筑紫国に到れば、先づ哿襲宮(かしひのみや)に参謁(まゐ)るを例とす。
哿襲は可紫比なり。(『万葉集注釈』巻第四 六-九五七)
「哿襲宮=香椎宮」へは足を運んでいませんでした。
あまりにも多いオキナガタラシヒメ=神功皇后ゆかりの地を避けていたのです。
「宇美」とかも、なぜ北部九州に神功皇后ゆかりの地が集中しているのか
わからないまま行っても意味がないと思っていました。
それが「しらき」絡みらしいと漠然と想像するだけで、
朝廷が祀ってきた「しらき神」のことすら理解できていないのです。
辞書によれば、「古代より宮中の神殿には北に百済神である韓神、
南に新羅神である園神が祀られていた」とのこと。
国語辞典の「韓神」の説明にこうあります。
第2子としてその名が挙げられており、新羅国の都である徐伐(現在のソウル)を
そのまま名とした第3子の曾富理神と共に、古代朝鮮との密接な関係を反映する。
曾富理神!? 祖母山=添利(ソホリ)山の由緒に出てきましたね。
すると九州の北部海岸から、遠く高千穂の北の祖母山までが天孫降臨ルート?
妄想ばかりが膨らみますが、先ずは「哿襲宮=香椎宮」へ参るとしましょう。
階段を上ると、こんな華やかな空間でした。
ちょうど七五三の正式参拝をされていたので、すぐに退散。
奥の方へ歩いてゆくと「亀乃池」なるものがありました。
これこそ海人族に付き物の「亀」だわ!? ということで演奏修行しました。
が、この池は明らかに神功皇后と磯良の伝説を具体化したものですよね?
辺りにて無事の凱旋を阿曇磯良丸を通じて祈願し、七日七夜神楽を奏したところ
船の舵と航路を守り導くとのたまわったとの伝説です。
しかし今日一番興味が湧いたのはコレ↓でした。
曲がって下を這う姿は強烈ですが、樹齢1800年以上ということがあるでしょうか?
きちんと樹齢を計測して貰うか、玉置神社の御神木と比較してみればいいのに…
なんてことを考えながら帰りに楼門を見たらなかなか立派でした。
しかし、どこが、何が、新羅神なのか全くわかりませんでした。
あ、この画像を忘れていました。
なになに? いくら読んでも何が書かれているのか全く理解できません。
ずっと後に書かれたのか、信憑性があるのかどうか、まるでわかりません。
この両宮を併せて香椎廟と称した」
との由緒は、記紀との辻褄合わせの可能性を示唆しているのでは?
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糟屋郡(かすやのこほり)。資珂嶋(しかのしま)。
昔者(むかし)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、
新羅(しらき)に幸(いでま)しし時、御船(みふね)、夜時(よる)此の嶋に来り泊(は)てき。
陪従(おもとびと)、名は大浜(おほはま)・小浜(をはま)と云ふ者あり。
便(すなは)ち小浜に勅(みことのり)して、
此の嶋に遺りて火をもとめたまひしに、得て早(と)く来(き)つ。
大浜問ひて云はく、「近く家(いへ)有りや」といふに、
小浜答へて云はく、「此の嶋と打昇(うちあげ)の浜と、
近く相連接(あひつづ)けり。殆(ほとほと)同じき地(ところ)と謂(い)ふべし」といひき。
因(よ)りて近嶋(ちかのしま)と曰ひき。今、訛(よこなま)りて資珂嶋と謂ふ。
(『釈日本紀』巻六「阿曇連等所祭神」)
小浜曰く「資珂嶋と殆ど地続きと言っても良い地」こそが打昇の浜です。
志賀島から見た時は、まるで長大な屏風が広がっているかのようでした。
ただ、このとき既に16:58。厚い雲に覆われています。
奈多漁港の堤防に攀じ登って撮った画像。ここが打昇の浜だと思うのですが?
画像の右が志賀島だとしたら、思っていたより大きいですね。
志賀島神社があるため漁師さんに頼んで乗せて行ってもらいましたが、
こちらは外海だけにスケールが違います。
この奈多漁港のすぐ南に志式神社があります。
対馬で学んだ「シキ・シカ・シコ」ですね。
志賀の海人の社と考えてよいと思います。
入り口は狭いものの、両サイドにはいかにも海辺を思わせる社叢が広がっています。
太古はここが海岸だった可能性がありそう?
でも、社殿は海を背に建っています。対馬では海から社殿を拝む形でした。
階段を上ると右手に銀杏が!!
困ったことに、社殿の前に立つと《越天楽》のテープが流れます。
それでは演奏修行できないので、別の場所に座りました。
今日の博多は気温が26℃だったので、上着を脱いでTシャツで過ごしました。
初日はかなりアッサリめではありますが、そもそも雨100%の予報だったし、
遠景のみ撮って店じまいしてしまいました。
ただ、演奏後には青空が少しだけ顔を見せてくれましたよ。
今回も夕焼けが見られなかったので、また来ますね。
玄界灘の夕日を見に!
調査を続けます。
13世紀の蒙古来襲ののち、豊後国を本拠地とする大友氏が博多の海岸部
息(おきの)浜を手に入れ、博多を支配したことがあったそうです。
それで元寇で活躍した大友氏の家臣 奈多氏の一部が博多に残ったのではないかとか
秀吉の朝鮮出兵で生き残った奈多氏がこの地に流れ着いたのではないかといった
憶測を呼んでいるようなのです。
ただ、私には「奈多」の地名がそんなに新しいものとは思えませんし、
地名が先か、名字が先かという問題もあると考えています。