藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

景行天皇の土蜘蛛征討(豊前編)

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豊前国(とよくにのみちのくちのくに)風土記に曰(い)ふ。
田河郡(たがはのこほり)。鹿春郷(かはるのさと)郡の東北のかたに在り
此の郷の中に河有り。年魚(あゆ)在り。其の源は、郡の東北のかた、杉坂山より
出でて、直に正西(まにし)を指して流れ下りて、真漏河(まろがは)に湊(つど)ひ会へり。
此の河の瀬(せ)清浄(きよ)し。因(よ)りて清河原(きよかはら)の村と号(なづ)けき。
今、鹿春郷(かはるのさと)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。
昔者(むかし)新羅(しらき)国の神、自ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき。
便即(すなは)ち、名けて鹿春神(かはるのかみ)と曰ふ。又、郷の北に峯有り。
(いただき)に沼有り。周(めぐ)り三十六歩(あし)計りなり。
黄楊樹(つげのき)(お)ひ、兼(また)、龍骨(たつのほね)有り。
第二(つぎ)の峯には銅(あかがね)、并(なら)びに黄楊・龍骨等有り。
第三(つぎ)の峯には龍骨有り。
 
日本書紀』の景行紀によれば、
景行天皇即位12年秋7月、熊襲(くまそ)朝貢をしなかったので
8月15日に景行天皇が筑紫へ向けて出発。
9月5日に周芳の娑麼(さば=周防国佐波郡山口県防府市佐波)に到着し、
(豊前国)を見た天皇
「南の方に烟氣(煙)がたくさん立っているので必ず賊(あた)がいる」
と群卿に言い、娑麼にとどまって、先遣隊に状況を偵察させることに。
 
景行天皇の使者がやってきたことを知った女首長の神夏磯媛(かむなつそひめ)は、
自ら多臣(おほのおみ)の祖 武諸木(たけもろき)、国前臣(くにさきのおみ)の祖 菟名手(うなて)
物部君(もののべのきみ)の祖 夏花(なつはな)を迎え「背く意思なし」と伝えました。
神夏磯媛が治めていたのは「龍の骨(石灰)」や「銅」のある田河郡鹿春郷です。
 
爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。
天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡
下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰
「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。唯有殘賊者、
一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。
二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居於御木此云開川上。
三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。
四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。
是四人也、其所據並要害之地、故各領眷屬、爲一處之長也。
皆曰『不從皇命。』願急擊之。勿失。」於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。
仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令撝不服之三人。乃率己衆而參來、悉捕誅之。
天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。
 
そこには神夏磯媛という女がいた。徒衆の多い一国の首領なり。
天皇の使者が来たと聞くや、すぐに磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を取り、
上の枝には八握劒(やつかのつるぎ)を、中段には八咫鏡を、下の枝には八尺瓊を掛け、
また素幡(しろはた)を船の舳(へ)に立てて、参り出て曰く
「兵を下げることを願う。私の仲間に背く者はなく、すぐに従うが、悪い賊も有る。
一人は鼻垂といい、みだりに名号(な)を詐称し、山谷を騒がせ、菟狹(うさ)の川上に屯す。
二人目は耳垂といい、蓄えを奪って貪り、しばしば人をさらう。御木(みけ)の川上に居る。
三人目は麻剥(あさはぎ)といい、密かに徒党を集め、高羽(豊前国田河郡)の川上に居る。
四人目は土折猪折といい、緑野の川上に隠れ、険しい山川で単独で人民をさらう。
この四人は要害の地を拠点に、それぞれに眷属を擁する土地の長なり。
一同曰く『天皇の命に従わず』。速やかに討伐されたし」。武諸木らは先ず麻剥の徒を誘い出す。
赤い服や袴や種々の珍しい物を与え、まつろわぬ三人を呼び寄せ、率いてきた仲間共々悉く誅殺。
それで天皇は遂に筑紫へ行って豊前国長狹県(ながさのあがた)に到り、行宮を建てた。
よってその土地を「京(みやこ=福岡県京都郡)」と名づく。
 
