倭琴と旅をするようになって
海人族の好む地形というものがあるらしい…
と感じるようになりました。
対馬に「浅茅(あそう)湾」があり、
しかし、漢字が…!?
古代は発音ありきで、漢字は意味を度外視した発音記号…と考えても
浅茅(あさぢ)を「あさふ」に当てるのはハードルが高過ぎる。
では、現在は「あそう」と発音する「麻生」を「をふ」と読むのはどうでしょう?
『歌枕 歌ことば 辞典』に
とあるものの、大淀の浦は伊勢湾に面した砂浜の海岸で"湾"ではありません。
実は「麻生(をふ)の浦」の有力な候補地は
現在「麻生の浦大橋」のある生浦湾の奥なのです。
「麻生の浦」には一年ごとに片方の枝だけに実のなる
梨の木があって、「方枝梨」と呼ばれていました。
それが都で話題となり、多くの古歌に詠まれたのです。
『古今和歌集』巻第二十「大歌所御歌」1099「伊勢歌」
をふの浦に 片枝さし被ひ なる梨の なりもならずも 寢て語らはむ
ただし「麻生の浦」は大化の改新(646)以前は伊射波神社 の御厨で、
その後、伊射波神社の御厨が斎宮の御厨となり、
長和2年(1013)には斎宮から伊勢の神宮へ寄進されています。
よって志摩国にあっても「伊勢歌」という括りが成立するわけです。
また、「麻生の浦大橋」の西側を「知久利ケ浦」とする説があって
「ちくり」は「みくり(御厨)」の転訛とも言われているため、
現在の生浦湾も古代は別の名で呼ばれていた可能性があります。
一つだったことは疑いようもありません。
漁撈を生業とした人々が住んだ“シマ”に残る貝塚…その名が
麻生だとしたら、湾の奥の入江に位置しているのでは?
との疑問から、足を運ぶことにしました。
ただ、せっかく今年初めて出かけるのにテーマが一つではもったいないので
四国で解決できなかった龍と瀧にまつわる話題にも触れたいと思います。
房総半島には印旛沼の龍伝説にまつわる三つのお寺があるのです。
印旛沼には、のどかに暮らす人々を見守る天龍が神の使いとして棲んでいました。
ところが人々が次第に自分の利益を優先し始め、争いが絶えなくなったため、
神が人々をこらしめるために龍に雨を降らせないよう命じました。
しかし農民の苦労をみかねた龍は、神の怒りによって自分の身体がバラバラに
なってしまうのを承知で雨を降らせました。その結果、
龍の頭が落ちた所が龍角寺(印旛郡栄町龍角寺239)、
胴体が落ちた所が龍腹寺(印西市竜腹寺622)、
尻尾が落ちた所が龍尾寺(匝瑳市大寺1856)になったそうです。
この伝説は江戸時代に赤松宗旦が『利根川図志』に収めているとか。
今日のルートは龍腹寺への通り道にあった瀧水寺から。
『利根川図志』には、「雲林山瀧水寺(りうすゐじ) 瀧村にあり。
薬師堂は道を隔てた反対側にありました。
この薬師堂の右手奥に神社の鳥居が見えたので行ってみると白山神社でした。
ここは台地にありますが、ちょっと奥が気になりますよね。
おおお…、社殿裏は古代の雰囲気を醸しています…。
しかもその奥は崖!? 木々の間から「香取海」が見えていました。
木や草に覆われて谷間が見えないため、道路へ出た際に確認しました。
この坂の途中から、かつての「香取海」が広がっていたはず。
すぐそこまで水面が迫ってきたとして、「瀧」水寺とはこれ如何に?
疑問を抱えつつ、道なりに南下しました。
え?! ここ、前に来てるよ…。
走っていたら、坂の入り口に〆縄がかけられていたので
どんどん下ってみたのですが、今日は〆縄がありません。
まったく信仰心というものがないため、その時は素通りしたものの
今日は龍腹寺を目指してきたわけですから境内に入ります。
ここも最奥は崖だとわかっているので、左側から一周してみることに。
きっと何度も祭神や祭祀が変わったんでしょうね…。
最奥から右手に回り込むと、画像右端に以前バイクで下った道が見えました!
此寺旧龍福寺と名く。釈名上人雨を祈りし時、龍死して腹を堕すの地ゆゑに、
亦龍腹に改たりとぞ。」とありました。
現在は天台宗の「玄林山龍腹寺」ですが、創建に関しては一説に
では、いったい釈名上人とはいつの時代の人で、龍はいつ死んだのでしょうか?
