この両者がつながっているのかいないのか、まるでわかりませんでした。
「日本建国の神、大山積大神を祀る神社で、
とありますが、こんなことを書いて大丈夫なのでしょうか?
御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみやうじん)と称しています」、
創建時期は不明だが、古くより三島の地に鎮座していたとあります。
松山市公式観光Webサイトは
言い伝えもあったようです。
しかし
その大山祇神社に樹齢2600年と伝わる御神木「大楠」があります。
境内中央にそびえる「大楠」は当社を創祀した乎知命が手植えしたのだそうです。
ちょっと待って下さいよ。
とあり、淀川沿岸の三島鴨神社の社伝にも
もう一つの三島鴨神社の論社も
「全国に数千ある三島神社の発祥の地」
と主張しています。
2600年前に楠を手植えしたと結論づけられるのでしょうか?
それとも「樹齢2600年」が盛り過ぎってことですか?
いずれにせよ上記の複数の説を否定できる根拠を示さない限り、
「樹齢2600年と伝わる御神木を乎知命が手植えした」
との記述はお笑い種でしかありません。
てんこ盛りにすればするほど常識人の気持ちが離れるとは考えないんですかね。
私個人は、現時点で
という説に反論する材料を持ち合わせていません。
どんな氏族がどんな祖神を祀っていたのかということが気になります。
それが判れば、さらにそれ以前は? と飽くなき好奇心が湧いてくるわけですが。
そして宮中に百済渡来の韓神が祀られ《韓神》という神楽歌が作られたことも。
また、その歌詞から、大山積神=三島神=韓神と推測できそうなことも。
今治市内でレンタルバイクを探しました。
「橋の上を走ると市街地よりもずっと寒く感じますから防寒を万全にして
お出かけくださいね」とお声がけ頂き、重いムートンジャケットで来ました。
今朝、2月以降何度も阿讃山脈を走った雪だるまダウンコートを着てみたら
軽くて温かいどころかスカスカで、だからカイロを6つ貼っても
ガタガタ震えたのか…と今更ながら己の愚かさに呆れ果てました。
ただ、長時間走るのに、重いムートンジャケットだと肩が凝りそうで
2月3月は伸縮性があって動きやすいダウンコートを選んだのでした…。
創建されたとのことですが、後述する大山祇神社の創祀に照らすと
…と考えながら走っていたら、突然、左手に巨大な鳥居が!?
バイクは正面から入ることができないので、裏の大山祇公園から撮影。
別宮大山祇神社の本殿隣にある紅く塗られた小さい社は阿奈婆神社です。
現在の地図では漢字表記が違いますが(いつ表記が変わったのかはわかりません)、
大三島の阿奈波神社へも行ってみなくてはなりません。
来島海峡大橋を渡りたいのですが、まさかこんな道を通るとは思わず、
同じ道をグルグル回ってしまいました。
左にタンカー、右が↓これということは、今治造船内の道ではないのでしょうか?
ここを抜けて左折したら来島海峡大橋への道が見えました!
やれやれ…です。実はナビに遠回りさせられてました!?
うわぁ〜いよいよ渡りますよ。途中、すれ違った原付は4台(帰りは7台)でした。
↓は来島海峡大橋を降りてから振り返って撮ったものです。
しかし、来島海峡大橋って第1-3を合わせると 4,045m?! どうりで長いはずだ…。
この橋の立派さが脳裏に焼きついたせいか、
次の伯方・大島大橋の入り口がわからず右往左往してしまいました。
途中までは「自転車・原付」と表示されていたのに、気づいたら
「自転車・歩行者」となっていたので引き返しました。
地元の方にお尋ねしたら「そのまま自転車と同じ道に入って下さい」と言われ喫驚!?
来島海峡大橋は「原付」と「自転車」は別だったので。
↑あの橋なんですけどね…。
ホントだ! 「原付」と「自転車」は同じ道だったんですね…。
さっき学習したし、ここにはちゃんと「原付」と「自転車」の表示がありました。
大三島橋への道ですが、まるで山にでも登るような感じ。
そうそう、この橋です。ここを渡れば大三島。
ただし横殿宮が現在の横殿宮跡へ遷ったのは元正天皇養老2戌午年(718)で、
それ以前は「みたらしの水」に鎮座していたというのです。
「みたらしの水」は瀬戸内海沿いにあり、現 横殿宮跡と200mも離れていません。
は? これが横殿宮跡ですか…。
あとから取ってつけたような祠が一つ!?
