藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

造化三神と蠶靈(さんれい)神社

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2/28に利根川の土手を走った時には、まだ菜の花は咲いていませんでした。
神崎大橋を渡りつつ、もうすぐ河川敷に菜の花が咲きそう…と思っていたら
今日、神崎大橋を渡らず土手の県道11号線を直進したとき黄色い帯が見えました!
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今日の午後はずっと曇りの予報です。花粉飛散量は「少なめ」。
神崎大橋から十数分、利根川橋と神道山古墳群のあるこんもりが見えました。
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今日は神栖市へ向かっています。私なりに「東国三社」をまとめたくて。
 
鹿島神宮へは2012年12月、香取神宮へは2016年7月、
鹿島神宮の元宮と言われる大生神社のある大生へは
2012年12月と2019年2月に行きました。
 
香取神宮の元宮と言われる大戸神社と、「東国三社」の残る一社
息栖神社へは、2018年2月に行っています。
あとは息栖神社の元宮だけですが、
現在は、石塚運動公園あたりにあった息栖神社が1300年前の大津波
流されたため朝廷が安全な場所へ遷したとの説が有力らしいです。
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この「権現塚古墳」の角一つ奥が石塚運動公園です。
ここ神栖市日川(にっかわ)息栖神社の関係については
息栖神社の案内板に
古くは日川に鎮座していた祠を、大同2年(807)、右大臣藤原内麿の命に依り
現在地の息栖に遷座したと伝えられている」とありました。
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大同2年(807)といえば坂上田村麻呂の東征と重なるため、
皇軍は、息栖神社に鹿島大神の先導役をつとめさせるべく、
葦原中津国への出入りを掌握できる現在地へ遷座させて
(くなと)神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神を祀らせたのではないかと…。
天鳥船神は、白鳳2年(673)遷座神崎(こうざき)神社の祭神ともありますが、
記紀に出てくる神を壬申の乱の翌年に登場させるのは早すぎやしませんか?
大和ならまだしも、東国ですし。
ふつうに考えれば、息栖神社遷座した大同2年(807)までに
鹿島香取の軍神(いくさがみ)+先導をつとめる神崎息栖の天鳥船船団
という皇軍の陣容を整えて、坂上田村麻呂らが蝦夷征伐を行なったのでは?
 
他方、今の蠶靈(さんれい)神社息栖神社の元宮とする説もあります。
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このあたりは遠浅の海岸線だったのか、低地に鎮座しています。
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鳥居近くの地面の枯葉を除けると、あちこちに貝殻が埋まっていました!!
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昔から人々の生活の場だったんですね。
 
当社の祭神は『茨城県神社誌』に大気津比売(おほげつひめ)神とありました。
オホゲツヒメはウケモチ神と同一視され、「トヨウカ」にも繋がります。
日本書紀(720)神代上の一書(あるふみ)
葦原中国(あしはらのなかつくに)保食神(うけもちのかみ)有りと聞く
とあるのも、「香取海」に「葦原」があったことと結びつきそうです。
 
ただ、現在は天竺の"金色姫伝説"の神社になっています…。
"金色姫"を外来の神だと知ったのは蚕神信仰発祥の地と名乗る
筑波の蠶影(こかげ)神社(=蚕影山神社)に行った時でした。
 
ところが先月、下総国皇産霊神社を知ったことで、
「養蚕」は後付けで、発音が同じ「さんれい」(産霊神社)にかけて
蠶靈神社としただけではないか…との疑念が生じました。
当地には「鰐川」もあることから、豊玉族や蘇我氏の祭祀が先で、
蠶靈神社としての歴史は実は短いのではないかと妄想しています。
では、蠶靈神社の案内板「蚕霊神社の由来」を抜き書きしてみます。
 
孝霊天皇5年(紀元前286年)の春3月。豊浦浜(日川)の漁夫権大夫が
沖に漂う丸木舟を引き揚げてみると、世にも稀な美少女が倒れていた。
少女は天竺(インド)霖夷国霖光(りんいこくりんこう)の娘 金色姫。
母の没後に入った継母は国一番の美女ともてはやされる姫を憎む余り
山や絶海の孤島に閉じ込めるが、助けられて戻ってくるので
城の片隅に穴を掘って埋めたという。
ところが埋めた場所から眩い金の光が発せられたので継母は驚き、今度は
桑の木で丸木舟を作って押しこめ、大海に投げ込んだ。
丸木舟は常陸国豊浦に流れ着き、権大夫が助けるも姫は病死し、小虫となった。
これを姫の化身と考えた権大夫が桑の葉を与えて飼育すると繭を作り
中に納まったので、繭から絹糸を繰り出して絹を織り上げ、養蚕を
新たな産業としたので、その象徴として蚕霊神社を造営した。
 
