長いあいだ神楽歌《薦枕》のことを書いてきて、やっとこさ薦神社へ。
台風14号の影響で、ここ二、三日、九州への空の便は欠航が続きましたが、
私が予約した便は大丈夫そうです。
しかし遅延すると、接続の新幹線および特急に乗れません。
日程が一泊二日しかとれなかったため、ギリギリのスケジュールを組んでます。
当初、大分空港へ飛ぶつもりでしたが、中津まで行くとなると
福岡空港からの方が早いとわかりました。
何度か使った新幹線〜特急ソニックで行くルートです。
以前、宇佐神宮と奥宮のある御許山へ行った際、薦神社へ寄ろうとしたら
御許山麓からタクシーで1時間かかると聞き、断念したこともありました。
さて、羽田空港で楽器に保険をかけ、搭乗口68へ行ったら
機材の整備不良で搭乗機が変更になっていました!?
新しい搭乗口は60ですとアナウンスされ、トボトボ移動した道の遠いこと。
直前に通過した保安検査場Cを通り越し、次の保安検査場の先でした。
最初は20分遅れで出発なんて言ってましたが、もう40分経ちました。
この先、滑走路まで何分かかるのか、滑走順がどうなるのか…
福岡空港ですぐ着陸できるのかどうか…全くわかりません。
昨日、この便は定刻より5分早く到着していたのですけれど…
今日は結局50分遅れで出発しました。
博多駅から何本遅れかの新幹線に乗ろうとしたら始発の「のぞみ」は自由席が
ほぼ満席だったので、4分後に発車する「さくら」を待ったらガラガラでした。
どちらも小倉で同じソニックに接続します。
そして、小倉からのソニックは指定席にしましたが、こちらもガラガラ…。
中津駅からは、タクシーで薦神社へ向かいました。
薦神社は内宮=御澄(三角)池、外宮=社殿、そして頓宮から成るようです。
地元では奈良時代に街道を整備した折、川を堰き止めて池にしたとの説が
ありますが、ならば薦枕を御神体とする祭祀はいつ始まったのでしょう?
薦神社HPの由緒に
『八幡宇佐宮御託宣集』によれば養老4年(720)三度目の反乱を起こした
真薦で造った枕状の八幡神の御験を乗せた神輿を奉じて鎮圧に向かったとされます。
とあります。
しかし、薦神社の創建は承和年間(834-848)なんです。
池だけがあって真薦が自生していたのでしょうか?
薦神社HPの由緒の続きに
宇佐宮の祢宜 大神諸男は三角池の前にて祈願をした処、池一面に波が湧きかえり
雲の中から「我、昔(三角池に自生している)この薦を枕とし百王守護の誓を起こしき。
百王守護とは凶賊を降伏すべきなり」とご宣託を頂きます。
そしてこの真薦こそ神の依り代にふさわしいと持ち帰り体を清め
自ら御験の制作にあたりました。
ともありますが、いったいいつの時代のことなのでしょう?
薦神社の駐車場に着くと、運転手さんにあの橋を渡るよう言われました。
ふつう人は神橋を渡っちゃいけないと言いますが、すぐ左に屋根付きの
立派な御神橋があるので構わないようです。…で、川はこんな感じ。
ともかく今日は日没との競争なので池を探して走ります。
左手が池のようですね。
17時過ぎにしては明るく見えます。
池をぐるっと一周できそうな感じ。走っている方もおられました。
ただ、鳥居の正面に立ってみると、宇佐神宮と薦神社の祭祀は
縄文以来の海人族の贄の風習に倣って薦枕を作っただけなのかも?
という気がしてきました。何しろ池の歴史も両社の創建も新し過ぎます。
とはいえ、奈良時代に川を堰き止めて「池」にしたのが本当なら
約13世紀経ってますから、それなりの雰囲気はありますよね。
現地に足を運んでみることは大事です。
残念ながら、今日はずっと曇っていたらしく、この時すでに日没に近い
17:20ですから、このような画像しか撮れませんでした。
ところで、この鳥居からは何を遥拝しているんでしょうか?
