行きたいと思いつつ何年も経ってしまいました。
現在の地図を見ると、かつては島だった可能性が高そうです。
峰山公園があるため「峰山」かと思いましたが「石清尾山」らしい…。
少なくとも古墳群の名は石清尾山古墳群と定められているようです。
石清尾山古墳群は標高約232mの石清尾山丘陵上に築かれた200基を超える円墳や
積石塚や盛土墳などを指し、積石塚はだいたい4~5世紀に築かれたそうです。
あと一つ、関連性を指摘されているのが宇多津の聖通寺山にある積石塚古墳です。
宇多津の積石塚はかなり規模が小さいのですが、
3ヶ所とも同じ海洋族(ワニ氏?)のものなのでしょうか?
ともあれ、博識のH会長が御案内くださったので様々な質問をしました。
その中で、石清尾山古墳群から出土した石棺に使われた凝灰岩は
「石舟石棺だね、神社があるから行ってみる?」と訊いて下さいました。
そこで、寄り道をしてから行くことに。
神社は石船天満宮でした。階段を上った右手に石棺がありました!
なぜここにあるんだろう? との疑問に対しては
「片側が欠けてるからね。完全な形であれば古墳に収められ、
ここへは来なかったでしょう」との明快なお答え!
さらに「凝灰岩を鹿の角で刳り抜いたんですよ」と教えて下さったので
対馬へ世界最古の鹿笛を見に行った際に目にした夥しい数の
鹿角で作られた道具類を思い出しました。
縄文時代に鹿の角で作られた道具には釣針やヤス、銛、垂飾品などがあり、
中でも、石器を作るための道具の素材としては鹿の角に勝るものはないそうです。
ただただ感心していたら「このでっぱりが何だかわかりますか?」と訊かれ、
得意の妄想すら浮かばず困っていますと、
「ここに醤油樽のようなものを20個ばかり括り付けて曳航するんです」
「それで反対側にもでっぱりがあるんですね…」
「↑これって枕かなぁ?」との独り言に「そうですよ」とのお返事。
社殿の横へ回り込むと鷲ノ山中腹の岩肌が露出しているのが見えました。
座ると山頂が見えるここを今日の舞台としましょう。
目の前にも横にも笹があって、さわさわとコトの音に和してくれました。
昨日一昨日は川のせせらぎとともに演奏修行していたのでした。
演奏中、Tさんが↓の写真を撮って下さいました!
前日のM先生もそうですが、オカルトでも何でもなく、
私の友人は誰が撮ってもこの色と形になります。
もちろん私も、ここでも石清尾山古墳群でも何枚も撮りました。
いったいどんな光とカメラのいたずらなんでしょう?
さて、峰山公園の駐車場までやってきました。
やっぱり「屋島」がきれいに見えますね〜。
先ずはH会長オススメの「石船塚古墳」へ。
古墳に登る趣味はないのですけれど、登らないと石棺が見られません。
あ〜確かにありました。だから「石船塚」なんですね。
両サイドのでっぱりは運んだのちに伐り落としたんでしょうか?
「後円部」に立って「前方」を見たところ、積石塚なので
石がこぼれ落ちたり埋没したりして、 輪郭が今ひとつハッキリしません。
振り向くと「屋島」と同じような台地が見えました。
「あれ? 屋島は反対側でしたよね?」「五色台ですよ」
「………」
左右に「屋島」と「五色台」が見える「石船塚古墳」をあとに
隣の「鏡塚古墳」へ。
「鏡塚古墳」は全国でもここにしかない双方中円墳と書かれていました。
ここ石清尾山古墳群の「猫塚古墳」「稲荷山北端1号墳」「鏡塚古墳」とありました。
双方中円墳は主丘の前後双方に方形の突出部を接続する形式ですが、
石清尾山古墳群の3基は積石塚ゆえ、円墳なのか方墳なのかハッキリしません。
中央の円墳に立って方墳を見たところ、少し幅が広いように感じました。
この地に、さまざまな古墳が200基以上もあるかと思うと気が遠くなります。
来た道を戻っていたら木洩れ日が射し込んできました。
ここでH会長が一言。「ここは昔、島だったんですよ」
「え〜〜〜?! さっき車の中で(冒頭部分に)そう書きました!」
「それじゃあ南麓の鶴尾八幡へ行って確認しましょう」
まさしく舟で来て海から上がるタイプの神社でした。
「中央のポコポコと小さな山が並んでいる辺りが仏生山で、
その手前の高速道路がおおよその海岸線だったと考えて下さい」
う〜〜む、すっかり讃岐のイメージが変わりました。
いったん帰京して次の帰省を画策しなくては。