藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

祖母山と古祖母山

大分県と宮崎県にまたがる傾山(かたむきやま)や大崩山(おおくえやま)など
祖母山(そぼさん)を中心とする山および河川一帯は
1965年に「祖母傾国定公園」に指定されています。
 
祖母山周辺は銅、錫、鉛、マンガン、水晶などの鉱物資源が豊富で、
祖母山山頂の住所(大字)には、元和3年(1617)の開鉱~昭和29年(1954)の閉山まで
日本有数の鉱山として知られた「尾平鉱山」の名前が使われています。
尾平鉱山」の周辺には、大分県側に九折鉱山、木浦鉱山
宮崎県側に見立鉱山、土呂久鉱山などがあったそうです。
 
祖母山の名は、神武の東征軍が紀州沖で嵐に遭遇した際、添利山(=祖母山)
方角を遥拝して無事を祈念したところ海が鎮まったため山頂に祖母嶽大明神を
祀ったことに由来すると言われますが、神話を前提とした話ですからねぇ…。
祖母山の別名を「添利(ソホリ)」としたり、「ソホリ」を古朝鮮語や朝鮮半島
「ソウル」と関連づけたり、百済神たる韓神と同じ外来の「曽富理神」と同神
としたり…、いかにも後づけっぽい感じですよね?
祖母山の神霊の一柱が神武天皇の祖母の豊玉姫命だからというのも安直な気が…。
 
しかし、祖母山の頂に、なぜ健男霜凝日子社(たけをしもこりひこしゃ)という
長ったらしい男神の名を冠した神社があるのでしょうか?
しかも山頂は「上宮」で、北麓には「下宮」があったんですよ。
続日本後紀』には承和10年(843)従五位下、『日本三代実録』には
元慶7年(883)正五位下の神階が授けられたと記録されていますが?
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出ました!! 稲荷社が勝手に名乗って自らの代名詞とした「正一位」。
すると当社は、9世紀には健男霜凝日子社だったけれど、
中世には「正一位 嫗嶽(うばがたけ)稲荷大明神」だったわけですね。
しかも社殿がなくて、往古よりこの位置にあったかどうかも不明…。
 
ただ、振り向くと真後ろに祖母山山頂が少しだけ見えていました。
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当社の約240もの石段を登ると、もっと祖母山の山容がわかるはずです。
けれど、祖母山を中心とする山岳信仰が、はたして古来のままなのか、
新しく組織されたものなのかはわかりません。
ただ、その祭祀は阿蘇よりも古い可能性が高いというのが私の印象でした。
 
先月の旅は、景行天皇がなぜ豊後竹田から西隣の阿蘇へ向かわず、
南下して祖母山を越えて高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町)を通過し、
日向国で設けた行宮(高屋宮)に6年近くとどまって襲国を平定した上で
もう一つの高千穂(宮崎県西諸県郡高原町御池町)を通って人吉へ出て
八代、島原、玉名と進軍しつつ阿蘇へ行ったのか? を考えるためでした。
 
古事記』と『日本書紀』の編纂を企てたのは天武天皇です。
となると、天照大神を中心とする神話や、天孫降臨、神武の東征などの
原作者だった可能性も皆無ではありません。
幼少期に養育を受けた凡海(おほしあま)にちなむ「大海人」の名をもつ天武天皇
九州や、九州から畿内への航路、瀬戸内の島々を熟知していたと考えられます。
それが神武東征のルートになったのだろうとの推論をよく目にしてきました。
その説に与する気など無い私が、日本神話への天武天皇の関与の可能性に
言及したのは、「都は一処(ひとところ)ではなく、二処、三処につくれ」という
天武天皇の持論なら宮崎県に二つの高千穂があることの説明がつくためです。
 
さて、日本神話によれば、阿蘇の外輪山の中は広大なカルデラ湖でした。
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たしかカルデラ湖の水を抜いて田畑を造ろうと考えた阿蘇大明神たる
健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、湖水を堰き止めていた大ナマズ
太刀で斬って湖水を流し去ったんでしたね。
その大ナマズを祀ったという国造神社の鯰宮へも行きました。
しかし、皇軍カルデラ湖に資源を求めて進軍するというのは荒唐無稽な話です。
奪取するなら、阿蘇カルデラ湖よりも鉱物資源の宝庫祖母山でしょう。
祖母山の北西で『日本書紀』に出てこない「緩木行宮」を見つけましたが、
その「緩木神社」(竹田市九重野)の由緒は「宮處野神社」(竹田市久住町)と同じで
景行天皇が禰疑野の土蜘蛛を征伐したときの行宮跡」とありました。
が、「禰疑野の土蜘蛛」を征伐した拠点は「禰疑野神社」です。
日本書紀』には、「宮處野神社で土蜘蛛を討つと決めた景行天皇
鼠の石窟に住む土蜘蛛を襲い、稲葉の川上で仲間を悉く殺した」、
「次に打猿・八田・国摩侶を討つため禰疑山(ねぎのやま)を越えた」とあり、
景行天皇の緩木行宮」は出てきません。
第一に「宮處野神社」「禰疑野神社」「緩木神社」は離れすぎています。
 
しかも私が「緩木行宮」ではないかと着目しているのは
緩木川源流に鎮座する現在の「緩木神社」ではなく、
約2km南東の「祖母山神原登山口駐車場」近くの「緩木社元宮」です。
なぜなら、ここは祖母山登山口の一つであると同時に、
北東に直進すれば健男霜凝日子神社下宮へ行けるんです。
その住所たるや、健男霜凝日子神社下宮や穴森神社と同じ竹田市神原(こうばる)!!
 
