「塩飽(しあく・しわく)」と呼ばれてきました。
今は瀬戸大橋があるので古代とは景色がまるで違いますが。
こちらは昨日見に行った大槌・小槌と、小槌に近い大崎ノ鼻。
槌ノ戸瀬戸は深いと古代から言われていたのは事実だったようですね。
撮影しようとしたら、たいてい大きな船が航行しています。
↑の画像は、さっき瀬戸大橋の西側を走る本島フェリーから撮りました。
櫃石島、本島、与島、手島、広島、牛島、高見島を「塩飽七島」と
呼びますが、この中で私が訪れたことがあるのは本島だけ。
フェリーに乗ったのは、もちろんZOOMERで本島を走るためです。
本島フェリーで現実味があったのは、10:40 丸亀発→11:15 本島着。
帰りが12:35 本島発→13:05 丸亀着なので1時間余り滞在できます。
帰省直前まで、15,16,17日は雨の予報だったので無理かもしれないと
思っていましたが、14日に予報が晴れに変わり、連日33℃ !!
でも船旅は快適でした。
宇多津を見られたことも良かった…。
↑画像左端が私の子供時代の遊び場 聖通寺山で、画像右端が青ノ山。
2つの山に挟まれた真ん中が宇多津町ということになります。
左端の聖通寺山の右奥に見えるのが宇多津の「津ノ山(現在は角山)」で、
その麓から青の山の左に見える「讃岐富士(飯野山)」の裾野辺りまでが
かつての宇多津の「津ノ郷(津之郷)」。
古くはその手前まで遠浅の海が広がっていたと言われています。
町の形が今とは全く違いますね…。
さて、その宇多津に生を享けた私は、幼稚園から小学校の低学年にかけて
地域の子供会で毎夏本島まで海水浴に行ってました。
しかし乗るのは平山地区に隣接する北浦地区でチャーター(?!)したポンポン船。
北浦からは本島が見えているのに、指を海に浸けながら走れる
ポンポン船なので、とても時間がかかり、船酔いもしました。
ああ、あの砂浜ですね! かなり大きな海水浴場で、人出も多く、
泳ぎ疲れると砂浜の奥の神社で涼んでいました。
ここです! でも今は砂浜と神社の間に道路が2本も横切ってます!?
55年も前の話をするなと叱られそうですが、ちょっとショックでした。
しかも道路沿いにはフェンスが張り巡らされていて、海水浴場の入口は
狭い石段になっていました。変われば変わるものですね…。
で、神社の名前が「こがらす」?!
宇多津の「津ノ郷」にある讃岐最古とも言われる宇夫階神社元宮の
現 九頭神社にも「こがらすさん」が鎮座してるんですけど?
思わぬところで重要なキイワードに出合ってしまいましたねぇ…。
同じ海人族として、共通の祭祀があったのかも知れません。
ちなみに鞆の浦には割と新しい小烏神社(通称「こがらっさん」)があります。
船上では、こんぴら詣りにも思いを馳せました。
左隣が象頭山です。
🎵金毘羅船々(こんぴらふねふね)
追風(おひて)に帆かけて シュラシュシュシュ
まはれば 四国は 讃州 那珂の郡 象頭山(ぞうづさん)
金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん) 一度まはれば🎵
いつも近くから見ていたせいか、象の頭のイメージがなかったのに
遠くから見ると、まさしく右に長い鼻を伸ばした象の頭でした!
こんぴら詣りが盛んだった江戸時代、上方などから船で訪れた人々は
象の頭に似た形の山を見て船上から伏し拝んだりしたでしょうか。
今回、本島行きを決めたのは「人名(にんみょう)」に興味があったからです。
塩飽諸島には古来から造船、操舵などにすぐれた人々が住んでいて、
彼らの能力を頼りにする権力者も少なくありませんでした。
与えて厚遇したとされます。
「大名」制度に対する「人名」制度?