よもや人寄せ(?!)のために創作した伝承とは思いたくありませんが。
地形も確認できたし、次は龍角寺を目指しますが、
ナビが示す幹線道路ではなく、何度か通った土手を走ることにしました。
向こうに見えるのが現在114基の古墳が確認されている古墳時代後期の
今日は曇りの予報だったので、15:10でこの暗さ…。
でも、信号のない土手を走るのは凄く開放感があって楽しい!
栄町酒直台へ上って、龍角寺を目指していますと、突然、道の正面に階段が出現!?
ナビは「目的地へ到着しました」と言うけれど、右の道を進んでみましょう。
少し行くと左手に車が停まっていて、境内地を駐車場にしているようでした。
成田空港の建設に伴ない、この境内に移築されたそうです。
こちらは「金堂跡」ですが、詳細はわかりません。
「校倉作り資料庫」の左に神社らしきものが見えました。
当社の読みは「ふたら」でしょうか?
左手奥を見ると、お墓らしきものが集まっていました。
『利根川図志』の「天竺山龍角寺」の項にこうあります。
龍角寺村にあり。寺南に洞穴沙伽陀池(さかだいけ)など名所あり。
このあと『佐倉風土記』が引用されていますが、
漢文なので、訳文をWikipediaから転載してみます。
天平2年(730)釈命上人が諸堂宇を再興したとされる。
………ダメですね。内容がいい加減すぎます。
釈名or釈命上人は実在したかどうかわからず、表記はどうでも構いませんが、
年代は看過できません。731年の旱魃で祈雨を行なったとして、
龍角寺はあったとしても、807年創建の龍腹寺は影も形もありません!!
そして当然ながら、龍角寺の創建年代が正しいとしたら、最澄(766?-822)も
龍角寺に関しては、以下の「栄町(平成30年度)教育要覧」の記述に興味をひかれます。
7世紀後半には関東で最も古い寺の一つである龍角寺が建立されました。
また、龍角寺創建時の瓦を生産したといわれる五斗蒔瓦窯跡や龍角寺瓦窯跡では
「朝布(現 麻生)」「服止(現 羽鳥)」等、周辺の地名が刻まれた文字瓦が大量に出土。
思いがけず「麻生」の古い表記「朝布」が!!
その「朝布=麻生」へ貝塚を探しに北上します。
ここじゃないかなぁ? 広大すぎる気もしますが。
少し進むと「麻生貝塚」の杭が立っていました。
さぁ、いよいよ「香取海」まで下りて地形を確認しますよ!
一気に下りますねぇ〜。
あ、「香取海」が見えました!
しかし…こんな道、走ります?
お!? 海蝕の痕ではないでしょうか? いや、ただの枯草かも知れませんね。
もっと奥にも海岸線らしきものが見えますが?
この上の台地に麻生貝塚がありました。
現在の利根川方面を臨むと、まさしく「麻生湾」と呼びたい地形ですね!
調子に乗って奥へ奥へと進んでいたら、行き止まりでした!?
やむなく引き返してきたら、ナビがこの道を行けと申します。
さすがにこの道はないでしょう…。冒険好きの私ですら、
彼方の白いガードレールのある道を行くべきだと思いましたので。
しかし、四輪で設定しているナビが勧めるのですから行ってみましょう。
しばらく行くと、奥にゴルフ場が見えました。方角は間違ってないようです。
ところが、ガタガタ道に耐えてやっとこさ「麻生」の対岸にたどり着いたら!?
T字路にぶつかり、右は行きどまりでした…。左は?
いや、こんな分厚い落ち葉の道、走れます?
というか、もはや走るしかない!
↑これ、キャノピーが舗装路に上がった直後に撮りました!?
煙モクモクで臭くなり、いつバイクが炎上するかと冷や冷やでした。
さっき見た白いガードレールのある道を走ってきたら、ずっと
この舗装路を通れたに違いありません。左の繁みから出て来た私って!?
わざわざ対岸へ渡ったのは、麻生貝塚と同緯度に南羽鳥古墳群があったからで、
すぐにここだとわかりましたが、現在は入れないようになっていました。
でも、両者が「麻生湾(仮称!!)」の入江の両翼になっているのでは?
との仮説が裏づけられたので満足しました。
この先は、ゴルフ場を眼下にしつつ南下。
千葉県立“房総のむら”へ行き、岩屋古墳だけを見てきました。
大き過ぎて全容を撮れませんでした。
しかも、龍角寺の古瓦ともども、蘇我氏との関連が指摘されていたことを知り、
簡単に書けるようなテーマではないため恐れ慄いています。
私自身、「イルカ」の歌詞の神楽歌をどう考えればよいのか悩んでいただけに
タイムリーというか、せっつかれているというか、複雑です。
「龍・瀧」問題に加え、また難問が出てきました。
少し時間を頂きたく存じます。