藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

蘇我氏と玉造

蘇我氏のことを調べ始め、"曽我の玉作り工房"の存在を知りました。
奈良県橿原市蘇我氏本貫の地(高市郡蘇我里)に近い「曽我遺跡」です。
古墳時代の5世紀後半~6世紀前半にかけて、勾玉・管玉・丸玉・小玉などの
玉製品を大規模に生産していたとされ、「曽我遺跡」から出土した完成品は
13,000個にものぼるそうです。未完の玉類を含めると億を数えるのだとか!?
 
ところが、継体天皇の御代に入ると突然、富山や新潟での玉作りが終了し、
"曽我の玉作り工房"も終焉。勾玉を使った祭祀が行なわれなくなり、
墳墓の副葬品から管玉がなくなったというのです。
唯一、出雲で瑪瑙・碧玉・水晶の勾玉が作られていましたが、
それも7世紀後半には確認できなくなったそうです。
 
そうだ、下総国には今も「玉造」地名が残っています。
成田市香取市、そして真北となる常陸国行方にもありました。
ちょうど蘇我氏と関わりがありそうな神社も見つけたので
佐原方面へ行ってみようと、↓利根川の土手を見ながら走ってます。
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昨日の雪(雨)が嘘のように晴れています。久々に10℃を超えました!
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左に連なる低い台地の縁は、1/7に走った龍ヶ崎潮来線です。
私は「香取海」の海岸線だと勝手に思い込んでいます。
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今日は神崎大橋を渡るので最短距離の幹線道路を直進してから土手沿いの道に出ました。
上の橋は地図に468号線とあるので圏央道でしょうか。
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神崎の"シマ"を見ながら神崎大橋を渡ってます。
この先は、以前行った大戸神社を目指します。
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おっと、大戸神社への坂を上り切った地福寺の手前に「香取」の三角点が!?
何かの間違いとも思えませんが、急いでいるため画像を1枚だけ撮って大戸神社へ。
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香取神宮の元宮とも言われる大戸神社
下総国に見られる大戸(おほと)と意富比(おほひ)
常陸国下総国に見られる大生(おほふ)についても
多氏との関連など調べないといけませんね。
次々と疑問が湧いてくるので自転車操業に陥ってる?!
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この坂を下るのも二度目です。
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香取海」へ下りてゆく感覚は大好きなのですが…実は前回しくじりました。
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ほら、やっぱり「香取海」だった!! と喜んだまではよかったのですが、
香取神宮を目指して幹線道路へ出るまで迷いに迷い、20分以上ムダにしたのです。
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今日は「玉造」を目指しているので、この十字路を右折します。
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少し走ると、道の左手に鳥居が出現!!
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はっきりと読めなかったのですが、熊野神社らしいと思った瞬間、左折してました!?
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これは素晴らしい! まるで縄文の集落へ迷い込んだみたいです。
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台地に上ったと思ったら、今度は一気に下るようです。
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いわゆる"ヤツ(谷)"じゃありませんか!? 大丈夫でしょうか?
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何と!? 下り切ったところに神社がありました!!
手前は稲荷社のように見えますが、宇迦大神でしょうか?
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当然この階段の上が熊野神社なんでしょうね。振り向くと↓
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冬だと言うのに、すばらしい緑ですねぇ…。
しかし、ずいぶんと竹が倒れ込んでいます。
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階段の右手の木々は"ヤツ(谷)"の方へ引き込まれるように立ってます。
画像左端は、かつて人々が上陸した道のようにも見えますし。
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往古は、画像左手の"ヤツ(谷)"に川伝いに舟で来ていたとか?
どんどん妄想が湧いてきます。が、一応社殿も撮っておきましょう。
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彩色もきれいで、よく手入れされているようです。
ただ、古社ゆえか、周囲にびっしりと境内社(石祠)が置かれていました。
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「大戸宮」? さっき通ってきた大戸神社じゃありませんか?!
もしかすると、ここは香取と大戸をつなぐ古道だったのかもしれません。
地形から見て、おどろおどろしい感じかと思いましたが、清々しい空間でした。
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さて、ここから「玉造寺」まで行くのが山あり谷ありで大変でした。
直線で360mほどなのに、別の"シマ"なので迂回に次ぐ迂回で約10分かかりました。
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たしかに「玉造寺」とあり、車も停まっていましたが、どなたも出てこられません。
何度かお声がけしたのち、恐らく向こうの繁みに神社があるのだろうと思い、
上の駐車場へ戻ってバイクを停め、徒歩で向かいました。
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こういう散歩はいいですね~。森林浴ができそう…。
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台地を歩いていると社殿らしきものが見えました。
あれが地図にある阿昆霊神社でしょうか? この名称を確かめに来ました。
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う~~む、「阿昆霊」はあり得ず、「阿毘霊」じゃないかと思うんですけどね?
『琴歌譜』に《大直毘歌》(おほなほびのうた)があって、「直毘霊」との関連から…。
木綿垂(ゆふし)での 神が崎なる 稲の穂の 諸穂(もろほ)に垂(し)でよ これちふもなし
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当社の立地とは関係なさそうですね…。やむなく香取市役所へ電話しますと
あびれ神社ですね。元禄年間(1688-1704)に二柱を勧請して創建されてます」
「その二柱はどこから勧請されたんでしょうか?」
「そこまでは書かれてませんね」ということで、社名のみ確認できました。
 