船方一人一人を小さな「大名」として扱ったということなのか、
「人名」は土地や周辺海域の漁業権を持っていました。
そして「人名」制度の特権は徳川幕府にも引き継がれたのです。
現在も本島の泊・笠島両地区と与島に人名の子孫らでつくる"人名会"が
存在するそうです。泊とはフェリー乗り場や木烏神社があった地区です。
笠島は少し離れていますが、そこへ行くためにZOOMERで来たのですから
何としても行きます! と張り切っていたものの、やはり迷いました。
「塩飽勤番所跡」の先の二股で、海沿いの道を選んだのです。
どの道も狭かったので、遠回りでも瀬戸大橋が見られればと…。
しかし海沿いの道はずっと防潮堤が設置されていて眺望ゼロ!!
どうしたものかと案じていたら唐突にバス停があったのでそのまま
進みますと…行き止まりでした。
やむなく引き返し、地図を眺めつつ北上しました。
おおお…笠島港のバス停ではありませんか!!
近くに「人名」の人たちが住まわれていた地区がありました。
が、人様のお宅を覗き込むような真似はできないので、地図にあった
尾上神社を探すことに。しかし、道が載ってません…。
ここじゃないかな? と思う路地を見つけました。
後ろは笠島港で、大槌島が見えています。
直進すると、右手に一段高い広場がありました。
対馬の例を考えると、古代はここまで海がきていたかも知れません。
そして↑画像右手の看板には芝居小屋があったと書かれていました。
上からこの位置を撮ってみますと、たしかに傾斜があります。
かつて江戸時代には上方でかかった芝居がいち早く瀬戸内海に来たそうです。
役者や小道具などを載せた船団が沖にさしかかると合図がくるので
島からは旗などを立てて上演を希望するかどうかを伝えるシステムでした。
ただし、断った場合、太鼓を叩いたりして島の周辺に魚が来ないよう
嫌がらせをされたと言いますから、とんだ災難ですね。
芝居小屋があった位置から奥を見ると、小高い場所に神社がありました。
どんどん階段を上がりますと、想像以上に立派な社殿でした。
案内板があったので助かりました。「組合立」学校までは調べられませんので。
そして「人名」の石碑!?
笠島地区の"人名会"会長は「今では配当はほとんどありませんが、
(共同所有する山林などの収益の配分を目的とした)"人名株"は保存してます。
台帳に持ち主を記載して株を管理し、年に一度は総会も開いています」と
説明しておられますが、明治以降"人名株"を売買された方もあって、
「人名」の子孫であることを知らない人も少なくないそうです。
私はたまたま高校時代に「人名」の末裔が同じクラスにいて、
NHKが特集した「人名」の番組を観たこともあって興味を持ちました。
"勤番所"顕彰保存会長は「人名は土地を持っていたため、下級武士とは違う
という意識もあった」と仰っており、実際に"人名株"を持たない漁師らを
「間人(もうと)」と呼んで差別していたそうです。
明治3年に「藩制改革により塩飽の領知高を没収し、朱印状はこれを還納すべし」と
命じられた「人名」は、塩飽全島を領有し、長く国家に貢献したとのプライドから
政府に対して旧藩主や士族に準じた補償を求め、明治13年に2,300円余の一時金が
支払われたものの、それ以降は一切の請願を認められませんでした。
土地からの収入がなくなった後は、漁業権を持っていた周辺海域の
「海の地主」として下津井の漁師らから入漁料を取っていたそうです。
ここで前項の「樽流し伝説」よりも強烈な海の領有権に触れておきましょう。
年貢もなく、藩にも属さず、塩飽海域の漁業権を独占してきた「人名」は
「塩飽七島」に飽き足らず、1645年に、下津井の眼前にある
六口島、松島、釜島の領有権を主張し始めたそうです。
この三島は備前藩の所有と認められましたが、
備前と讃岐の領海争いを樽を流して決着させたという伝説など
「人名」の力の前にはメルヘンのようなものだったとわかります。
あと、今回は大発見がありました。
「両墓制」は対馬で初めて知ったシステムです。
対馬と同じシステムなら、前項の豊島・男木島・女木島の祭神とも繋がりますね。