飼首荒籠、密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。
留二日三夜、遂發、乃喟然而歎曰「懿哉、馬飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。
世云、勿論貴賤、但重其心。蓋荒籠之謂乎。」及至踐祚、厚加荒籠寵待。
甲申、天皇行至樟葉宮。
 
そして「男大迹王」は旧知の河内馬飼首荒籠に密使を送りました。
「勿論貴賤」とあるように、卑しい身分の人物とはいえ、河内馬飼首荒籠が
中央の正しい情報をもたらして「男大迹王」が天皇になる決意をしたという話。
 
またしても、馬、馬、馬…。
淀川を渡ると、摂津市鳥飼下に「鳥養牧(とりがひまき)」跡があります。
また摂津市鳥飼上には宇多天皇がよく訪れていたという離宮鳥養院」跡。
それだけ朝廷が馬を重視していたということでしょう。
現在は町中にモニュメントが建っているだけなので端折りました。
 
次は、今城塚古墳の石棺に使われた阿蘇のピンク石を水揚げしたことで
「筑紫津」と呼ばれたのではないかと想像される淀川沿岸部の三島鴨神社
今は高槻市三島江2丁目に鎮座してますが、元は淀川の川中島にあったそうです。
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筑紫の磐井を滅ぼして九州制圧に成功した継体大王は、
巨大な阿蘇のピンク石を自らの家形石棺に指定して遠路運ばせました。
大山祇神を祀った継体大王は大三島に神社を創建し、瀬戸内海の海運を手中にしたとも?
継体天皇陵のある三島地域と瀬戸内海の大三島、さらにその西の山口県下松(くだまつ)
地名の語源を「百済(くだらつ)」とし、渡来系海人族の重要拠点だったとする説も。
山口県下松市の天王森古墳の発掘調査で出土した「太刀形(たちがた)埴輪」は、
継体天皇今城塚古墳埴輪祭祀場から出土したものと瓜二つだったそうです。
 
三島鴨神社から北西に直線で4.7km離れた高槻市赤大路町鎮座の鴨神社
「三島江の三島鴨神社は当社の分社」と主張しており、ここにも式内社論争が?!
摂津国島下郡 三島鴨神社」の論社。
 
何と、ここ淀川沿いの三島鴨神社唐崎神社がありました!
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かつての「津」「湊」であれば、百済から大山祇神を迎える以前から
鎮座していた可能性もあるのではないでしょうか?
いずれにせよ、「♪ シカの唐崎や〜」の神楽歌をうたってみました。
 
もちろん、もう一つの「摂津国島下郡 三島鴨神社」の論社へも行きますが、
倭琴の旅の初期、対馬へ通って何度も歌った《磯良》の名を冠した神社
疣水磯良神社茨木市三島丘にあったので行ってみました。
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「磯良」というより「疣水」が御神体
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鳥居をくぐったら「霊泉 玉の井」、その先に「舊社地」とありますが?
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ここは西河原の式内社「新屋坐天照御魂神社」の旧地でした。
「新屋坐天照御魂神社」が寛文9年(1669)茨木市西河原へ遷座した当時、
磯良神社境内社でしたが、当地の玉の井(疣水)がイボ取りに霊験ありとして
独立し、社地を譲り受けて疣水磯良神社となったそうです。
(もちろん先に磯良神社が鎮座していた可能性を否定することはできません)
 
ここから北東1kmの距離に鴨神社があります。
とはいえ、ここまでの道が混んでいて信号1つ越えるのに5分以上かかり、
次の鴨神社への道も狭くて、駐車スペースなどありません。
そのうえ周囲にマンションが林立していて入口が見つかりませんでした。
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グルグル回ってやっと見つけました! 右隣がマンションです。
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各マンションは駐車場で仕切られ、参道を通らないと社殿へは行けないようです。
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左手にマンションが見えますが、右手にもマンションが並んでいます。
この配置では琴も歌も響き過ぎるため、小さくなって演奏修行しました。
 
ただし当社は大きく出ていますよ。
創建不明にも拘わらず、「全国に数千ある三島神社の発祥の地」ですって?!
当社が分社と主張する三島江の三島鴨神社と同じく、創建には百済系渡来人が
関係しているとされ、4世紀頃の摂津国の県主 三島氏の氏神とも言われています。
 
どこもかしこも、遷座したり祭神が変わったり、明治期の合祀の嵐で原形が
失われてしまい、信頼できる情報にお目にかかれることはほとんど皆無です。
社伝ですら信用できないことを知るために旅をしているようなものです。
 
最後に、今城塚古墳の石棺として使われた阿蘇のピンク石を淀川の支流(?)
遡って運んだと考えられる芥川沿いの筑紫津神社へ行くつもりでしたが、
京都発の新幹線の出発時刻が迫っており、チケット変更のタイムリミット前に
高槻駅へ行かざるを得なくなりました。
よって、一方通行の道を走って今城塚古墳が見える場所へゆくのがやっと…。
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南西の角に来てみましたが、古墳はやはり上から見ないとダメですね。
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高槻駅へ向かうため古墳に沿って南側の道を走りました。
北側に「埴輪祭祀場」があることはわかっていましたが、
そこまで歩く時間もなかったため諦めました。
古代から道が変わっていないような場所はタクシーよりもバイクですよね。
なにはともあれ、先ずは足の確保です…。