インターネット検索すると、近い鳥取県日南町に「阿毘縁」の地名がありました。
あびれ」は梵語で、他に比類なき素晴らしいところという意味なのだとか。
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阿昆霊神社の鳥居の左手に稲荷神社があります。
二柱とは、もしかすると、この二社のことなのでしょうか?
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来た道を戻りつつ、市役所の方に調べて頂いたことを反芻しました。
玉造に縄文の遺跡はありますか?」「縄文から奈良時代の遺跡があります」
玉造の遺跡から"玉(ぎょく)"は出てますか?」「出てません」
ということで、佐原の「玉造」で玉製品が生産されていた可能性は低そうです。
コロナによる非常事態宣言が解除されたら、橿原市の「蘇我遺跡」や
大阪城周辺の「玉造」地名などを歩いてみないといけませんね。
 
…で、阿昆霊神社に関しては、正しくは「阿毘霊」神社で
水戸黄門」こと徳川光圀(1628-1701)が『大日本史』の編纂祈願を行なった
賀毘禮(かびれ)神宮からの勧請ではないかと疑っています。
年代的に、賀毘禮神宮のある御岩大権現が17世紀に宣伝ビラを配って
入山者数が飛躍的に伸びた時期と重なるため、
その御利益にあやかろうと勧請したかも知れませんし、
延宝2年(1674)に神崎神社を訪れた光圀が、元禄3年(1690)に隠居して以降、
寺社改革の一環として賀毘禮神宮からの勧請を勧めた可能性もありそう…
と、いつものように妄想を逞しくしています。
 
次に向かったのは高天神社です。
こちらも地図に道がないため、取り敢えず観福寺を目指します。
当然ながら、高天原伝説のある御所市高天(たかま)山麓に往古より鎮座する
「高天彦(たかまひこ)神社」からの勧請ではないかと思っているわけです。
「高天彦神社」の主祭神にあたる高皇産霊神は有力豪族・葛城氏の祖神とも
言われており、蘇我氏が葛城一族だったとの説があるのです。
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武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖とされ、
その子 葛城長江曾都毘古(かづらきのながえのそつびこ=葛城襲津彦)が葛城氏の祖となり、
蘇賀石河宿禰(そがのいしかはのすくね=石川宿禰)蘇我氏の祖になったようです。
しかも蘇我馬子は「蘇我葛城臣」と名乗っていたとか。
 
蘇我氏下総国に居たとしたら、須賀神社だけでなく、高皇産霊神天照大神
祭神とする高天神社を創建した可能性があるのではないでしょうか?
 
その高天神社を探すべく、観福寺の第4駐車場まで来ました。
ここが一番奥の駐車場なので、地図上は高天神社に近いのです。
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たぶん…あのこんもりの中なんですよね。
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お墓の中の道を通って、こんもりに近づいてみます。
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突き当りを右折したら、鳥居がありました。
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「高天」の訓は「たかま」だと思いますが、
ネット上では「たかま」のルビが散見されました。
現代かなづかいはよくわかりませんけれど、古代は語中に母音が立たないので
「あらそ」が「ありそ」になり、「たかま」が「たかま」となります。
葛城乃 高間草野 早知而 標指益乎 今悔拭
かづらきの たかまのかやの はやしりて しめささましを いまぞくやしき
万葉集』巻7 1337
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階段をのぼり、長い参道をてくてくと歩いて社殿の裏側に着きました。
裏参道がこれなら、表参道はどうなの? と思いますよね。
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社殿の前から撮りました。が、短いですね…。
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え?! 舗装路があったんですね。地図には全く出てませんでしたが。
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拝殿はこんな感じ。そして手づくりの(?)扁額。
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私は裏参道の雰囲気が好きでした。
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社名に「高」がつくので《薦枕》を演奏し、駐車場へと戻ります。
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今日の最後は「玉造」の"シマ"の北に浮かぶ小さな"シマ"にある稲荷社です。
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やはり急な階段をのぼる地形ですよね…。社名もありませんが。
階段をのぼっている途中に看板が設置されていました。
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「岩ヶ崎」ですか、岩礁の突端というような…見たままの地名ですね。
「佐原」市教育委員会の部分に「香取」が貼り付けられていました。
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扁額には「稲荷社」とだけありますが、地図上は「岩ヶ崎稲荷神社」。
何と、この"シマ"のすぐ北を流れているのは「大須賀川」です!!
大須賀川」は西の大戸駅の北から南西に流れてゆきます。
12/28に行った西和田の宇迦神社も、12/25に行った成田市稲荷山
大須賀川」でつながっていたんですね…。
当社は「稲荷社」と名乗りつつ、赤くもなかったし、宇迦大神のようでした。
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社殿の左手にゆるやかな階段が見えました。
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当社は"シマ"の東端にあるため、西に進むと何があるのか興味をひかれます。
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ここから下りると合流できそうです。
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階段の先は住宅街でしたが、右の社員寮のような建物は空き家でした。
その左手から佐原の町を見ました。
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今日もなかなか楽しめましたね…。
あちこち寄り道しつつ帰ったら、すっかり日が沈んでしまいました。
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ずうっと富士山に向かって走っているのが不思議でしたが、最後は左に見えました。