藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

韓神(からかみ)

宮中の御神楽(みかぐら)歌に《韓神》があります。
 
本歌
三島木綿(ゆふ) 肩に取り掛け われ韓神の 韓招禱(からをぎ)せんや 韓招禱。
末歌
八葉盤(やひらで)を 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招禱せんや 韓招禱。
 
上は現行の歌詞で、以下は『楽家録』卷之三所収の歌詞です。
「神楽歌」第十四《韓神
本歌
みしまゆふ かたにとりかけ われからかみの からおぎせんや からおぎ
末歌
やひらてを てにとりもちて われからかみの からおぎせんや からおぎ
 
「韓をぎ」と「からおぎ」の「を・お」に表記の揺れが見られます。
「韓をぎ」に関しては韓風の呪的芸能との説があり、
ヲギは「俳優(わざをぎ)」のヲギで、神を招く態(わざ)
すなわち「韓神の舞」と受け取られたのだろうと説明されています。
 
しかし、日本の宮中でなぜ「韓神の舞」を?
 
この疑問から、ずっとこの神楽歌を歌えないまま来ました。
もちろん辞書で調べられることは調べました。
韓神(からかみ)=朝鮮から渡来した神の意。
古代より宮中の神殿には
北に百済神である韓神(からのかみ)
南に新羅神である園神(そのかみ)が祀られていました。
 
承徳3年(1099)書写の『古謡集』に収められた「北の御門の御神楽」に
本歌
三島木綿 肩に取り掛け 誰(た)が代にか 北の御門と 斎(いは)ひそめけむ
末歌
八葉盤を 手に取り持ちて 誰が代にか 北の御門と 斎ひそめけむ
とあるのが、韓神が宮中の北の神殿に祀られていたことの証しでしょうか?
 
宮中御神楽は純国産とは限らないとの直感が的中していたようです。
北の韓神百済系の、南の園神新羅系の渡来神、
いわゆる今来(いまき)の神でした。
 
1891年10月、当時東京帝大の久米邦武教授が発表した論文
神道ハ祭天ノ古俗」が思い起こされますね。
この論文を転載した『史海』(1892年1月25日号)が同年3月5日に発禁処分となり、
その前日の3月4日には久米が非職を命ぜられた"久米邦武筆禍事件"!?
神道家たちが躍起になって取り消しを迫ったことに興味をひかれます。
 
その神道ハ祭天ノ古俗」の中に、11/18に知った淀川沿岸の三島鴨神社の社伝
仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まり」
の一文とも重なる記述があったので抜粋しておきます。
 
大山津見の子孫は吾田国(今の薩日隅)君なり。
伊豆・伊予の三島社、及隠岐大山祇神を祠るは、吾田君の兼領地にて(以下略)
 
また『釈日本紀』(『伊予国風土記逸文越智郡御島の条)に
大山積神百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋(三島)に鎮座、のち
伊予国に勧請された」とあり、先の三島鴨神社の社伝とも符合しています。
伊予国に勧請」とは、以前足を運んだものの、己の教養不足から
すごすごと退散した大山祇神社ではありませんか!?
ここでその成立が明かされようとは…。
神楽歌の解釈ひとつ、神話の解釈ひとつ進まない私ですが、
神話のストーリーが少し見えてきたので動く気になりました。
これは海人族を追っていた頃よく目にした
「渡来系海人族」とも通じるのではないでしょうか?
海人族の二重(?)三重(?)構造が明らかになるとスッキリするでしょうね。
 
日本神話において
大山祇神社の祭神 大山積命=三島大明神
伊弉諾尊伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命木花開耶姫命の父とされます。
葦原中国の主として日向国高千穂峰へ天降った瓊瓊杵尊は吾田長屋笠狭岬で
鹿葦津姫(かしつひめ)木花開耶姫(このはなさくやひめ)を娶ったことになっています。
まさに「大山津見の子孫は吾田国(今の薩日隅)君なり」ですね!
百済から渡来した大山積命の子が初代神武天皇の曾祖母だったとは。
だから宮中に韓神が祀られていたのか…と納得。
11/17に書いた下の記事の最後の疑問
「なぜ渡来人の居住区に大隅隼人が住まわせられたのか?」の答えも
大山津見の子孫は吾田国(今の薩日隅)君なり」にありました。
百済から渡来した大山積命の子孫が吾田(薩摩・日向・大隅)に居たとしたら
のちに田辺史らの居住区に移り住んだとしても不思議はありません。
 
また、瓊瓊杵尊木花開耶姫の結婚の際、大山積命が姉の磐長姫(いはながひめ)
共に嫁がせたところ、醜いからと姉だけ返してきたとの逸話があります。
ここで俄然、妄想を膨らませてしまった私。
ウラを取りにゆかなくては。