この「蚕霊神社の由来」を読むと、まるで豊玉族を暗示する「豊浦浜」へ
丸木舟が流れ着いたとする紀元前286年頃に当地で養蚕が始まったかのように
受け取れますが、よもや実際に養蚕が始まった年と"金色姫伝説"に
千年・二千年の開きがあったりはしないでしょうね?
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こんな扁額は見たことがなく、いろいろと妄想が湧いてきます。
明治41年」とはまた…
神栖の養蚕に関する「町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が
急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになった」
との歴史と合致しますし、生産額が増えた年代にもあたります。
しかし、「香取郡八都村」とは…?!
私はどうしても「ヤツ・ヤト」として討伐された先住民を想像します。
同族の先住民が八都と日川に分かれて住んでいたとか?
八都村が日川に習って養蚕を始めたので御礼に献納したとか?
(以前にも「香取海」を挟んで常陸国下総国に同じ地名があり、同じ氏族が住んでいた
可能性について触れましたが、きちんと裏づけをとるべく調査を続けてまいります)
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さて、蠶靈神社の祭神が天竺の"金色姫"になった理由について
興味深い話があったので引用させていただきます。
養父市のサイトに上垣守国(1753-1808)の年表がありました。
それによると、上垣守国は享和2年(1802)に『養蚕秘録』(全3巻)を著しています。
守国は明和7年(1770)に17歳で養蚕の先進地たる陸奥国伊達郡福島へ行き、
蚕種を持ち帰って大屋谷養蚕の原種としたのち蚕種改良に尽力しました。
このとき奥州に伝わる"金色姫伝説"を知ったのでしょう。
『養蚕秘録』に「天竺霖夷大王の事」として"金色姫"のことを書き、
「蚕霊神社の由来」にある「豊浦浜」を「豊良湊」と表記していました。
古い日本語では母音は語中に立たないため、「豊浦」は「とよら」ではなく
「とゆら」となります。よって守国は「豊良」としたのでしょう。
 
奥州で養蚕を学んだ守国の没後、文政12年(1829)オランダ東インド会社
シーボルトが『養蚕秘録』(1803)をオランダへ持ち帰りました。
この農業技術書に着目したフランス政府は、フランス語に訳し、
嘉永元年(1848)にパリとトリノで出版したそうです。
これが日本文化輸出第1号と評価され、『養蚕秘録』は日本国内でも
明治20年(1887-)まで80年にわたり出版され続けたのだとか。
 
こうしてみると、上垣守国はシルクの取引相手たる東インド会社との接点を
もとめて、「奥州」由来の蚕種を「天竺」由来にしたのかも知れませんね。
この商売上手な守国さんが作り上げたインド伝来の''金色姫''を神社の
祭神として拝むというのもまた商売の一環でしょうか?
 
なお、「孝霊天皇5年(紀元前286年)の春」に"金色姫"が流れ着いたとの伝承は
神栖町歴史民俗資料館の資料には、「欽明天皇の時代(6世紀中頃)に"金色姫"が
インドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地」と言い伝えられているとあります。
「紀元前286年」と「6世紀中頃」では800年以上の開きがあるし、実際の
神栖での養蚕のピークが明治後半だったとしたら、時代が違い過ぎますね。
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茨城県神社誌』にあった蠶靈神社の祭神オホゲツヒメは
記紀によって違いがあるものの、食べ物と養蚕の神とされるため、
当社が"金色姫"以前から養蚕に纏わる神社だった可能性はあります。
海人族地名の解明や先住民族の特定も必要でしょう。
 
息栖神社に関しては、『三代実録』(901)にある
仁和元年(885)3月10日 授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下
於岐都説神息栖神社と主張していますが、現在も行方市
於岐都説神社があるのに、どんな根拠があって於岐都説神を名乗るのか、
もしかすると遷座する前の日川に於岐都説神が祀られていたのか、
まだまだ調べなくてはならないことがあります。
江戸時代に、主神を気吹戸主神と記した資料があるのは「息」つながりで
息長氏、「イブキ」で伊福部氏を暗示したものでしょうか?
ともかく於岐都説神社へ行ってみなくては!
 
