采女(うねめ)臣の一族が、筑箪(つくは)命を、この紀国の国造として派遣した。
筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といふて
旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。
とあります。
水守 桜塚古墳から見た筑波山
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、
とあり、
宇豆比古(木国造/『日本書紀』は紀国造)の妹 山下影日売との間に生まれた
武内宿禰には7男2女があったと記されています。
以下は『古事記』記載の7男の名前です。
②許勢小柄宿禰 (こせのおからのすくね)
⑥葛城長江曾都毘古 (かづらきのながえのそつびこ/葛城襲津彦)
⑦若子宿禰 (わくごのすくね)
常陸国には⑤紀氏の足跡が残っているということでしょうか?
先住民は、佐賀の杵島(きしま)や基肄城(きいのき)ゆかりの人々だったのでは?
との妄想の裏付けをとりたく、常陸国を歩いています。
■ 約1,700年前の「前方後方墳」 ● 約1,600年~1,500年前の「前方後円墳」
3万年~2万年前の霞ヶ浦の地図に
ヤマト王権が東北に城柵を設置し始めたのは7世紀中頃からなので
7世紀の岩屋古墳ですら蘇我氏関連と言われています。
紀の国たる筑波最古の古墳を探していたら、富士見塚古墳公園で
前方後方墳「桜塚古墳」の名を見つけました。
ところがGoogleMapには小美玉市の円墳「桜塚古墳」しか出ません。
常陸国では約1,700年前の「前方後方墳」が最古とされているため
『筑波古代地域史の研究』(1981/筑波大学)などを読んで探しました。
水守(みもり)桜塚古墳と書かれた↓こちらもお借りしてきました。
ただ、全長48m・後円部直径25m・高さ3.45mの前方後円墳「山木古墳」は
「学園東大通り」によって分断されてしまったのだとか。
よくこういうことができますね…、古墳をぶった切って道路を通すなんて!?
貝塚に関しては、桜川沿いに小規模なものが幾つもあったそうです。
下坂田貝塚があったらしいのですが、場所がわかりませんでした。
実際に住んでみたくなるような縄文台地ではありましたが。
今日は小貝川を越えて筑波稲敷台地へあがったら
桜塚古墳のある水守まで、一度も台地を下りませんでした。
GoogleMapに桜塚古墳が載っていないため、
隣接していると思われる香取神社を目指して走りました。
なんと、鳥居から社殿に向かう参道を分断する道?! 右手が社殿でした。
鳥居には扁額がなかったのですが、社殿の扁額に香取神社とありました。
本殿には覆屋があったので、格子からカメラを入れて撮りました。
龍の彫り物に、鹿のツノのようなものがついていてビックリ!?
先住民は"シカのアマ"という暗示でしょうか?
もちろん桜塚古墳が築造された時代には、香取も鹿島もありません。
本殿に向かうと筑波山を遥拝する形になるわけですね。
すると、左手のこんもりが桜塚古墳だと思うのですが?
ともかく繁みに入ってみましょう。
この図の南側から入ったことになります。
4世紀後半の築造とされる水守桜塚古墳は全長30m、
主体の後方部墳頂下で長さ6.7mの割竹形木棺が確認されています。
副葬品として、変形四獣鏡、直刀、輝緑凝灰岩菅玉、琥珀勾玉、
輝緑凝灰岩石釧(いしくしろ)、ガラス小玉等が出土したそうです。
中央が桜塚古墳、左のこんもりが香取神社の社叢。
全景を撮りたく台地から下りましたが、古墳そのものの形はよくわかりません。
ただ、筑波山を取り巻く共同体の一つがここにあったことはたしかです。
今日は、筑波山の南南西にある水守桜塚古墳と同じく4世紀後半~5世紀初頭に
築造された前方後方墳、筑波山の東北東にある丸山古墳へも行きます。
筑波山を通る「石岡つくば線」を走るのも魅力的でしたが、
南麓を迂回して朝日トンネルを通る方が15分早いと出ました。
そのルートなら「つくば市佐」の古墳に立ち寄れます。
「佐」の鹿島神社境内からは箱式石棺・勾玉・鉄刀・銅鏡などが出土。
もしかして、無造作に置いてあった↑コレが箱式石棺?
わずかに桜が残っていますね。社殿の前に立つと、筑波山を遥拝する形です。
「佐古墳群」を探していますが、見当たりません。
地図に「筑波山芝桜」って書かれてた位置から
古墳らしきものを撮ってみましたが、まさか…ねぇ。
よくわからないまま「取手つくば線」を南下していると「若森県庁」?
