その先住民を、皇軍はなぜ滅ぼさなくてはならなかったの?
実は、誰も何も隠してはいないのかもしれません。
古代のことを知らない私が気づけないだけなのかもしれません。
なにしろ日本神話が作られた当時と今とでは"常識"が違うので。
皇軍は先住民を討伐した際の忌まわしい手口を自慢げに語るのに
滅ぼした先住民のことは「賊」の一言で片づけています。
征討軍の様子が描かれています。
楽しんでいたら、賊が老若男女勢揃いで浜辺に出てきたので、
建借間命は兵に退路を封鎖させた上で、背後から彼らを襲い火を放った。
この「杵島(きしま)ぶりの歌舞」は唯一ともいえる具体的なヒントなのに、
実のところ、まだ何もわかっていません。
もちろん妄想好きの私ですから、現佐賀県の杵島に起こった歌舞ではないかと
想定した上で、証拠集めというか、強固な裏づけをとりたく思っています。
↑地図にある杵島郡・佐賀郡は海人族が好む地形の「有明海」に面しており、
古代の日本語では「スカ・ソカ・サカ」という揺れは普通に認められるため
以前「杵島ぶりの歌舞」の担い手は北部九州の海人族ではないかと書きました。
北部九州を代表する海人族と言えば真っ先に安曇氏が浮かびますが、
ある神楽歌の歌詞から、安曇氏と蘇我氏は近い関係にあったように感じています。
天地の初め、草や木が言葉を語っていたころに、天より降り来たった神があった。
その名は普都(ふつ)の大神、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを
和めたため天に帰ろうと、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、
手に付けていた玉など全て、この国に捨て遺して行った。
↑地図の中央やや下にある「葦原」の周辺が「葦原の中津の国」なのでしょうか?
「身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯」などを脱いで天に帰ったのは
その真北の楯縫神社の祭神で、「楯縫ひ」は「楯脱ぎ」の転訛なのだそうです。
もちろん「普都大神」は自ら進んで天に帰ったわけではないでしょう。
と言いたくなるネーミングなので…。
この周辺には物部氏が住んでいたと推測できます。
では「香取海」の南側は?
ということで、2年前に印西市の鳥見神社をまわりました。
物部氏の痕跡をたしかめるために。
岩屋古墳(龍角寺105号墳)が蘇我氏の本拠地飛鳥の小山田古墳と同じ方墳だったことで
2014年に長辺80m超の小山田古墳が発見されるまでは
長辺約78mの岩屋古墳が日本最大だったわけですし、
これらは天皇陵を上回る規模の巨大方墳なので。
有力な古代氏族の足跡を辿ることはコトや歌の変遷を考える上でも欠かせません。
大化5年(649)に恐らく中大兄と中臣鎌足の陰謀により異母弟に密告され自害。
以上の理由から、須賀神社、須賀地名に着目。
古代、漢字は発音記号としての役割が大きいため
須賀・蘇我・曽我・素鵞・佐賀など、何種類もの表記があります。
また、「スカ・ソカ・サカ」の法則(古代は濁点を表記しません)によれば
長年解決できなかった「杵島(きしま)ぶりの歌舞」にまつわる氏族への
緒口がつくかもしれません!?
というわけで、風の強い今日、若草大橋を渡って下総国へゆこうとしています。
しかし、あまりの強風で二度三度と橋の途中で止まってしまいました。
橋を渡ってからも、目の前に見えている信号が二度「赤」になるまで動けない始末!?
信号からは西へ戻る形で「小林」へ向かいます。
↑この日の最後から逆ルートで鳥見神社をまわるため。
文字通り平たい丘の「平岡」へ直進します。
やっと来られました平岡鳥見神社。
暗い中で撮ったら、両側の土が盛り上がっている部分が蜘蛛窟かもしれないと
震え上がりましたが、昼間だとふつうの社叢に見えます。
というか、道路から丸見えですし!? これでは演奏するのに勇気が要ります。
社殿の奥をぐるりと歩いてみると、境内摂社というか石祠だらけ…。
それに、やはり一段高い場所へ上がるのは抵抗がありますね…。
次の小林鳥見神社へ急ぎましょう。
そうそう、この古墳を夕闇の中で撮りました。
「道作(どうさく)古墳群」は6世紀後半につくられた
前方後円墳7基、円墳13基によって構成されているそうです。
奥の古墳にも興味をひかれますが、撮影位置から小林鳥見神社が見えてますので。
たしか向かい側で古代の住居跡が発掘されたと書かれていたのですけれど…?
すでに農地になってしまったのでしょうか?