再度、「みたらしの水」に戻って考えました。
妄想を逞しくすると、
大山積神は瀬戸内海の要所(港)を抑えろとの勅命によって「みたらしの水」の
ここで決定的とも言える年代が出てきました。
あの「樹齢2600年の大楠」を乎知命が手植えした可能性はゼロです!
もし「樹齢2600年」が正しいなら、大山積神に追われた先住の神が居たはず。
またしても妄想タイムです。
古墳時代以前にこの地を治め、九州〜大和をつなぐルートを確保していた
氏族が居たとしたら、まずワニ氏の可能性を考えたい私。
ワニ氏遺跡が密集する西讃地区(香川県西部)があるからです。
西讃には「高瀬の淀」「豊岡(とようか)姫」など、神楽歌《薦枕》で歌われる
ワードが地名や社名として残っていました。
すると、大三島にも「トヨ姫」「ウカ姫」を祭神とする神社があったかも?
こちら、まるで弁財天のような立地の宇迦神社。
手前には、またまた大袈裟な「日本最古の楠」!?
樹齢3,000年なんて、熊野本宮の奥宮 玉置神社へ行けば何本も見られますが?
しかも、こういう、割れて広がったり傾いたりしたような形状ではなく、
何人もが手を繋いで張り付けるほど太い幹です。
今回再訪して初めて実感できたことがあります。いえ妄想に過ぎないのですが、
横殿宮跡から海沿いの道を北上していたら↓山が積んでた!?
さらに北上して大山祇神社方面へ左折する時にも↓山が積んでた!?
三島神は、山がてんこ盛りになった様子を見て、大山積神と名乗り、
山々に抱かれた平地なら自然災害に遭う確率が低いと考えて鎮座したのでは?
…で、そこに先住していたのがワニ氏ではないかと愚考する根拠の一つが
では大三島の「トヨ姫」は?
麓に鎮座する阿奈波神社ではないかと(残念ながら西日本豪雨により社殿が破損)…。
返されたというのが神話の肝(先住の神が天孫によって葬り去られたことの暗示)?
付会させられることが少なくありません。
竜宮に住むと言われています。
磐長姫の妹 木花開耶姫(ニニギノ命の妃)も皇室ゆかりの神とされています。
この話に「阿奈婆」が加わると、豊玉姫と磐長姫を"姉神"で括りたくなります。
"姉神"を倒して大三島中部西の宮浦の港を手中に収めたのでしょう。
阿奈波神社から湾の奥を臨むと、海に面して立つ大山祇神社の鳥居が見えます。
今日の最後に訪れたのは、大三島町台に鎮座する宇賀神社です。
地図上では宮浦の南なのですが、GoogleMapには道がありません。
WiFiが繋がらなくなったため拡大できなくなってしまいました。
途方に暮れつつ坂を登ってゆくとバス停が!?
いや、まさか、この山道に入るわけではありませんよね…?
と逡巡していたら、電力会社のロゴをつけた軽四が細い山道を降りてきました。
その瞬間、スイッチが入り、対向車を交わせないであろう道を登り始めたのです。
最初のカーブを曲がると鳥居が見えました!
四輪の轍があったのは最初だけです。
ガードレールがあったのも最初だけ。
最初立て続けに鳥居が二つあったので、三ノ鳥居ということになりましょうか?
バス停から4分ほど上がったところですが、とうとう道幅が約1.5mに!?
ここからはもっと道幅が狭まり、1.3m程度? と思えてきました。
そして更に6分ほど走ったところで万事休す…。
道幅が約1mになった上、勾配が急になったのです。
冒険野郎の私も、もはやこれまで。バイクを停めて階段を上りました。
鳥居扁額に宇迦神社とあります。もちろんこれだけでワニ氏と関連づけることは
できませんが、情報を一つ一つ拾い集めることが大切なので。
拝殿が開いていたので声をかけさせて頂きましたが返事がありません。
でも無人とは思えませんよね?
ここは、さっきバイクで登ることを断念した急勾配の最終地点です。
徒歩で登ってホントによかったです。命拾いしました!
さ、何とかバイクを方向転換させて下りましょう。
今までの旅で一番身の危険を感じた場所に建つ宇迦神社でした。
急勾配ゆえ、なかなかカメラを取り出せず、かなり下ってからの一枚。
ここから更に南下して海岸線沿いの道に出たら、ひたすら東進です。
あとは来た道を戻るのみです。
16:16、大三島橋を渡ります。
この調子で走ると来島海峡大橋あたりで夕日が見られそうです。
16:46、来島海峡大橋と夕日が見られました。
喘息発作で催眠がとれず体調がすぐれない中、ありったけの薬を携えて
HONDA Giornoに乗り、8時間の演奏修行旅を無事に了えられたことに感謝。