藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

貝塚と海神族

今日は下総国における安曇族の拠点の一つを目指します。
 
メインは、そのものズバリ豊玉姫神社
豊玉姫神社は「香取海」周辺に海人族が住んでいたことの裏づけとなります。
ところが、これがとんだことで、豊玉姫神社になったのは明治5年(1872)でした!?
往古は海上郡16郷の一つ「編玉(あたま)郷」の総鎮守「編玉総社大宮大明神」と号し、
延暦20年(801)には坂上田村麻呂蝦夷征伐の際に当社を参詣したと伝わりますが、
その後、本殿が風害によって倒壊し、康和2年(1100)に現在地に移転・再建されて
新宮大明神」となったため、「大宮大明神」の鎮座地は不明…。
近くに、延長元年(923)に当地を領した平良文の名を冠した「良文貝塚」が
あるものの、豊玉姫神社へは貝塚からかなり下らなくてはならず、
かつての岸辺に鎮座していた可能性を考えても違和感がありました。
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標高50~52mの台地の斜面に広がる「良文貝塚」には貝層の厚さが3mを越す地点も
あるとか!? 千葉県の貝塚としては初めての国指定史跡だそうです(昭和5年2月28日付)
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鳥居の位置から撮りましたが、いったいどこまで下るのでしょう。
(画像の右上のこんもりに豊玉姫神社があり、その輪郭を辿る道まで下りました↑)
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この道の右上が豊玉姫神社で、ここが波打ち際だった時代があるとの説あり。
道路のすぐ右、社殿のある台地の下に御神木がありました。
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坂を少し引き返し、鳥居の前にバイクを停めました。
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豊玉姫神社の由緒に
景行天皇の皇子 日本武尊東夷征討の砌、相模国より総(ふさの)国へ乗船の折、
難風に遇い海上安全を綿津見神に祈念され、恙なきをもって上陸の後、
総国の旧地たる海上郡編玉郷貝塚字網ノ岡に綿津見神姫神 豊玉姫尊を祀られた。
とありますが、現住所のことではないらしく、あまり参考になりません。
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鳥居をくぐってすぐ右手に蜘蛛窟だか円墳だかわからないような
こんもりがあり、取って付けたように「神武天皇遥拝所」の碑がありました。
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↑ 現在はこの画像の位置(左端の石灯籠の隣、先端が尖った碑)にありますが、
後方のこんもりの上に立っていた2018年撮影の画像を見て今回訪れました。
埋葬主がわからないのは古い天皇陵も同じですが、豊玉姫神社なので
孫である神武天皇を遥拝してるってわけですね?
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「良文貝塚」から西に約1kmの阿玉台(あたまだい)に「阿玉台貝塚」があります。
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「阿玉台貝塚」から出土した縄文土器は、粘土に金雲母という鉱物が混っていて
光に照らすとキラキラ光るのが特徴だそうです。
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案内板の横の坂から登るようです。
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うわぁ~、下の道路とは別世界です!
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ぐるっと広がる斜面に、貝殻などをどんどん捨てていったわけですね…。
この「阿玉台貝塚」から300mほどの距離に編玉郷の鎮守とされる
編玉神社があり、社伝によれば景行天皇38年の勧請とか!?
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これは…豊玉姫神社も「編玉総社大宮大明神」と名乗っていたわけですから
或いは海上郡編玉郷の鎮守争いがあったのかも…?
いや、主祭神がヒコホホデミ(山幸彦)なので、逆に
約1km離れた豊玉姫神社の祭神とセットで祀られていたのかも…?
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道路脇に唐突に階段がありました。
(台地の神社にこの形が多いのは、元々道のなかった森の中に道路をつけたからですよね?)
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ふつうの神社ですが、ちょっと気になる点が…。
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境内摂社というか、社殿の右にちゃんとした駒形神社があったのです。
ここから西南に約2kmの対岸(!?)に国の天然記念物「府馬の大クス」があって
府馬氏との関連が前から気になっていたので(単なる“馬”つながりですが)…。
今日は10社まわる予定なので時間的に無理…と当初は諦めていたものの、
今日を逃すと死ぬまでに行けないかも知れないので、急遽予定を変更。
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もしかして、対岸の府馬が見えてます?
ここは神社じゃなくても、要塞の見張り台として役立ちそう…。
 