かなり奥まで行ってみましたが、見当たりません。やむなく社頭をパチリ。
これはまた…強烈な社殿ですねぇ。大変な古社らしいのですが。
社伝を信用していたらおかしなことになりかねませんので
ざっくりと「ニギハヤヒ」であることのみ確認しました。
「神武天皇社」があるというのも、少々やりすぎ感が…。
さきほどは社叢で演奏修行できなかったので、ここで演奏させて頂きました。
小林から印旛沼方面へ向かう途中、1/5に行った龍腹寺に近い中根の鳥見神社へ。
これまで人に出合ったことなど滅多にないのに、今日は御一行様を見かけました。
神社に入られるのかと思いきや、そのまま歩いてゆかれたので
ゆっくりと演奏修行することができました。
社殿の横にかつて土俵(?!)があったのでは? と思われる建物がありまして
その前に立って振り返りますと強烈な光が射し込んできました。
社殿のまわりには、やはり境内摂社がたくさんありました。
再び来た道を引き返しますが、神社の反対側は崖でした。
歴史の浅い神社以外は高台にありました。
西が物部氏系の鳥見神社という棲み分けがあったのかもしれません。
ここから、目の前のこんもりではなく、遥か彼方に見える台地を目指します。
ちょうど信号が赤に変わったので、印旛沼を撮ることができました。
おそらくここが干拓前の岸辺だと思われる場所に根山神社がありました。
水際独特の木の形状です。
「北須賀」の根本神社、やはり蘇我氏ゆかりなのでしょうか。
ここから次の助崎須賀神社へ行くには30分近くかかります。
あれは、荒海(あらみ)貝塚のあった"シマ"ではないでしょうか?
近づくとこんな道標がありました!
やっぱり住所は「荒海」でしたが、よりにもよって「水掛街道」とは…!?
「香取海」時代にも、荒海川と根木名川の合流点になってからも
洪水に悩まされてきたのでしょうね…。
このまま161号線を北上してゆくと「西大須賀」になりますが、
「大須賀川」の西だからというには離れすぎています。
「西大須賀」の東に「大菅」の地名もありますね。
名古屋には助崎城跡と名古屋城跡がありまして、
助崎城跡には「大須賀」氏の本城ではないかと書かれていました。
「大須賀」氏ですか…、ならば須賀神社があるのは当然でしょう。
いや、どちらが先か調べないと。
助崎須賀神社は古くから「助崎の天王様」と呼ばれていたというので
祭神はスサノヲで間違いありませんね。創建は仁寿3年(853)と伝わります。
「月星紋」は申すまでもなく桓武平氏千葉氏流の家紋の一つで、
下総大須賀氏は千葉介常胤(1118-1201)の四男・四郎胤信を祖としているため
所領としていたことから付いた名前ということになりますね。
すると、常陸国から参拝に来ていたという人々は、千葉氏関係の可能性も
ありますが、須賀津あたりから来ていた可能性もありそうです。
須賀神社は助崎城跡から直線で850mほど北に位置していました。
走っていたら突然、左手に須賀神社が出現!!
ド迫力の御神木ですね。
しかし、「崎」というからには突端に近い地形でないと困ります。
社殿の後方まで行ってみると「崖」でした!!
「大須賀」氏が齋く助崎須賀神社。
今日の〆として演奏修行し始めたら(何と思い切ってイルカの神楽歌ですよ!?)
神社正面のお宅の方が車で帰ってこられ、私の存在を怪しんで
演奏を邪魔しようと大きな音を立て始めました!!
そのとたん「夕焼け小焼け」のチャイムが大音量で鳴り始めたので
もうメチャクチャになりましたが、私は止めませんでした。
音程も狂っていません。修行あるのみ…です。
意気揚々と引き揚げていたら、須賀神社から北に600mほど
走ったところに、こんな看板が!?
「こみかど」って何ですか? 「別格官幣社」って何ですねん?
帰宅後、当社HPを見たら
和歌・管弦に長じておられました。若くして後醍醐天皇の側近に奉侍し、
元亨以来の重大事に参与し元弘元年には尹大納言に任ぜられました。
討伐なされましたが、志遂げざるまま下総国に下りました。(中略)
元弘2年10月御齢32歳で建武の中興の礎として
えええ~~?! 「人工林」? わかりました!! 当社の場合はいざ知らず、
勤労奉仕に頼って森づくりをしたんでしたね。
バイクで一周できる道がありました。
道の内側の立派な社殿よりも、外側の方に興味が湧きます。
バイクに乗ったまま撮ったのでわかりづらいのですが、
小御門神社の東南には谷があります。
名古屋はとても興味深い場所なのでいずれ再訪したいと思います。
蘇我氏ゆかりの場所が見つかっていますが、時代ごとの変遷もあり
必ずしも厳密に二分されているわけではないとしても調べる意欲が湧いてきます。
同じ空は二度とは見られませんし、古代の様子が再現されることも
あり得ませんけれど、一歩でも古代人の"常識"や"情念"に迫れれば…。