藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

朝ドラ『エール』のモデル古関と山田

朝ドラ『エール』の放送内容に関連して、
ドイツに留学し、日本人ではじめて交響曲を書き、ニューヨークの
カーネギーホールで演奏会も成功させた山田が、いかに優秀とはいえ、
親子ほど年齢が離れた、田舎の一青年を恐れていたとはやはり断定し
にくいでしょう」「山田(耕筰)は、いろんな意味で、もっと大物だった
とのご意見があるようですが、実態とはかけ離れているように感じます。
明け透けに言えば、
山田(耕筰)は、音楽活動にせよ、女性関係にせよ、借金問題にせよ、
犯罪行為ギリギリの修羅場を生きた作曲家
であったことが、当時の資料で確認できます。
 
東京藝大の前身東京音楽学校についても整理しておきたいと思います。
東京音楽学校優秀説(?!)に疑問を感じているため。
 
日本の"音楽"教育は明治5年8月2日(1872年9月4日)太政官より発せられた
「学制」に始まりますが、発布後に伊沢修二アメリカに派遣する始末で、
実施までの道のりが簡単なものではなかったことが容易に推測できます。
伊沢修二は東西二洋の音楽を取り調べる「音楽取調掛」に任ぜられました。
 
15年後の1887年10月4日、「音楽取調掛」伊沢修二以下7名連署
音楽学校設立ノ儀ニ付建議」が提出され、伊沢は事実上の初代校長に就任。
ところが、1890年5月12日開校の東京音楽学校は、翌91年に始まる帝国議会での
存廃論議を受け1893年6月に高等師範学校へ移管、附属学校に格下げされました。
再び独立したのは1899年で、翌1900年から敗戦後の1952年まで存続しています。
 
その東京音楽学校に作曲部(科)が設置されたのは昭和6年(1931)ですから
滝廉太郎にせよ、山田耕筰にせよ、作曲部を卒業したわけではありません。
しかも東京音楽学校の作曲教員だからといって全員がオーケストラ曲を書けた
はずもなく、同校作曲部の設置に尽力した信時潔(1887-1965)は別格でした。
名を売ることに長けた山田耕筰(1886-1965)は同校本科作曲部に関わっていません。
(こんな不良債権かかえたら、いつどんな問題を起こして廃校に追い込まれるかわかりませんからね…)
天才と呼ばれた橋本國彦(1904-1949)昭和4年4月から東京音楽学校研究科で作曲を
専攻していますから、本科に作曲部が設置されたのが昭和6年なのでしょう。
 
橋本國彦が東京音楽学校研究科に進んだ昭和4年(1929)
二十歳の青年が独学で書き上げたオーケストラ曲をイギリスへ送りました。
翌年、その作品を審査したストラヴィンスキーからフランス語で書かれた
私信が届いたというのは、日本の楽壇にとって"大事件"でした。
いきなり現代音楽界のビッグネームが登場したわけですから
東京音楽学校作曲部としては出鼻をくじかれた格好になりました。
明治24年帝国議会における存廃論議が再燃しないかとヒヤヒヤしたかも?
 
この青年が『エール』のモデル古関裕而(1909-1989)で、橋本國彦とは共に
実力を認め合う仲でしたが、信時潔や橋本國彦といった東京音楽学校教授が
山田耕筰を認めていたなどという話は聞いたことがありません。
自己宣伝と、世間の評価と、専門家の評価は一致しないのが世の常です。
 
ちなみに朝ドラでは志村けん氏と柴咲コウ氏に約30歳の実年齢差があり、
あたかも山田耕筰が"黒幕"というか"大御所"のように描かれていますが、
実際は山田の東京音楽学校での声楽の師が2歳年上の三浦環(1884-1946)でした。
1900年に東京音楽学校予科に入学し、1904年に本科を卒業した三浦環
研究科に進むと同時に声楽を教えることになりました。
教員が不足していた当時、優秀な卒業生には「授業補助」の辞令が出されたのです。
山田と同じ1908年に本科を首席で卒業したのは《七つの子》《赤い靴》などの
作曲で知られる本居長世(1885-1945)で、「邦楽調査員補助」として母校に残り、
翌1909年の器楽部ピアノ「授業補助」を経て助教授になっています。
 
他方、山田耕筰は1917年にニューヨークへ渡り、カーネギーホールを借りて
音楽会を催したもののスポンサーに逃げられて楽団員へのギャラも払えず、
お縄になりそうなところを、シカゴの慈善家チャドボーン夫人から届いた
小切手に救われ、御礼に『百人一首』から五首の閨秀歌人の和歌を選んで
作曲した歌曲集《幽韻》をプレゼントして"凱旋"しています。
 
