藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

大三島と大山積神

瀬戸内の大三島伊予国一ノ宮たる大山祇神社があり、
伊豆半島の付け根にあたる三島に伊豆国一ノ宮の三嶋大社がある…
この両者がつながっているのかいないのか、まるでわかりませんでした。
 
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)については松山市公式観光Webサイトに
「日本建国の神、大山積大神を祀る神社で、
全国に一万社余りある山祇神社三島神社の総本社である」
とありますが、こんなことを書いて大丈夫なのでしょうか?
 
三嶋大社(三島市大宮町)のHPには
大山祇命(おほやまつみのみこと)積羽八重事代主神(つみはやへことしろぬしのかみ)
御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみやうじん)と称しています」、
創建時期は不明だが、古くより三島の地に鎮座していたとあります。
 
松山市公式観光Webサイトは
「全国に一万社余りある山祇神社三島神社の総本社」と断言していますが、
静岡の三嶋大社から勧請した三島神社がないはずがありません。
ただ三嶋大社には「三嶋神伊予国一宮の大山祇神社に由来する」との
言い伝えもあったようです。
しかし
三嶋大社から勧請しても大山祇神社が総本社ということになるでしょうか?
 
その大山祇神社に樹齢2600年と伝わる御神木「大楠」があります。
境内中央にそびえる「大楠」は当社を創祀した乎知命が手植えしたのだそうです。
 
ちょっと待って下さいよ。
釈日本紀』(『伊予国風土記逸文越智郡御島の条)に
大山積神百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋(三島)に鎮座、のち伊予国に勧請」
とあり、淀川沿岸の三島鴨神社の社伝にも
仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まり」、
もう一つの三島鴨神社の論社も
「全国に数千ある三島神社の発祥の地」
と主張しています。
 
あれあれ、仁徳天皇って古墳時代の人っていう設定ですよね。
何をどう計算すれば、古墳時代にやってきた大山祇の子孫を名乗る乎知命
2600年前に楠を手植えしたと結論づけられるのでしょうか?
それとも「樹齢2600年」が盛り過ぎってことですか?
 
いずれにせよ上記の複数の説を否定できる根拠を示さない限り、
「樹齢2600年と伝わる御神木を乎知命が手植えした」
との記述はお笑い種でしかありません。
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てんこ盛りにすればするほど常識人の気持ちが離れるとは考えないんですかね。
 
私個人は、現時点で
古墳時代摂津国へ渡来した大山積神(三島神)伊予国に進出後、伊豆国へ勧請
古墳時代摂津国へ渡来した大山積神(三島神)伊予国伊豆国へ進出
という説に反論する材料を持ち合わせていません。
 
それよりも、大山積神が進出してくる以前、伊予の大三島や伊豆の三島では
どんな氏族がどんな祖神を祀っていたのかということが気になります。
それが判れば、さらにそれ以前は? と飽くなき好奇心が湧いてくるわけですが。
 
大山積神=三島神が百済渡来ということはわかりました。
そして宮中に百済渡来の韓神が祀られ《韓神》という神楽歌が作られたことも。
また、その歌詞から、大山積神=三島神=韓神と推測できそうなことも。
 
そうなると、大三島を再訪して古墳時代以前の祭神を調べたくなるわけで、
ちょうど今治駅近くの別宮大山祇神社へも行きたいと思っていたので
今治市内でレンタルバイクを探しました。
「橋の上を走ると市街地よりもずっと寒く感じますから防寒を万全にして
お出かけくださいね」とお声がけ頂き、重いムートンジャケットで来ました。
今朝、2月以降何度も阿讃山脈を走った雪だるまダウンコートを着てみたら
軽くて温かいどころかスカスカで、だからカイロを6つ貼っても
ガタガタ震えたのか…と今更ながら己の愚かさに呆れ果てました。
ただ、長時間走るのに、重いムートンジャケットだと肩が凝りそうで
2月3月は伸縮性があって動きやすいダウンコートを選んだのでした…。
 