1社だけで長くなってしまいましたが、ここから更に下流へ向かい、
常陸川水門&利根川河口堰を通って千葉県側へ渡りました。
2/14に豊玉姫神社へ行った際に走ったルートを辿ります。
よって良文貝塚を通ります。前回撮り損ねた画像を撮れますね。
そのルート上に天之宮大神があるとわかったので立ち寄ります。
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ナビは直進と言ってますが、右手に「須賀山城跡」の道標を見つけました!
地図を出して確認するとショートカットできそうだったので右折。
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けれど、見た目以上に勾配が急で、先を見通せません。
エンストしたら大変なので途中で引き返し、ナビが示す迂回路を走ることに。
いや、しかし、山道に入るとコンクリート舗装でガタガタ…ガクガク…でした。
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ようやくテッペンに辿り着きました。
あの坂を登ったら、この未舗装路を走って来ることになったのでしょうか…?
鳥居の正面へ続く道ですから、これがいわゆる参道ということになります。
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「須賀山城跡」とあります。左には案内板があるようです。
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神社というのは明治以降の名称ですね。
当社の祭神は、辞書に、
古事記』で天地開闢(てんちかいびゃく)のときに高天原(たかまがはら)に出現した
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
神皇産霊神(かみむすひのかみ)を万物生成化育の根源となった三神という
とある、いわゆる造化三神です。
 
2/28に行った新市場(にいちば)天宮神社の祭神が判らなかったので
当社の祭神がアメノミナカヌシらしいとわかり、足を運びました。
2/14に行った織幡の天之宮大神の祭神もわかりませんでしたが、
香取市葛城王朝を思わせる高天神社があり、地図上だけでも
2つの天宮神社と2つの天之宮大神があるとしたら、それは
大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神」の可能性が高いでしょう。
天宮神社の読みも恐らく「アメノミヤ・アマノミヤ」で
明治以前は天之宮大神だったのではないかと…。
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社殿には龍の彫り物、そして「アメノミナカヌシ」「須賀山」のキーワードから
蘇我・須賀氏の祭祀が行なわれていたのではないかと感じました。
 
蘇我氏と判断し、《いるか》の神楽歌を演奏していたら、チッチッという
笹鳴きが聞こえてきました。ウグイスが「時にあらず」と鳴いているのです。
まさしく《早春賦(そうしゅんふ)》の世界ですね!
 
春は名のみの 風の寒さや。
  谷の鶯 歌は思へど
時にあらずと 声も立てず。
 
ところが、神楽歌が2番に入ると「ホーーーホケキョ」と鳴いたのです!!
ずっと一緒に歌おうと笹鳴きをしていたので「時機到来」となったのでしょう。
実は、私は神楽歌に声を和してくれるウグイスに歌い方を学んでいます。
オスが繁殖期に出す声の一つに、いわゆる「ウグイスの谷渡り」があって
それが神楽歌の基本的な音型にソックリなんです(当然ヒトが真似たわけですが)
ですから、ウグイスが一緒に鳴いてくれないような歌唱では困ります。
また、神楽歌の中には「シカ囀る声」というのがあって
やはり繁殖期のオス鹿の鳴き声を模しています。
宮中へ入って神楽歌になったとはいえ、元は自然とともに生きた海人族の歌でした。
 
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あ?! 牛さんがこっちを見てる!!
この台地から下りるのに、上りとは違う農道を選びました。
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道の左手にも、下った右手にも牛舎がありました。
このあと、次の"シマ"へ行くのに迷って谷まで下りてしまい
時間をロスしました。
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崖の手前で瀧大神を見つけた時には安堵しました。
…かといって、こんな狭い通路を三輪車で上がろうとします?
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いま見ると怖いのに、その場では全く平気でした。
二輪に乗ってるつもりだったかも?
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古代の"お約束"通り、周囲が崖の円形祭祀場です。
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社殿の彫り物…というか、造りそのものがさっきの天之宮大神の社殿にそっくり!?
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直線で1.2kmしか離れていないので、同じ大工さんの仕事だったかもしれません。
境内摂社のようなものもありました。
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社頭から見た感じと円形台地に立った時のイメージがまるで違う瀧大神
名残惜しさを感じつつ再びキャノピーで崖の横の狭い通路を走り抜けました。
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ここから豊玉姫神社の鳥居までは5分とかかりません。
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豊玉姫神社は左の崖下、ここからは見えない森に鎮座していました。
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そして、この道を右折すると良文貝塚です。
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この看板の前、標高約50~52mの台地の斜面に貝塚が広がっています。
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こんなに広々とした貝塚がすでに 9地点見つかっているそうです。
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この碑には「史蹟良文村貝塚」、案内板には「国指定史跡良文貝塚」とあります。
少し奥へ進み、反対側の斜面を撮ってみました。
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こういう高台の暮らし、憧れます!!
つくばみらい市貝塚のある縄文台地で作られる無農薬野菜が
凄く美味しいのですけれど、貝層が何か良い作用をはたしているのでしょうか?
 