国内でもオーケストラを潰すなどして、金策に追われた印象ばかりが残ります。
1910年に三菱財閥の岩崎小弥太男爵(1879-1945)の支援を得、足かけ4年にわたる
ベルリン留学から帰国した山田は、岩崎氏が設立した東京フィルハーモニー会の
指揮を任されるも、女性問題で岩崎氏の怒りを買って資金源を断たれ、
僅か1年でオーケストラ解散の憂き目に遭っています。
1925年には近衛秀麿(1898-1973)と協力して日本交響楽協会を設立するも、
翌26年9月に不明朗会計による内紛で近衛以下楽団員44名が脱会し、
交響楽団(N響の前身)を設立。山田は莫大な借金を抱え茅ヶ崎へ転居しました。
 
古関裕而のニュースが新聞に出た1930年といえば、借金返済のため茅ヶ崎
企画した『童謡百曲集』の作曲を終え、楽譜販売で窮地を脱しようと試みた
時期でしたが、いわゆる"童謡"の全盛期はすでに終わっていました。
山田が選んだ詩の幾つかは本居長世作曲《俵はごろごろ》《お山の大将》、
中山晋平作曲《兎のダンス》《砂山》、近衛秀麿作曲《ちんちん千鳥》等との
競作となり、勝負を挑んだものの、ほぼ全敗でした。百曲中、メロディーが
浮かぶのは《赤とんぼ》《この道》《砂山》くらいでしょうか。
 
そんな山田の楽譜を学生時代からせっせと購入していたのが古関裕而です。
しかも自作を山田に送って指導を仰いでいました。
古関は川俣(銀行)時代に、ロシア正教の聖歌を学ぶためペテルブルクの音楽院に
留学した金須嘉之進に作曲を師事しただけで、音楽学校では学んでいません。
にも拘わらず、ほぼ独学で作曲したオーケストラ曲がイギリスのコンクールで
審査員に認められたとなると、税金を注ぎ込んで東京音楽学校に作曲部を
設置することに反対する国民が増えないとも限りません。
 
古関裕而は、たった一人で東京音楽学校優秀説(?!)を覆せる存在だったのです。
東京音楽学校関係者にとっても、困窮していた山田耕筰にとっても、いわば
"爆弾"のようなもので、その登場を歓迎する作曲家が居たとは思えません。
 
東京音楽学校教授らに総スカンを食らいつつも、世間では官学派の代表の
ごとく振る舞っていた山田が、のちのち目の上のたん瘤になりかねない
古関を早々に日本コロムビアに推薦して"流行歌"の世界に封じ込めたのは
まだ誰も古関作品を知らない当時、山田だけはそのレベルを知っていたから
…というのが私の考えです。
これが歴史的事実であると書いた覚えはありません。
もちろん、いつの日か証拠を掴んで"山田耕筰陰謀論"を書きたいものですが。
(よほどの間抜けじゃない限り、そんな心情を日記に書き残したりなどしていないでしょうね…)
 
1963年に安田火災海上保険社歌、1964年に仁川学院学院歌を作曲した山田は
1965年にその生涯を閉じます。死の前年、1964年の東京オリンピックに際して
当代随一の作曲家と認められた古関裕而が作曲し、開会式直後に世界各国から
「誰の作曲か?」と問い合わせが殺到したという《東京オリンピックマーチ》を
山田はいったいどんな気持ちで聴いたのでしょう? 興味深いことです。
 
なお、山田耕筰の仕事に関して、最も人口に膾炙した《赤とんぼ》を
山田耕筰の代表作と言って憚らない日本の音楽教育界やマスメディアの
姿勢には疑問を禁じえません。
すでに吉行淳之介が1981年に『赤とんぼ騒動』(文藝春秋)なる一文を
発表していますので、その一部を引用させていただきますが、
まずは、1959年に山田が『教育手帖』(第97号)に書いた
「思い出と解説」の一部をご覧ください。
 
この歌ほど、私の名を大衆的にしたものはあるまいと思います。
ある夏、管絃楽団を引き連れて北海道演奏旅行の途次、ところは札幌でした。
私は宿屋の縁にすわって、出演のしたくをしていました。
するとどこからともなく、とても澄んだかわいらしい声で
「赤とんぼ」の節が夕べの風にのって聞こえてきました。
私はこの美しい旋律にすっかり魅了せられて、思わず
「いい節だなァ!」と、独語したものです。
すると、私の背後にいた楽員たちの中から、
低い声でふしぎなことばが聞こえました。
「オヤジうぬぼれてるな。」
よく考えてみると、それは私自身が生んだ節でした。
 
作曲したのが1927年で、その後、忘れていたわけですか?!
それなのに、2年後の1961年9月、『文藝春秋』に掲載された山田の
「赤とんぼの幻影よサヨナラ!」には「息子同然」と書いています。
 
