下総国で高天神社と皇産霊神社を見つけたことで
《薦枕》の歌詞にあるキーワードの重要性に気づきました。
「たか」「あま(め)」+「とよ」「う(を)か」
薦枕や 高瀬の淀にや あひそ たか贄人ぞ しきつきのぼる 網下ろし さてさしのぼる
あめにます 豊岡姫のや あひそ その贄人ぞ しきつきのぼる 網下ろし さてさしのぼる
高〇神社、〇鷹神社などをまわりました。
それで「香取海」周辺に海人族が住んでいたとの確信を得たわけです。
高天原があったに違いないと思い、裏づけをとりにゆくことに。
実は、今回は以前近くを走りながら素通りした場所ばかりです。
6号線を走っていた時、常名高架橋あたりから見た筑波山です。
すると、この川は桜川でしょうか?
ほどなく最初の皇産霊神社へゆくために側道を上がりました。
つくば国際大学前を南下します。
えっ?! 「売地」ですって?
こんな高台に住んでみたいんですよ…縄文人みたいに。
眼下に見えるのは、さっき通ってきた常名高架橋じゃありませんか?
皇産霊神社はここから「売地」までの間にありました。
「売地」と社地の間に、神社の裏側から入れる道がありました。
その道の先は台地のテッペンで少しだけ畑になっています。
大富豪ならここに家を建てられるんですけどね…。
左手にあった椿の木を見ると、光と椿のコラボレーション?!
素晴らしい社叢でした。
取り敢えず、反対側の階段まで行って、鳥居を振り返ってみました。
古社らしからぬ看板ですね。
読みは「こうさんれい」ではなく、「たかむすび」でした。
おお…扁額に「高産霊神社」と「皇産霊神社」があります。
古代、漢字はフリガナのようなものだったので、「たか」に
「皇」を当てたりはしないでしょう。タカミムスビだと知られたくなくて
「こうさんれい」の読みに変えて「皇」とした可能性もありそうです。
何はともあれ、一社目から「高」とは幸先が良いですね。
演奏修行は開放的なこの円形祭祀場で。
再び6号線に戻り、次はかすみがうら市の熊野古墳を目指します。
ふつうは未舗装のこの地点までは上がってきませんよね…。
しかしこの道を途中で引き返すことはできなかったため
バイクが道から落ちないよう、慎重に方向転換しました。
隣にホテルができたためか、この正面に立つと、後ろは約2mの段差なので
6号線から巾2mもない急坂を上るしかありませんでした。
元は今ホテルが建っている手前から直進できる道があったと思いますが…。
うわぁ、やっぱり後円部墳頂に熊野神社が建てられてますね…。
社叢は私の大好きなタイプなのですけれど、
方墳を歩いているかと思うと申し訳ない限りです。
気は進みませんでしたが、墳頂部がどうなっているかと思い、上がりました。
埋葬者の子孫があとから墳頂部に何かを建てるとは考えられないので、
熊野神社を奉斎する人々によって征服されたということなのでしょう。
演奏修行はパス。こういう場所で演奏できる曲を知らないため。
6号線から「高浜街道」へ入って程なく、左手に大きな古墳が見えました。
府中「愛宕山古墳」でした。
この先に、以前素通りした高浜神社があります。
よくある光景ですが、子どもの遊び場…になっていました。
しかし、かつては「香取海」に面した港だったわけで
このあと「国府」までの道を走ったら(侵攻ルートの)イメージがふくらみました。
「青草で仮屋をつくり」…って、まるでウガヤフキアヘズじゃありませんか!?
もともとは、ともに豊玉族「シカの海人(あま)」の祭祀でした。
そのため、豊玉姫が「ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト」を出産した時
「鵜の羽を草(かや)として産屋の屋根を葺いたが、葺き終わらないうちに産まれた」
という神話を踏まえて仮屋が作られたのかもしれません。
葺き替えには膨大な費用がかかると思いますが、
海人族の神話をイメージできる姿のまま残るといいですね。
「高浜」から「高倉」まで走るというのが今日のテーマでした。
地図上、「高倉」の手前の「粟田」に春日大明神があるものの
道が載っていないので探してみました。
おそらくこの階段を登るのでしょう。
けれど、ここにバイクを停めてゆくのは憚られます。
スカ・ソカにまつわる「カスガ」=「カ」+「スカ」?