ここ香取市貝塚から今度は香取市岩部の祖波鷹神社を目指します。
ほかに幾つか立ち寄りたい場所がありましたが、クネクネ道なので諦めました。
約25分後の16:16、道の左手に円墳らしきものが見えました。
もしかして、干し草のサイロ…なんてこと、あります?
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頭頂部に石が立てられ、テッペンに雀がとまっていました!?
2分後の16:18、なだらかな斜面を生かした畑に目がとまりました。
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地図を見たら住所は「仁良」でした。「ニラ」は物部地名ではないでしょうか?
 
45分ほど走って祖波鷹神社着。
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以前、印西市笠神の蘇羽鷹神社に関して、「そが+たか」ではないかと書きましたが、
側高蘇羽鷹祖波鷹脇鷹の表記にかかわらず、響きからそう感じます。
香取神の支配下にあるためか、地図上で探すと、千葉県14、茨城県3、埼玉県2、と
ほぼ下総国に特化されているかのよう…。
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階段を使わず、台地の横からキャノピーで上がりました。
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朱塗りの本殿を見ると、どうしても千葉神社の影響かと思ってしまいますが、
ここは中世に千葉氏の一族 岩部氏の居城「岩部城」があった場所なのだそうです。
しかし、当社の創建は千葉氏よりも古い。
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いわくありげな石段!? ここは「大伴氏の奥津城」との伝承もあるらしいのですが?
「岩部城」は栗源保育園から栗源小学校を含む広い範囲にあったそうなので
一定期間"城"があったことはたしかなのでしょう。
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行方市小高の側鷹(そばたか)神社の社伝に、
経津主大神が小高に東征したとき、タカミムスビの神を祀り、
石槌の剣を捧げて戦勝を祈ったのが社の始まりとあるそうです。
タカミムスビとは造化三神=「大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神」です。
皇軍がわざわざ「葛城王朝の祖神」を祀ったかどうかはわかりませんが、
無縁なものを社伝にするとは考えられないので、元々の祭神だったとすると
やはり「そばたか」は「そがたか」の転訛でしょう。
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「たか」はであれであれ、《薦枕》を奉斎する「たか贄人」。
「そばたか」とは蘇我氏こそが「たか」であるとの名称だと私は考えます。
 
常陸国風土記』にあった「杵島ぶりの歌」の一節から
なぜ「香取海」周辺に有明海に面した杵島や佐賀の歌を懐かしむ人々がいたのか
との疑問に突き動かされ、常陸国下総国の探索を始めたことで
中央で滅ぼされた蘇我氏がこの地で勢力を保っていたと知りました。
 
大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神」=造化三神の名を冠した神社が
残っていたことで、長い間わからなかった《薦枕》の歌詞「たか贄人」の
解明に近づけたような気もしています。
タカマ神社、アメノミヤ神社、タカフサ神社、ソバタカ神社…
中でも印旛郡栄町龍角寺の瓦と、印西市の木下別所廃寺の軒丸瓦(白鳳時代)
蘇我氏山田寺系瓦だったことは最大の驚きでした。
 
今日のコースはここまでながら、帰途、二三寄り道しました。
江戸中期に本矢作地区に造営されたという天宮神社降神です。
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江戸時代創建ではなく(社殿?)造営とあるところが気になりますが、
道路脇に突如鳥居が出現。奥に向かって細長い神社でした。
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1-2分直進すると、横長のこんもりが見えてきました。降神でしょう。
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同じように奥に深い神社ですが、歩く余裕はないのでバイクで走れる道を右折。
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社殿まで到達できたものの、あとが大変でした。
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雨も降っていないのに泥濘んでいて泣きながら走りました?!
祭礼では「本矢作伊勢神楽」が天宮神社降神で奉納されるそうです。
最初は天宮神社で舞い、移動して降神で舞われるというのですから
雨だと大変でしょうけれど、昔ながらの道を歩くのなら風情がありますね。
 
ここから帰宅するまで2時間近くかかりますが、もう来られないかもしれないので
成田市伊能の大須賀大神の前を通過するルートをとりました。
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大須賀氏に関連するのかと思いきや、弘仁元年(810)に当地へ遷座とありました。
当初は近くの「神代」に鎮座とのことながら、現在は字名が特定できません。
主祭神天児屋根命であれば春日大神なので古くは安曇・蘇我の祭祀だったはず。
そこに官軍の"武甕槌命"や"経津主命"が合祀されているとなると、
「神代」が平らげられて、810年に遷座させられた可能性もありますね。
今は手がかりすらないものの、いつ大須賀大神に改称されたのかも知りたい!
 
結局、疑問が一つ解消すれば、また新たな疑問が生じる…ことの繰り返しです。
今後は常陸国息栖神社於岐都説神の謎解きをせねばなりません。
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お天気と花粉に相談しながら…。