最近色々な雑誌や新聞紙上に私の旧作童謡「赤とんぼ」が論議
対象として世間を賑わせた。七月のはじめ頃であった。
ある名古屋の新聞社から電話で、
あなたの「赤とんぼ」はドイツの古い子守歌だそうだ、と言うような
事を石原慎太郎君が「中央公論」誌上で発表しているのですが、
それに対してあなたはどう思われますか、と言うのであった。
「赤とんぼ」は三十七年前(正しくは34年前)の私の旧作で、今ではもう
日本の民謡の一つとまで言われて国民に愛唱されている曲だ。
むしろ私の「からたちの花」や「この道」よりも大衆には親しまれて
いるのだ。つまり私の息子同然と思われている曲なのだ。
(中略)
漸く暇も出来たので、一応石原君のエッセイを拝見したのである。
(エッセイ引用部分の内容は後述)
この文章を見て私の感じた事は、これはアルコールの醸し出した
一つの空気からこぼれでた喜劇でしかない。
(中略)
七月のはじめから一応紙上を賑わした「赤とんぼ」論争も、
たわいもない悲喜劇的幻影となって遠く消え去ってくれるであろう。
 
ところがどっこい、吉行淳之介が20年後の1981年に以下の文を書きました。
吉行氏は
特定の音楽が耳に入ると、心因性のゼンソク発作を起すケースがあって、
その実例のところに「シューマンのピアノコンチェルト」という
文字を書いたことで、レコードを購入し、B面を聞いていたら
「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロから
突然「赤とんぼ」のメロディが飛び出してきたことを
いろいろの人に話したが、興味を示す人と、ほとんど無関心の人と、
二通りあるのが面白くおもえた。そうです。
 
吉行氏のレコードを聞いた人に話を聞いた夕刊フジ』のカネやんなる
人物がその新聞のほぼ一ページ分を使ってそのことを紹介しました。
……
「何ともロマンチックで典雅な序奏部分が終って間もなく、
時間にして三分後、名手アシュケナージのピアノがポロンポロンと
おなじみの《赤とんぼ》の曲をかなでる(吉行註、前半部分のみ、つまり、
夕やけ小やけの赤とんぼ、のところまでの繰り返しで、赤とんぼの「ぼ」だけ音程が違う)
と書き、「つづいてフルートで二回、六分後また、七分後にはやや
変奏されて、そして九分後には、弦でまぎれもなく四回、十二分後
ピアノで四回、十五分の演奏時間に十八回」とは、くわしく調べたものだ。
……
「えっ山田耕筰さんが盗作!?」なんていう小見出しも付いていた。
この記事が出て三日後、同じ新聞に関連記事が出た。
石原慎太郎氏が二十年ほど前、友人のドイツ人と一緒のとき、
《赤とんぼ》の曲が流れると、「これはドイツの古い民謡だよ」と
そのドイツ人が言い出し、「いや、これは日本の有名な作曲家のものだ」
という石原氏と意見が対立したそうだ。
そのことを石原氏が随筆に書いたところ、当時存命の山田耕筰氏から
強い抗議がきた、という。
……
音楽関係者は、「音符は七つしかないので、その組み合わせには
限りがある。似てしまうのも仕方がない」という言い方をする。
しかし、その限られた音符が使ってあるのに、曲を聞いてすぐに、
「これはバッハ」、「これはドビュッシー」と判別できることのほうを
強調してもらいたい。
……
それにしても、発表した小説の半分が先行作品にそっくりであったと
したら、これは大問題になるだろう。
 
ちょっと引用が長すぎましたね。
…で、私が山田耕筰を評価できない理由の一つが、
とんぼ」のメロディーで「」の音が高くなっているのは
標準語の高低アクセントに照らすと違和感があると言われた時、
「江戸弁のアクセントにしたからだ」などと強弁した点です。
ちなみに『新版日本語発音アクセント辞典』(NHK出版)では
「伝統的なアクセント」として紹介されています。
ならば、他の歌詞も全て「伝統的なアクセント」に則って
作曲したと言えるのでしょうか?
 
1番2番3番4番…と異なる歌詞を同じメロディーにのせて繰り返す
有節歌曲」の場合、全歌詞の高低アクセントを揃えることは困難なので、
とんぼ」と同じ箇所の「にゆき」も「伝統的なアクセント」ですか?
などと突っ込まれたら堂々巡りになりかねません。
まさかシューマンの曲を参考にしたとは言えなかったのでしょうけど、
ドイツの古い民謡だったら著作権も無いし、「本歌取りしました」と
言ってしまえば、吉行淳之介に書かれることもなかったのに…。