さて、別宮大山祇神社大三島大山祇神社への参拝の不便を解消するため
創建されたとのことですが、後述する大山祇神社の創祀に照らすと
大宝3年(703)または和銅5年(712)という創建年はあり得ません。
…と考えながら走っていたら、突然、左手に巨大な鳥居が!?
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バイクは正面から入ることができないので、裏の大山祇公園から撮影。
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別宮大山祇神社の本殿隣にある紅く塗られた小さい社は阿奈神社です。
大三島阿奈神社から磐長姫大神を勧請したと書かれています。
現在の地図では漢字表記が違いますが(いつ表記が変わったのかはわかりません)
大三島阿奈神社へも行ってみなくてはなりません。
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来島海峡大橋を渡りたいのですが、まさかこんな道を通るとは思わず、
同じ道をグルグル回ってしまいました。
左にタンカー、右が↓これということは、今治造船内の道ではないのでしょうか?
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ここを抜けて左折したら来島海峡大橋への道が見えました!
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やれやれ…です。実はナビに遠回りさせられてました!?
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うわぁ〜いよいよ渡りますよ。途中、すれ違った原付は4台(帰りは7台)でした。
↓は来島海峡大橋を降りてから振り返って撮ったものです。
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しかし、来島海峡大橋って第1-3を合わせると 4,045m?! どうりで長いはずだ…。
この橋の立派さが脳裏に焼きついたせいか、
次の伯方・大島大橋の入り口がわからず右往左往してしまいました。
途中までは「自転車・原付」と表示されていたのに、気づいたら
「自転車・歩行者」となっていたので引き返しました。
地元の方にお尋ねしたら「そのまま自転車と同じ道に入って下さい」と言われ喫驚!?
来島海峡大橋は「原付」と「自転車」は別だったので。
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↑あの橋なんですけどね…。
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ホントだ! 「原付」と「自転車」は同じ道だったんですね…。
今回、伯方島は素通りの予定なので、大三島橋を目指します。
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さっき学習したし、ここにはちゃんと「原付」と「自転車」の表示がありました。
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大三島橋への道ですが、まるで山にでも登るような感じ。
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そうそう、この橋です。ここを渡れば大三島
 
先ずは、大三島橋に近い横殿宮跡。大山祇神社の元宮とされています。
ただし横殿宮が現在の横殿宮跡へ遷ったのは元正天皇養老2戌午年(718)で、
それ以前は「みたらしの水」に鎮座していたというのです。
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「みたらしの水」は瀬戸内海沿いにあり、現 横殿宮跡と200mも離れていません。
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は? これが横殿宮跡ですか…。
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あとから取ってつけたような祠が一つ!?
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再度、「みたらしの水」に戻って考えました。
大山積神はなぜ、わざわざ横殿宮遷座させてから
翌年(719)に今の大山祇神社の地へ遷座したのでしょうか?
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妄想を逞しくすると、
大山積神は瀬戸内海の要所(港)を抑えろとの勅命によって「みたらしの水」の
主祭神 瀬織津姫命を奉ずる人々を平らげたのかも知れません。
 
ここで決定的とも言える年代が出てきました。
大山積神が719年に現在の大山祇神社の地へ遷座したとなると、
あの「樹齢2600年の大楠」を乎知命が手植えした可能性はゼロです!
もし「樹齢2600年」が正しいなら、大山積神に追われた先住の神が居たはず。
 
またしても妄想タイムです。
古墳時代以前にこの地を治め、九州〜大和をつなぐルートを確保していた
氏族が居たとしたら、まずワニ氏の可能性を考えたい私。
なぜなら、大三島から東進すると、観音寺市の丸山古墳をはじめとする
ワニ氏遺跡が密集する西讃地区(香川県西部)があるからです。
西讃には「高瀬の淀」「豊岡(とようか)姫」など、神楽歌《薦枕》で歌われる
ワードが地名や社名として残っていました。
すると、大三島にも「トヨ姫」「ウカ姫」を祭神とする神社があったかも?
 
ということで、大山祇神社へ行くと、境内社姫子邑神社宇迦神社が!?
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こちら、まるで弁財天のような立地の宇迦神社
手前には、またまた大袈裟な「日本最古の楠」!?
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樹齢3,000年なんて、熊野本宮の奥宮 玉置神社へ行けば何本も見られますが?
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しかも、こういう、割れて広がったり傾いたりしたような形状ではなく、
何人もが手を繋いで張り付けるほど太い幹です。
 
今回再訪して初めて実感できたことがあります。いえ妄想に過ぎないのですが、
横殿宮跡から海沿いの道を北上していたら↓山が積んでた!?
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さらに北上して大山祇神社方面へ左折する時にも↓山が積んでた!?
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三島神は、山がてんこ盛りになった様子を見て、大山積神と名乗り、
山々に抱かれた平地なら自然災害に遭う確率が低いと考えて鎮座したのでは?
 