今日は、8年前に行った50kmほど西の下総国倉麻郡意布郷鎮座葺不合神社
祭神ウガヤフキアヘズの両親たるヒコホホデミ豊玉姫を祀る2社が
海上郡編玉郷にあったことを知っただけでも大変な収穫です!!
さらに言えば、
編玉神社豊玉姫神社のある台地の最西端に久保神社があり、
祭神が「大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神」高皇産霊神でした。
この台地に安曇氏および蘇我氏の祭祀があったことを暗示しているのかも?
 
なお、編玉神社では「祇園祭」が行なわれるそうですから
本来の祭神はスサノヲですね? それもスカ・ソカ氏の祭祀です。
安曇氏関連のヒコホホデミなのか、蘇我氏絡みのスサノヲなのか
それぞれの祭祀が行なわれた年代などがわかると嬉しいのですが、
大元が同族に近い関係なので難しいのでしょうか?
 
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えええ~?! 府馬に宇賀神社? やっぱり行ってみなくては。
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府馬の高台に上り始めただけでこの景観。対岸から走ってきました。
ほどなく「大クス」です。
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すごい…。これが樹齢1500年と言われるタブノキですか。
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タブノキクスノキ科タブノキ属の常緑高木なら
蘇我氏はアヅミ科スカ・ソカ属の海人族と言えるのでしょうか?
 
しかし、この高台に鎮座する宇賀神社には驚かされました。
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宝亀4年(773)に「宇気母知神」を勧請ですって? いったいどこから?
わからないことばかりとはいえ、来てよかった!!
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画像だけではわかりづらいのですが、
樹高約20m、根周り約27.5m、幹周り約12mの巨樹でした。
 
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再び「香取海」の海岸線まで下りてきました。
現在は黒部川の東側に阿玉台、西側に府馬ということになりますが、
小見川駅の真南が府馬なので「香取海」の入り江の一つに見えます。
 
『和名抄』下総国海上(宇奈加美)郡に16郷あり
1.編玉郷(あたまのごう)
比定地は香取市阿玉川・布野・五郷内・貝塚・阿玉台などの一帯。
地名は「アタ(崖)・マ(場所を示す接尾語)」とされています。
13.布方郷(ふまのごう)
「布」は「布」の誤りとされているそうです。
比定地は香取市府馬付近。
 
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帰りは香取神宮を通るルートで、通り道の神社を覗きながら…というつもりでした。
右手に「香取海」を見ながら、ぼお~っと走っていたら、左手になが~い階段が!?
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下総国を走りながらずっと「対馬みたいに海から参拝するタイプの神社が多い」と
つぶやき続けてきましたが、同じ海神豊玉族だとしたら当たり前ですよね。
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ふふふ…、ちゃんと「出雲国・杵築大社の荒魂を勧請」と書いてますね。
明治以降に改称した「出雲大社」を使われると時代が混乱してしまいますので。
(安直に、「出雲大社」の無い時代の由緒に「出雲大社」と書いたケースのいかに多いことか!?)
 
どんどん北上しながら(というか帰途は北西方向です)天之宮大神を目指してます。
蘇我氏関連の高天神社へ行ったので「天之」が気になりまして。
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走っていたら社殿が見えました。ここでしょうか?
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日没間近で、5時のチャイムが鳴り始めました。
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ぐるっと一周してみましたが、社名がわかるものは何もありません。
この地でも蘇我氏に取って代わった勢力があったのかなぁ?
と、蜘蛛窟っぽい雰囲気にゾクッとしました。
すでに日没との闘いですが、この時点であと4社残っていました。
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暗くなると楽譜が見えません。
あと1社しか行けないとしたら「高天原」なので「高」のつく神社ですかね?
すると香取市多田の高房神社
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残念ながら、ここには停められず、振り向くと道の反対側に
正一位高房稲荷大明神」への急な階段がありました。
高房神社へも階段なので、いわばここは谷底なのでしょう。
地図に「高房神社 鳥居(北)」とあったので道路を登ってみます。
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畑の中に鳥居だけが立っていました。
暗い繁みに入ってゆくのは怖いのですが、ここまで来たら有終の美を飾りたい?!
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うわッ、シャッターが下りませんよ…
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それでもオートで撮ったら肉眼で見るよりずっと明るく写ってます。
扁額に「高房大明神」、意外なことに祭神は「建葉槌命」でした。
由緒は
創建は不明であるが、香取神宮末社と称される
とあるも、摂社や末社には征服して支配下に置いたものもありますよね?
社名が変わっていないわけですから、素直に読めば「ふさ(下総)の国のたか」。
《薦枕》の歌詞に出てくる「たか贄人」「たか瀬の淀」と考えれば
「豊岡姫」を奉斎する人々、すなわち安曇に象徴される海神族の祭祀かと。
ただし現在の祭神は官製の神。ここがポイントですね。
 