ということで、今日の一社目は香春神社。ルビが「かわら」なのが謎!?
(運転手さんに「カハル神社まで」と言ったら「え? どこですか?」と訊き直されました。
「カハラ」と言えば御理解いただけたでしょうか?)
祭神が「辛國息長大姫大自命(からくにおきながおほひめおほじのみこと)」なのも謎。
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一説によれば、「カル」は金属、中でも銅を指すため、もともと
「鹿(香)春」(かはる・かはら)の漢字は「カル」への当て字ではないかと言われてます。
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(画像左端の平たく削られているのが香春岳一の峯、中央が二の峯、右の山頂部だけが見えているのが三の峯)
香春神社は、銅や石灰の採れる香春岳(一の峯)の南麓に位置しています。
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大元は新羅から来たシャーマンの齋く山岳信仰との説が有力です。
というのも、古代のシャーマンは鍛冶部(かぬちべ)と一体であることが多かったため。
私はもちろん縄文以来の祭祀があったはず…と考えていますが。
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しかし、本稿冒頭の『豊前国風土記逸文』をまとめた当社の碑文は端的で強烈!!
昔者新羅國神
自度到來住此河原
便即名鹿春神
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また、804年に最澄が唐へ渡る前に宇佐八幡に参拝した時の御託宣にこうあります。
「此より乾方に、香春と云ふ所に、霊験の神座まさしむ。新羅国の神なり。
吾が国に来往す。新羅・大唐・百済の事を、能く霊知せらる。其の教を信ずべし」
 
ほかにも「新羅国神」との記述が多く残っているため、間違いないのでしょう。
すると、やはり宮中の神殿に祀られた北の韓神百済神=三島神=大山積神
南の園神新羅神=宇佐八幡神と解釈してよいのでしょうか?
 
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香春神社の参道はかなり長い階段でした(見えているのは二ノ鳥居、一ノ鳥居は遥か下です)
 
さて、『続日本紀』に、聖武天皇が発した東大寺大仏建立の詔があります。
粤以天平十五年歳次癸未十月十五日、発菩薩大願、奉造盧舍那佛金銅像一軀。
盡國銅而鎔象、削大山以構堂、廣及法界、為朕智識。遂使同蒙利益、共致菩提。
 
恭仁京大極殿が完成したばかりなのに、当初恭仁京に作ろうとした
「盧舍那佛金銅像」を東大寺に建立しようとは…。
次々と莫大な資材や人材を必要とする国家事業をぶち上げる聖武天皇に反発する
勢力に対し、宇佐の「秦王国」では香春岳などから大量の銅を供出して協力し、
「我、天神地祇を率ひ必ず成し奉る。銅の湯を水となし、
我が身を草木に交へて障りをなくさん」
との宇佐八幡の神託を発して、天平17年(745)に始まる廬舎那仏の鋳造に尽力。
それで、大仏開眼供養会(752)の際、聖武上皇孝謙天皇などとともに宇佐八幡神
輿に乗って大仏殿に入御し、封戸800と位田60町を賜ったのでしょう。
 
かつて神夏磯媛が治めた鹿春郷の、香春岳の銅を手中にした宇佐の八幡神
朝廷を支える一大勢力として認められていたことは間違いなさそうです。
 
なお、廬舎那仏の金メッキ塗装に使われた50トンとも言われる水銀を供出したのは
日本で唯一の「水銀座」が在った丹生大師を中心とする勢力でした。
銅で出来た廬舎那仏の表面に金と水銀を一定比率で混合したアマルガムを塗り、
周りから熱して水銀を蒸発させることで金メッキを完成させていたようで、
その際に発生した有毒の水銀ガスの吸引によって多数の死者が出た模様…。
 
やっと宮中の園神韓神に少し近づけた気がするので
話を景行天皇の土蜘蛛征伐に戻すとしましょう。
田川市白鳥神社の由緒にこうあります。
 
延暦年中 伝教大師(最澄)が入唐し学行を終え帰朝の途中、
海中の航路先に白鳥が飛び ある夜大師の夢の中に白鳥が現れ
「自分は日本武尊である、汝の船路を守り、身を守護するから昔麻剥を
討つために行った豊前国の高羽川の川辺に自分を齋き祀れ」と告げた。
大師は帰朝後 高羽川を尋ねた所 白鳥が飛来し伊田の里の真中の山に止まった。
もともと此の地は、景行天皇日本武尊熊襲御征伐の際に陣をしかれた
霊地であったので大師は自身が援護の本尊として崇敬していた
閻普陀金鋳造一寸二分五厘の神像を安置して弘仁五年、社を建立し、
日本武尊の霊を鎮め奉り天台十八院の惣鎮守、垂迹白鳥大明神として崇め祀った。
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白鳥神社といい、宇佐八幡といい、渡来系「三津首」の最澄(三津首広野)絡みなんですね。
毎年5月の白鳥神社風治八幡宮の「川渡り神幸祭り」で御輿が彦山川を渡るのは
日本武尊が白鳥となって飛び立つイメ-ジの再現でしょうか?
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こちらは風治八幡宮
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風治八幡宮には「神功皇后お腰掛の石」とやらがあって、
神功皇后新羅・海津見神をセットにしたい意図を感じました。 
 
