藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

日本最古の系図をもつ伊福部氏

日本最古の系図は国宝に指定された『海部(あまべ)系図』とされ、
丹後一宮 元伊勢 (この)神社HPにこう書かれています。
昭和51年(1976) 6月に現存する日本最古の系図として国宝に指定された。
この系図は、平安時代初期の貞観年中に書写されたいわゆる祝部系図(本系図)と、
江戸時代初期に書写された勘注系図(丹波国造本記)とからなる。
系図は、始祖彦火明命から平安初期に至るまで縦一本に、世襲した直系の
当主名と在位年月だけを簡潔に記したいわゆる宗主系図である。
稲荷山鉄剣銘とよく似た形式で、竪系図の最も古い形を伝えているといわれる。
 
そして、海部氏が始祖とする彦火明命は「饒速日尊」と同一視されていました。
「亦名饒速日命、亦名神饒速日命、亦名天照國照彦天火明櫛玉饒速日命、亦名
膽杵磯丹杵穂命、統八州 也、已而速日命則乗天磐船、登於虚空、降坐於凡河内國」
 
ところが、その彦火明命=饒速日尊を「第八代」とする系図が存在していたことが
映画『神々の履歴書』(前田憲二監督/1988年6月27日公開)で明かされたのです。
明治まで因幡一宮宇倍神社の神官をつとめた伊福部氏の(門外不出とされた)系図
直系の伊福部達東大名誉教授が北海道から尾山台の伊福部邸に持参され、
作曲家 伊福部昭氏が前田監督のインタビューに応じられました。
(私は伊福部昭先生に音楽や篆刻を御指導いただいていたので経緯を直接お聞きしていました)
 
この『因幡国伊福部臣古志』(784)は『海部系図(859-877頃成立)より古く、
冒頭の「因幡国伊福部臣古志 并せて序」にこうあります。
 
散位従六位下伊福部臣冨成(いふきべのおみとみなり)撰す
それ前條を観て、はるかに玄古を稽ふるに、国常立尊より以降、素盞嗚尊までは
国史を披き閲して知りぬべし。故、降りて大己貴神を以て、始祖と為す。
昔、先考邑美郡の大領外正七位下、諱は公持臣(きみもちのおみ)
右馬少允正六位下佐美麻呂と宴飲し、酒たけなはに常に古志を論ず。
蒙、常に隅に座して、膚に鏤め骨に銘す。恐くは末裔聞かざるが故に、
伝を転して之を示す。但し道聞衢説は、蒙の取らざる所なり。
時に延暦三年(784)歳次甲子なり。
 
これって、『因幡国伊福部臣古志』はホントはもっと古いんだけど、
天皇家の手前(?!)時代を下り「大己貴神」を始祖にしときますよ…ってこと?
しっかり、ニニギノミコトより先にヤマトに降り立っていたニギハヤヒ
「第八代」に据えてはいますが? その、籠神社 海部氏の祖神でもある
「第八代」と、「第十四代」「第十五代」は実に示唆に富んでいます。
 
第八代 櫛玉饒速日命
此の命、天磐船に乗り、天より下り降りる。
虚空に浮かびて、遙かに日の下を見るに、国有り。
因りて日本と名づく。
見る所の国、正に日の出に当れり。
故、葦原中国を、更、日本国と名づく。
 
十四代 武牟口命
[今、武内と用ふ。]伊香色雄命の子。
 
第十五代 意布美宿祢
[一書に曰はく、葛城襲津彦。]武牟口命の子。母は伊冨頭久媛と曰ふ。
 
第八代 櫛玉饒速日命」が今の日本を「日本国」と名づけたニギハヤヒで、
第十五代 意布美宿祢」が葛城襲津彦だとしたら、
その父「十四代 武牟口命」は武内宿禰ということになります。
武内宿禰はまた、因幡一宮宇倍神社の祭神でもあります。
 
日本書紀(第8代)孝元天皇7年2月丁卯(2日)の条に、武内宿禰の父または祖父は
孝元天皇の皇子 彦太忍信命とあり、彦太忍信命の母は伊香色謎命なので
因幡国伊福部臣古志』の「十四代 武牟口命」とも関わりがあります。
十四代 武牟口命」の父 伊香色雄命は彦太忍信命の母 伊香色謎命の同母兄。
日本書紀』と『伊福部臣古志』の記述に相違があっても、武内宿禰
伊香色雄命・伊香色謎命兄妹の一族であることが強調されています。
 
以上のように、伊福部臣の「第八代 櫛玉饒速日命」が物部氏の祖で、
十四代 武牟口命」が武内宿禰ということになれば、
蘇我氏物部氏も伊福部臣の裔ということになりますね。
 
  伊福部臣
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上の系図では武内宿禰蘇我氏の関係が略されているので以下に子孫を引用しますが、
日本書紀』では平群木菟宿禰のみ、『古事記』では7男2女とされています。
 
①波多八代宿禰 (はたのやしろのすくね/羽田矢代宿禰)
許勢小柄宿禰 (こせのおからのすくね)
蘇賀石河宿禰 (そがのいしかわのすくね/石川宿禰)
平群都久宿禰 (へぐりのつくのすくね/平群木菟宿禰)
⑤木角宿禰 (きのつののすくね/紀角宿禰)
葛城長江曾都毘古 (かづらきのながえのそつびこ/葛城襲津彦)
⑦若子宿禰 (わくごのすくね)
 
①久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
②怒能伊呂比売(ののいろひめ)
 
これまで何となく物部氏蘇我氏は敵対していたという印象をもっていましたが、
少なくとも下総国を歩いてみた限りでは、印旛沼の東に蘇我氏関連の須賀神社
龍角寺古墳群といった遺跡がある一方、物部氏鳥見神社が集中している西側にも
古墳群などがあって、うまく住み分けられていたように感じました。
 
天皇家の勢力拡大に伴なって、古代の有力豪族を駆逐したい為政者が
両者をライバル関係に陥れた可能性はないのでしょうか?
 
伊福部氏に関しては、映画『神々の履歴書』(1988)だけでなく、
谷川健一先生も『青銅の神の足跡』(1979)の第一部 第一章「銅を吹く人」で
イフク・イフキ・イホキといった地名と銅との関わりや
銅を鋳造する人々について書かれています。
「銅を吹く人」といえば、伊福部昭先生もよく"ゴジラ"に絡めて
「"火吹く部"ですからねぇ(笑)」と仰っておられました。
 
さて、『因幡国伊福部臣古志』には
初代 大己貴命 (於保奈无知命)八千戈神 (やちほこのかみ)
第五代 天沼名桙命 (あまのぬなほこのみこと)
第六代 天御桙命 (あまのみほこのみこと)
と「銅矛」にちなむ名が見られます。
 
しかも、銅だけでなく、
第二代 五十研丹穂命 (いきしにほのみこと)
第三代 建耳丹穂命 (たけみみにほのみこと)
第四代 伊瀬丹穂命 (いせにほのみこと)
と「丹生」を示唆する名も並んでいたのです。
 
こうした資源を奪いたい勢力があったことは否定できないでしょう。
それが物部氏蘇我氏の滅亡と関係していたのかどうか、
このあたり、もっともっと視野を広げ、見識を深めなくてはなりません。