では、今日最初に行った香取神宮の摂社。
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ふだん、こういう立派な神社は敷居が高いので素通りさせて頂くのですが、
古来御祭神は神秘なりと云ひ伝ふ。或いは云ふ、側高神、
即ち経津主神の后神なりとも。(新修香取神宮小史より)
の一文を読み、祭神に興味を持ちました。
「そばたか」神社は千葉県に10社以上あるとのことですが、以前行った印西市笠神では
蘇羽鷹神社と表記されていました。もしかして「蘇我」「高」?
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ただし当社は、香取神宮の第一摂社でありながら、祭神を
「国土浄化の祖神(みおやがみ)」としていました。
 
古事記』の冒頭にしか出てこない造化三神とは、
大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神」です。
それゆえ、大和朝廷の軍隊たる香取や鹿島の神に秘す必要があったのでしょう。
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当社が、“いの一番”に香取の皇軍支配下に置かれ、「第一の摂社」とされたのは、
普通に考えると「香取海」に先住していた海神族の拠点の一つだったからでしょう。
それゆえ『新修香取神宮小史』は最大限に譲歩して
側高神、即ち経津主神の后神なりとも。」としたのかもしれません。
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甕があると知り、北部九州の甕棺かと思ったら違ったようです。
天香久山の山頂と似ていますが、天香久山は甕2つでした。
 
さて、当社にもタブノキがありました。「府馬の大クス」と見比べてください。
府馬は樹齢1500年と言われますから、かなり差があります。
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側高神社から西へ約1kmの北緯35.895のラインに玉田神社があります。
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その、直線で1kmの移動に10分以上かかりました。
成田線の踏切を越えて利根水郷ラインを走れば5分以内に移動できたはず。
それなのに、ナビが南にルートをとれと言い、またしても未舗装路…。
ガタガタ道の振動が酷くてスピードを出せません。
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しかし、"シマ"の南側にも鳥居があったんですよ!!
玉田神社は、成田線側が表参道なのか裏参道なのかわかりませんけれど、
この鳥居と成田線の踏切にある鳥居の真ん中あたり、一番高い場所に鎮座してました。
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恐らくここは裏なんでしょう。突き当りが階段で、下に鳥居がありました。
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階段の上の狛ギツネ!? よもや稲荷社だったとは…。
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いったいどこの国の稲の神様なんでしょう? 神紋は豊川稲荷系でした。
建久年間(1190-99)に千葉介常胤の第五子である本矢作城主の国分五郎大膳胤通が
鬼門除けとして「幽境須久井」に玉田神社を創建したと伝わるため
すぐいのいなり」と呼ばれてきたようです。正かなは「すくゐ」?
しかし、寛文12年(1672)、徳川旗本領主坂部三十郎が現在地(水神谷)遷座
その後、何度かの改修を経て、水神谷から水神台まで社殿が造営されたようです。
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祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)でキツネだらけですが、この水神台は古代から
寛文12年(1672)まで、何の祭祀も行なわれていなかったとは考えづらい立地ですね。
そもそも水神台と呼ばれていたわけですし、当社のデータが極めて少ない上、
「幽境須久井」についても全くわからないのが残念です。
 
下総国宇迦神社が多く、祭祀もまちまちです。それは側高神社にも言えること。
あと一回、今日行けなかった祖波鷹神社等へ足を運び、見聞を広めたく思います。