藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

丹生の道

阿波国一ノ宮「天石門別八倉比売神社」の論社の一つ
上一宮大粟(おほあは)神社の社伝に
大宜都比売神伊勢国丹生の郷(現 三重県多気多気町丹生)から
八神を率いて粟に降臨したとあります。
そして「大粟八神」として次の八社が列挙されていました。
 
        1. 腰宮 葛倉神社 (こしのみや くずくらじんじゃ)
        2. 須佐宮 八坂神社 (すさのみや やさかじんじゃ)
        3. 刻宮 津々姫神社 (ときのみや つつひめじんじゃ)
        4. 斎宮 倭姫神【白桃妙見神社とも】(いつきのみや やまとひめじんじゃ)
        5. 星宮 妙見神社 (ほしのみや みょうけんじんじゃ)
        6. 開宮 皇道神社 (ひらくのみや こうどうじんじゃ)
        7. 治宮 皇子神社 (しらすのみや おうじじんじゃ)
        8. 穂宮 葦稲葉神社若宮神社とも】(ほのみや あしいなばじんじゃ)
 
以前、上一宮大粟神社へ行った際、1の腰之宮神社に立ち寄りました。
 
葛倉神社の祭神は事代主神とされ、阿波、伊豆、安房などに伝わる神話では
大宜都比売大神の夫とされることもあるそうです。
神話を信じたり目くじらを立てたりしてもはじまりませんが。
 
そして、徳島県にはもう一つの腰宮神社があります。
前々からチェックしていて、やっと今日足を運べました。
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腰之宮神社上一宮大粟神社下の鮎喰川の淵に、
腰宮神社が水銀鉱山近くの加茂谷川の支流に鎮座しているのは単なる偶然でしょうか?
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このとき既に17:14。日没は16:53でした。
 
伊勢国丹生の郷から八神を率いて阿波へ来たという大宜都比売神
その大宜都比売神と同じルートをとったと思われるのが空海です。
しかも上一宮大粟神社には空海を祀った大師堂がありました。
私が興味をひかれるのは
阿波国随一の水銀鉱山に太龍寺を建てた空海と丹生の話です。
 
空海は折に触れ、高円山に住む勤操(ごんそう)を訪ねていたそうです。
勤操は大和高市郡秦氏の出で、大安寺にて三論教学を学んだ高僧でした。
松田壽男氏の『丹生の研究』に、勤操が住む岩淵寺のある高円山から
水銀を検出したとあり、朱=水銀に深い関わりを持った人物とされています。
宝亀5年(774)、勤操は丹生大神宮の神託により、大宜都比売神の故郷
伊勢国丹生の郷に(今は丹生大師として有名な)神宮寺を開基したと伝わります。
 
三国志魏書の倭人伝に3世紀前半の倭国について書かれた
「朱丹を以ってその身体に塗る」との表現には伊勢白粉が含まれているでしょうか?
丹生の水銀の中継ぎを行なっていた松阪市の射和で水銀を原料とする
軽粉=白粉の製造が盛んだった時代とはズレがあるようですが?
 
わが国では紀元前後に幾つかの国内辰砂鉱山の存在が知られていたそうです。
古代中国では紀元前5世紀頃すでに墳墓の埋葬物に朱が使用されていましたが、
わが国では吉野ヶ里遺跡をはじめとする紀元前後の北九州や山陰地方の遺跡から
埋葬儀式に使われたとされる朱が出土して、古墳時代にその風習が
全国各地の墳墓に広く伝わったようです。
ところが古墳時代以降、施朱の風習が下火になったことで
縄文時代に始まり日本最大で最古とされる伊勢国丹生の郷 丹生鉱山の採掘も
衰退、勤操ら渡来系氏族が再開して774年に神宮寺を建てたとも言われます。
 
他方、 空海延暦12年(793)、19歳〜20歳にかけて阿波国太龍寺を開基。
その太龍寺の北には、弥生時代から採掘されていた水井(すいゐ)鉱山がありました。
すると、空海と丹生の関わりは、何かとクローズアップされてきた
丹生都比売神社と高野山の関係以前からあったことになります。
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水井鉱山関連の施設は現在は見ることができませんが、実際に那賀川沿いの
車一台がやっと通れる道を走っていたら「水銀精錬所跡」を特定できました。
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ここまでは、道路の那賀川側にはスペースが全くなかったのに、
ここだけが台地で、人家が建っていたのです。上の図とも合致します。
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道路の反対側の「寒谷」沿いを進むと、かつての水井水銀鉱山まで到達できそうでした。
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この坂の左手が「寒谷」ですね。水量はかなり少ないものの水が流れています。
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こうした巨石が道を守るための石組みに利用されているようです。
先ほどの坂を登ってゆくと、右手に苔むした石組みが↓
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この先もずっと、段ごとに採掘したらしい痕跡が見られますが、
今となると果樹などを植えるために作った段々畑のようにも見えます。
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採掘跡を段々畑として利用しているのは若杉山遺跡も同じです。
今日の目的の一つ『はるかなる水銀の旅』所収の手書きの地図の位置関係を
確認できたので、ここ水井町の氏神さまを探すことに。
探すと言っても一本道を進んだだけですが…ありました!
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なぜか平成12年10月に遷宮させられた「若杉五社神社」に向かって演奏してます。
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このとき16:32、徳島空港へ着いた時点はもちろん、今日は一日曇っていた
そうですが、演奏が終わった16:35には青空が見えていました。
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こんな那賀川は見たことがありません。
ずうっと眺めていたいところでしたが、この先の分岐から南下して
冒頭の腰宮神社へ行き、今日の予定は終了。
 
空港から水井町へ向かっていた時、勝浦川沿いの道に高良神社がありました。
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海人族の神社かと思われますが、創建はさほど古くないように感じました。
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それよりも、こちらが大変です。
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あの位置は今回の目的地の一つ加茂宮ノ前遺跡じゃありませんか!?
近くまで行っても、工事関係者しか入れないよう覆われていて中の様子が
全くわかりませんでしたが、壊滅的な状況でないことを祈るばかりです。
 
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単純に年代だけを追ってゆくと、
大学を去った空海は“ある沙門に依る虚空蔵聞持法の教示”により、
四国の室戸岬や舎心ケ嶽(太龍寺山)で厳しい修行を続けました。
その沙門が勤操だったかどうかについては諸説ありますが、
空海の師であったことは確かなので、水銀の出る高円山や、近くの丹生町や
さらには伊勢国丹生の郷へも足を運んでいたはずです。
だからこそ、勤操開基と伝わる神宮寺が、のちに「女人高野=丹生大師」と
呼ばれるようになったのでしょう。
 
なお、松田壽男氏は『丹生の研究』で
ニホ系を仁保・丹保・邇保・丹穂・仁尾・荷尾、
ニフ系を丹生以下、二布・仁宇・仁歩とし、
丹生氏から分かれた集団として大丹生・小丹生(=遠敷)
さらに丹生→入の転訛により読みが「シホ」となり、
入谷・入野・大塩・小塩・塩荘といった塩の表記もあるとされています。
ほかに、ニヰ系として仁井田・仁井野・仁井山・仁田があり、
その転訛として新山・新田を挙げています。
 
新田が「丹生田」なら、全国に展開されている「新田神社」の中には
単に“新たに開墾された田”という意味ではなく、
“丹生を産出する地場”であった可能性を示唆する場合もあるでしょう。
日本中の丹生地名を検証するためには気が遠くなるような時間と作業が
必要であり、それは私の仕事ではありませんので、取り敢えず
有名な遺跡をまわるにとどめようと思います。