また、先の最澄日本武尊の話に出てきた「麻剥」ですが、
日本書紀』景行紀にある「三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。」
の土蜘蛛と重なります。「高羽(たかは)」が「田川(たがは)」に変化したなら
「高羽川」は今の彦山川ということになるでしょう。
 
その「麻剥」が居たという「高羽川上」を目指す前に、
道の駅おおとう桜街道でトイレ休憩です。
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え? 1億円トイレ?!
トイレは女性用しかわかりませんが、幅も奥行きも狭く、
荷物を持って入るのが困難でした…。どこに1億円も遣ったの?
と思ったら、スケルトンタイプの自動ピアノが置かれていました。
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トイレから出て足を止めて聞く人も居らず、壮大な勘違いとしか…。
 
彦山川(高羽川)英彦山に向かって遡上すると、日田彦山線「彦山」駅の手前
彦山川と深倉川の合流点より少し下流太祖神社(王太子宮)がありました。
記録によると、当社の創建は寛永元年(1642)で、江戸時代は妙見宮と称し、
明治4年(1871)太祖神社と改称。元禄17年(1704)に落合が上下に分村した時、
英彦山三座(伊弉諾尊伊弉冉尊天忍穂耳尊)を勧請して上落合村産土神にしたのだとか。
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たしかに妙見宮ですね。
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川を臨む社地は、要害とは程遠い開かれた立地です。
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実は左手の社殿に向かって演奏しています。
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何となく…ですが、こちらの方が石組みもあって古社らしい雰囲気だったので。
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社殿に向かって左側の石碑には「猿田彦大神」と彫られていました。
だから何? と訊かれてもわかりません…。
社名や祭神がどうであれ、すでに英彦山の祭祀に変わっているわけですし。
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拝殿の中の扁額には「太祖神社」とありますね。
かつて天皇にまつろわぬ四人の首長はそれぞれ要害の地に住んでいたため、
皇軍は敵地へ足を運ばず、一族郎党をおびき寄せる方法をとっていますが、
「麻剥、居於高羽川上。」とあったので、彦山川を少し遡上してみました。
結局、ここまで英彦山らしき山は一度も見えていません。
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運転手さんが何度か「英彦山は雲に覆われていて見えませんね」と仰いました。
その雲が少し動き、山頂を現わした奥の山が英彦山ではないか? とのことです。
つまるところ、英彦山を見るには登山するつもりで向かわなくてはならないらしい…。
 
ただ、英彦山はともかく、添田町HPの↓「そえだまちの遺跡・史跡」を
ヒントに彦山川~深倉川沿いを走ってきました。
 
彦山川上流の深倉川のあたりに鼻垂彦と耳垂彦という者が住んでいて、
大きな勢力を持ち、大和の朝廷に逆らっていた。
景行天皇は、熊襲をはじめとする九州の勢力をおさえるために、
田川にやって来て鼻垂彦・耳垂彦の軍を破った。
そのとき、今の深倉川は血に染まり、血みどろ川と呼ばれるようになった。
後世になって「みどろ」がに転訛して緑川の名になったという。
 
そらおそろしいですね…。
上の説明によれば、深倉川に住んでいたのは「麻剥」ではなく
「鼻垂」「耳垂」ということになりますが、
日本書紀』には
「鼻垂」は菟狹川上、「耳垂」は御木の川上、「麻剥」は高羽の川上、
「土折猪折」は野の川上とあるため、添田町HPにあった
血みどろ川は「土折猪折」に関連しているかもしれません。
 
特段の成果はありませんでしたが、せっかく彦山駅まで来たので、
このまま引き返さず、もう少し奥まで行ってからぐるっと迂回して
嘉麻市桑野の「遠賀川源流の地」を見て帰るとしましょう。
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源流フェチの私。実はここが一番楽しみだったのですが?
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遊歩道が崩落してしまって入れませんでした!!
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遠賀川の最初の一滴は、ここから歩いて15分ほど…とのことだったのに。
残念な気持ちを抱えつつ、それでも当初は100%雨の予報だったのだから
降られなかっただけでもよしとしなくては…と思い直しました。
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遠賀川源流の地」への入り口で撮ったら青空さえ見えていたのです。
 
遠賀川沿いに山を下りて振り返ると、源流のあった馬見山(977m)が見えました。
すると、左奥の山が英彦山(1,199m)ということになりますが…?
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方向オンチの私には、どれがどの山なんだか見当もつかず、
今一つ踏み込めませんでした。地理を頭に入れて出直します。
 
実は2017年7月にも、今回帰りにJR福北ゆたか線に乗った
桂川(けいせん)」駅へ行ってました。学習能力が低すぎますね。