…で、そこに先住していたのがワニ氏ではないかと愚考する根拠の一つが
《薦枕》の歌詞に出てくる「トヨウカ姫」で、香川県三豊市の「高瀬」駅南の
豊中町に宇賀神社姫神が、大山祇神社宇迦神社が鎮座していたこと。
では大三島の「トヨ姫」は?
と言うと、大山祇神社境内社姫子邑神社の真西、宮浦港に面する御串山の
麓に鎮座する阿奈神社ではないかと(残念ながら西日本豪雨により社殿が破損)…。
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本日最初の別宮大山祇神社にも阿奈神社が勧請されていました(阿奈神社)
大山祇神社阿奈神社の祭神をコノハナサクヤ姫の姉イハナガ姫としています。
そして、イハナガ姫とコノハナサクヤ姫をニニギノミコトに差し出したら姉のみ
返されたというのが神話の肝(先住の神が天孫によって葬り去られたことの暗示)
 
「トヨ姫」はワニ博士上陸の地(?)佐賀県では淀(ヨト)姫、対馬では豊玉姫
付会させられることが少なくありません。
豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、真の姿は八尋和邇(やひろのわに)
竜宮に住むと言われています。
 
豊玉姫(ニニギノ命の子ホヲリの妃)の妹 玉依姫(初代神武天皇の母)
磐長姫の妹 木花開耶姫(ニニギノ命の妃)も皇室ゆかりの神とされています。
そういう神話をつくる際、大山積神が磐長姫と木花開耶姫の父とされたのは
朝廷が百済勢力(三島神=大山祇神=韓神)を重視していたことを示すためでしょう。
この話に「阿奈」が加わると、豊玉姫と磐長姫を"姉神"で括りたくなります。
 
そして大三島の東南で瀬織津姫を奉ずる人々を平らげて瀬戸崎を抑えた大山積神
"姉神"を倒して大三島中部西の宮浦の港を手中に収めたのでしょう。
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阿奈神社から湾の奥を臨むと、海に面して立つ大山祇神社の鳥居が見えます。
 
今日の最後に訪れたのは、大三島町台に鎮座する宇賀神社です。
地図上では宮浦の南なのですが、GoogleMapには道がありません。
それで国土地理院のweb地図をiPadに読み込ませて出発したのに
WiFiが繋がらなくなったため拡大できなくなってしまいました。
途方に暮れつつ坂を登ってゆくとバス停が!?
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いや、まさか、この山道に入るわけではありませんよね…?
と逡巡していたら、電力会社のロゴをつけた軽四が細い山道を降りてきました。
その瞬間、スイッチが入り、対向車を交わせないであろう道を登り始めたのです。
最初のカーブを曲がると鳥居が見えました!
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四輪の轍があったのは最初だけです。
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ガードレールがあったのも最初だけ。
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最初立て続けに鳥居が二つあったので、三ノ鳥居ということになりましょうか?
バス停から4分ほど上がったところですが、とうとう道幅が約1.5mに!?
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ここからはもっと道幅が狭まり、1.3m程度? と思えてきました。
そして更に6分ほど走ったところで万事休す…。
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道幅が約1mになった上、勾配が急になったのです。
冒険野郎の私も、もはやこれまで。バイクを停めて階段を上りました。
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鳥居扁額に宇迦神社とあります。もちろんこれだけでワニ氏と関連づけることは
できませんが、情報を一つ一つ拾い集めることが大切なので。f:id:YumiAIKAWA:20191210035428j:plain
拝殿が開いていたので声をかけさせて頂きましたが返事がありません。
でも無人とは思えませんよね?
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ここは、さっきバイクで登ることを断念した急勾配の最終地点です。
徒歩で登ってホントによかったです。命拾いしました!
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さ、何とかバイクを方向転換させて下りましょう。
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今までの旅で一番身の危険を感じた場所に建つ宇迦神社でした。
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急勾配ゆえ、なかなかカメラを取り出せず、かなり下ってからの一枚。
ここから更に南下して海岸線沿いの道に出たら、ひたすら東進です。
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15分ほどで、左に大三島橋、右に伯方・大島大橋が見える位置まで来ました。
あとは来た道を戻るのみです。
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16:16、大三島橋を渡ります。
この調子で走ると来島海峡大橋あたりで夕日が見られそうです。
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16:46、来島海峡大橋と夕日が見られました。
 
喘息発作で催眠がとれず体調がすぐれない中、ありったけの薬を携えて
HONDA Giornoに乗り、8時間の演奏修行旅を無事に了えられたことに感謝。