「アスカ」=「ア」+「スカ」? という言葉遊びのみで素通りします。
なお、現住所は「ア」+「ハタ」です。
やはり現代かなづかいでは重要なことを見落としかねません。
「粟田」は「アワダ」だそうですが、正かなは「アハタ」です。
また、ここから直線で750mの稲荷神社と、稲荷神社から直線で600mの
鹿島神社はおよそ北緯36.20のライン上にあります。
現在「高倉」の大部分はゴルフ場になっているため、
稲荷神社と鹿島神社で昔の地形をしのぶほかありません。
ともに直線で1km未満ながら真っ直ぐの道などなく、
山あり谷ありのジグザグ道を何分も走って辿り着きました。
ここ…ですか? この階段を上がるのは勇気が要りますね…。
もう少し暖かくなって、ヘビが出る季節になったらアウトでした。
こわごわ登り切ると小さな石祠だけの、あっけないほど清々しい空間でした。
これは…古代をイメージできて演奏修行にピッタリの場所ですね。
「笠間稲荷」の御札とキツネのオモチャが置かれていますが、はたして
ダーキニーの稲荷神社でしょうか? かつて宇迦神社だった可能性が高いのでは?
登った時、何ヶ所か石段が崩れて坂みたいになっていて苦労したので
下りは手をつきながら降りました!? ハードル高すぎます。
次の山に登る前に「高浜」の稲荷神社の全景(?)を撮ってみました。
画像左手に「稲荷池」なるものがあり、その上がゴルフ場でした。
優雅にゴルフをたのしんでいる方々がおられました。
それなのに、塀の外の私は未舗装路を走っている始末…。
ホントにこの先に鹿島神社があるのでしょうか?
坂を下っていたら、右手の奥に社殿が見えました!
社殿の後方は墓地でした。
その昔も、この台地に暮らす先住民が平らげられた蜘蛛窟だったりして…
と妄想をたくましくしつつ坂を下ることに。
下り切ったら恋瀬川を渡って「上志筑(かみしづく)」を走り、
かすみがうら市「上佐谷(かみさや)」を目指します。
「茨城郡の西南を流れる信筑の川は、筑波の山に水源を発し、郡内をめぐりて
東の高浜の海に注いでゐる」とある信筑(しづく)川のことです。
地名と無関係なキラキラ名には戸惑うばかり…。
あの橋を渡りつつ筑波山を撮りました。
言向けようと、新治の国造の祖先となった比奈良珠(ひならす)の命を遣はした。
比奈良珠命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。
新しい井を治(は)りしことから、新治(にひはり)の名がついた。
諺に「白遠(しらとほふ)新治の国」といふ。
この井戸は今も新治の里にあり、季節ごとに祭が行なはれる。」とあります。
前々から海人族地名の残る上志筑・中志筑・下志筑を走りたいと
思っていましたが、今回は上志筑を通って上佐谷へ。
ナビの指示通りに走っていたのに、迷いに迷っています。
いずれ「しづく」と「天の川」周辺を探訪してみようと計画中。
当然ながら「しづ」は綾織りに対する倭文(しづ)織り、志都(しづ)歌のイメージです。
「イボ」なら、いわゆるオホクニヌシではないかと思いましたが、わかりません。
伊保田神社から同じ上佐谷の天ノ宮神社へ向かおうとしたら桜!?
ここはかつて「千代田村大字上佐谷」でした。
いったん幹線道路へ戻ったのに、すぐに右折せよと命令されました。
でも、畑の中ですよ。私有地じゃないんですか?
畑の中をジグザグ走って着いたのがここ!?
もう朽ち果ててしまったのかと思いきや、隙間から社殿が見えました!!
崩れかけた集会場に保護されるように、古代の円形祭祀場がありました。
ものすごい迫力です…。しかしここで怯んでは修行になりません。
何とか演奏修行をしました。
社殿に向かって左奥に石碑があり、こちらも参道のようでした。
地図を見ると、近くの「大峰」という集落にも天ノ宮神社があるので向かいます。
この先を下るようですが、人家もあるので大丈夫でしょう。
下り切った所に稲荷神社?! 比較的新しそうですが…?
再び農道を走りつつゴルフ場を迂回して「大峰」へ。
下総国でも道路際に鎮座していた天ノ宮神社がありましたね。
支店のような感じなのでしょうか?
この道の左側は春!! でした。
この奥がゴルフ場だと思いますが、「大峰」と呼べるような山はありません。
あるいは「オホ」氏がこの台地を征服したことの暗示か?!
「あるとき、大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、佐伯の住む穴に
茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放つて彼らを追ひ立てた。
佐伯たちは、慌てて穴に逃げ帰つたが、仕掛けられた茨の刺が
からだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。
このときの茨から、茨城の名となった。
諺に『水泳(みづくぐ)る茨城の国』といふ。」とあります。
かすみがうら市立志筑小学校のある中志筑へは行かず、出直します。
今年の桜は見逃しませんよ。