むしろ県境(大分と福岡)の最高峰で、八女津媛神社の鎮座する
釈迦岳(1,230m)なのかという気もしますが…わかりません。
タクシーへ戻る際、引き返すのと反対方向に看板が見えました。
よく言われる「宇佐八幡の元宮」説ですが、宇佐八幡の創建が725年だとしたら
承和年間(834-848)に創建された薦神社が「元宮」であるわけがありませんよね?
ここにはまた、非常に重要な記述がありました。
「当時、大陸の技術をもつ渡来人によって」三角池が造られたというのです。
「宇佐の神を奉じた人たちは古代日本の産業、文化を担った渡来系の一族で、
北九州から中津、宇佐地方に移動してきたと思われる。
彼らは朝鮮半島から当時の最先端技術を持ち込んだ、今でいうハイテク集団だった。
それを生かして建設したのが御澄池であり、それを核にして周辺に大池をはじめ
大小数多くのため池を造った」とありました。
やはり、伝統的な海人族の贄の祭祀とは別ものっぽいですね。
それ以前に、当地には《薦枕》の神楽歌にある「高瀬の淀(高瀬川)」がなく、
近くに「大字高瀬」の地名はあるものの、当社の住所は「大字大貞」ですし、
神楽歌の歌詞=言霊と合致しない場所は古代歌謡の舞台とは言えないでしょう。
さ、急いで宇佐市上矢部を目指します。
663号(万田四日市線)を宇佐に向かって走っていたら、右手に特徴的な
山が見えました。ちょっと四国の屋島に似ています。
「あれは何という山ですか?」
「有名な八面山ですよ。どの角度から見ても同じ形をしてるんです」
「え?! そんなことってあり得ますか?」
と不思議がってみても、運転手さんは自信満々。
検索したら、標高659mの卓状溶岩台地で「箭山」「屋山」とも呼ばれるとあり、
讃岐の屋島は開析溶岩台地とありましたが? 何のことやらサッパリ…。
ひたすら走ること26分。下矢部を通って上矢部まで来ました。
日没時間を過ぎましたが、まだ撮影できますね。
ここが地図に生目神社とも馬城(まき)神社ともある不思議な神社です。
宇佐神宮奥宮のある御許山の西麓に位置し、住所が上矢部とあれば
来ないという選択肢はありません。左回りに振り向くと御許山が見えるはず。
中央奥のテレビ塔がある峰の隣のピークに大元神社が鎮座している気もしますが、
宇佐駅からタクシーで山頂近くまで行っただけで周辺の情報を持ち合わせていません。
境内にこんな案内板がありました。
壇ノ浦の合戦(1185)とはまた、ずいぶん時代が新しいんですね。
しかも「景清」って、日向の生目宮のまんまじゃありませんか!?
この土地と「景清」は無関係でしょう?
ここで、下矢部・上矢部の地名が約600年前に社殿後方の御神体山(標高298m)
山頂部に龍ヶ鼻城を築いた矢部氏の名をとった可能性があることがわかりました。
この看板は色褪せて、ほとんど読めなくなっていますが、
一ノ鳥居は、意外にも百済神たる「大山積」でした。
そして二ノ鳥居が「馬城神社」。
生目神社の鳥居はありませんが、上の看板を見ると社殿がありました。
この右手にある社殿が馬城神社ということになりますが、では「大山積」は?
当社も後世に上書きされたことのみ理解できました。
その立地から大元神社と繋がりがあるかも? と期待して来ましたが、現時点では
約300年前に日向国の生目宮から分霊された神社としてのデータしかありません。
ヤベに関しては更に調査を続け、トベのような
先住民の女首長であった可能性を追及したいと思います。
また、ヤベ・ヤバ・ヤブの語尾変化に注目しているため、
今日はANAのせいで駆け足となってしまいましたが、
とりあえず行きたい場所へはゆけました。
18:01、上矢部 馬城神社の社頭で風に揺れるコスモスがきれいでした。