実際に地図に拠点を書き込んでみると、征討軍は位置取りが上手ですね。
ただ、現在が紀元2680年で、神武の御代を紀元前660年の弥生時代と仮定すると、
そのとき祖母山の祭祀が確立していたと証明できなければ絵に描いた餅でしょう。
もっとも私がこれまでに読んだ説では、神武天皇天武天皇を重ねた部分が
あるため、7世紀頃のことを描いたらしいというのが一番しっくりきましたが?
 
そんな私は祖母山と同じ「祖母傾山系」の古祖母山(ふるそぼさん)に着目しています。
標高は1,633mと、祖母山の1,756mより低いのですけれど、
神武天皇の祖母たる豊玉姫が、古祖母山に降臨したのち祖母山へ移ったとの
伝承があり、それが山名の由来とされているからです。
この伝承を信じるなら、現在まで祖母山の由緒とされているものの中に
古祖母山の由緒が含まれている可能性も否定できません。
 
一説に、「祖母嶽」と呼ばれていた山が古祖母山と改名させられたのは
豊後南部と日向北部を支配した大神一族が、従来の素朴な山岳信仰の祭神に
自ら祖先神と仰ぐ豊玉姫を「神武天皇の祖母」として加えたためだとか。
大神氏ですって? たしか先月穴森神社関係のページで見ましたね…。
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↑の案内板は、文字が読みづらかったので、ちゃんと読んでいませんでした。
 
この大神惟基は、祖母嶽大明神の御神体との蛇神婚伝説により生まれた
「あかがり大太」として有名なのに、その生涯は明らかになっていません。
実際の出自には諸説あって、
宇佐神宮宮司だった宇佐大神氏の流れ
②仁和2年(886)に豊後介に任ぜられた大和大神氏の分流 大神良臣の孫
説が有力視されているようです。
 
なお、惟基の 5人の息子については、その姓が豊後大神一族が支配した
荘園の名「高千穂」「阿南」「稙田」「大野」「臼杵」と合致しています。
平安時代にこれほど勢力を広げた惟基の出自もわからないとは不思議ですね。
 
大和国大神神社三輪山伝説が九州に持ち込まれた点について、
ほかに、豊後大野郡の緒方郷を本貫とする緒方氏が大神姓を名乗り、
祖母山系の鉱物資源の象徴だった大蛇伝説を三輪山伝説にすり替えて
「緒環」伝説を作り上げることで土着勢力の敗北を内外に示した
との説もありましたが、いかがでしょうか?
 
また、古祖母研究者のあいだでは、祖母嶽大明神と健男霜凝日子社
まったくの別物と考えられているそうです。
神原(こうばる)の下宮は五ケ所村の総鎮守で、
五ケ所村は肥後を本貫の地とする人々の村だったのだとか!?
『日向地誌』には上宮は五ケ所神社とあり、明治16年添利山神社と改称。
下宮は神原神社と称し、のち五ケ所神社(=添利山神社)を山頂から下して合祀し、
郷社祖母岳神社となったそうです。真実ならば、驚くべき実態ですね。
事情のわからない人間は何を信じればよいのやら…。
 
事情のわからないヨソ者としての私は、大分県豊後大野市緒方町
宮崎県西臼杵郡高千穂町の境にある古祖母山の住所(大字)
西臼杵郡高千穂町上岩戸」から、縄文以来の素朴な山岳信仰を、皇軍
古祖母山を天の岩戸と見立てた祭祀にすり替えたのかも? と妄想…。
ちなみに、古祖母山真南の天安河原天岩戸神社の大字は「岩戸」です。
 
地元の方が
岩戸笹の戸附近から見れば真正面に屹立して居るは古祖母でありて
障子岳之に連り祖母は見えない。
下宮の外にも祖母神崎と云ふのが才田、黒原、中村、岩井谷にあり
これ等も古祖母の尾を見ねばなるまい。
従って岩戸の人々が始めに祭りたのは古祖母であり
これは地主神として山を祭りたので、
それが後に統一せられたと見るべきであらふ。
と書いておられたので、やはり高千穂における祭祀は
古祖母山御神体山とした可能性が高いようですね。
 
それにしても助かりました。高千穂から
古祖母山祖母山がどう見えるのかを知るため再訪するつもりだったので。
古代に、見えない山を遥拝するような祭祀があるとは考えられませんからね。
また、祖母山の祭祀とは無関係な健男霜凝日子社下社から祖母山が見えたのは
健男霜凝日子社上社が鎮座していたからだとわかり、ほっとしています。
 
弘安6年(815)嵯峨天皇の命で編纂された『新撰姓氏録』に1,182の姓氏が記録され、
皇別」「神別」「諸藩」の分類によって9世紀の日本に非常に多くの渡来人が
住んでいたことが判明しています。「諸藩」だけでも以下の通りです。
「諸藩」とは渡来人系の氏族で、秦など326氏が挙げられた他、「百済」が104氏、
「高麗」が41氏、「新羅」が9氏、「加羅」が9氏、「漢」が163氏に分類され、
どこにも属さない「未定雑姓」が117氏挙げられています。
 
渡来人だけでもこれだけの氏族が居たということは、氏族ごとの神も居たわけで
八百万の神々」とは言い得て妙ですが、各氏族の陣取り合戦によって
祖母山の山頂にも別の氏族が陣を張ったということなのでしょう。
倭琴の旅を始めた当初「日本の神社ってオセロゲームみたい」と感じたのは
あながち的外れではなかったのかもしれませんね?