さらに南下して「つくば千代田線」を東へ進むと、以前行った金嶽神社。
ここから北上して朝日トンネルへ向かいますが、手前に小野小町の里があります。
小野=ワニ氏ということで、気になっていながら立ち寄れていませんでした。
東大寺古墳群(4~7世紀)に纏わるワニ氏の存在は否定できないでしょう。
お?! パラグライダースクールがあるようです。
「小町の館」まで行きましたが、駐車場が満車だったので
集落を走っただけで朝日トンネルへ。
トンネルの左に見えるのが土浦市小野の集落です。
トンネルを抜けたらひたすら北上します。
という手がかりだけで、地図には目指す熊野神社の周辺の道は出ていません。
それなのにナビの指示通りに走った愚かな私…。
またしてもパラグライダーです。近くにソラトピアというスクールがありました。
筑波山は上の画像左端に頭だけが見えています。
「目的地に着きました」とナビが言ったのは白山神社でした。
地図を見たら熊野神社の真南だったのでクネクネ道を引き返し、
勘だけを頼りに北上してみました。
ここが行きどまりです。登り切れないかもしれませんが、登るしかありません。
しかし、コンクリート舗装はここまででした!?
どうやって下りようか…なんて考えてもしかたありません。停めて進むのみです。
すごい木漏れ日!!
ようやく社殿まで来ました。
なぜ、こういう場所に神社が? と不思議でした。社殿の奥…というか
上に祭祀場があったのかも? と思いましたが、一人で行くのは憚られました。
ともかくバイクです。これを何とかせねば…!!
坂を右折して20mほど進んでいたので、ブレーキをかけつつ慎重にバックしました。
曲がり角まで戻ったら方向転換できました。丸山古墳を目指します。
あれ? 丸山=ワニ氏じゃありませんか!? 今ごろ気づきますかね…。
「佐自塚古墳」ですって。さっきは、つくば市で「佐古墳群」を探してました。
佐賀・須賀・蘇我の名を隠してるんじゃないかと疑いつつ…。
あれが「佐自塚古墳」です。では丸山古墳は?
道標はこの道の入り口にあり、ナビもここを進めと言いますが、
キャノピーが焦げ臭い煙を吐き始めたため、ここまで登って断念。
方向転換もできず、さっきと同じようにブレーキをかけつつバックしました。
公道に戻って南下していたら、ナビが↓ここを左折しろと言います。
このくらいの勾配なら大丈夫でしょう。無事あがれました。
この台地の上に古墳があるのか、すでに古墳の上にあがっているのかわかりません。
現地でこの案内板を見ていれば何とかなったのに、いま見て愕然としています。
わざわざここまで行って丸山古墳を見ずに帰宅したのです!!
なぜに「聖徳太子」? 想像がつきませんが、案内板がありました。
「高友」!?
神楽歌《薦枕》には「高瀬」が出てきます。
「薦枕」は「高」の枕詞なんです。
すると、ここにも豊玉族、ワニの姿になって出産したという
豊玉姫を奉斎する人々が居た、ということですね!?
歌詞にしか興味がないので、丸山=ワニ古墳を見ずに帰った…とか?
建御狭日命(たけみさひのみこと)が多珂の国造として赴任した。
建御狭日命は、国を巡り見て、山が険しく高いので、多珂国と名づけた。
建御狭日命は出雲臣と同族である。
諺に「薦枕、多珂の国」といふ。
出雲郡条の漆治郷(しつぢごう)に
「神魂命の御子 天津枳比佐可美(あまつきひさかみ)高日子(たかひこ)の命の御名を、
又、薦枕(こもまくら)志都沼値(しつぬち)といひき」(神亀三年に字を漆治と改めた)
とあります。
「建御狭日命は出雲臣と同族である」 との符合をどう考えるべきなのでしょう?
また『出雲風土記』楯縫郡条に
「郡司 主帳无位 物部臣」「大領外従七位下勲十□等 出雲臣」、
また、佐志能(さしの)神社はすでに 2社、訪れています。
当社への急勾配の坂は未舗装で登れなかったので、石段下で演奏しました。
もちろん神楽歌《薦枕》です。
振り返ると、下からあがってこられる石段がありました。
古墳を守るために創建されたのか、古墳の主の末裔を滅ぼした記念に
建てられたのか、わかりませんが、静かな空間で演奏修行できました。
今日の予定は残り1社。真南の石岡市川又にある息栖神社です。
於岐都説神社へ行った折に立ち寄れればと思っていましたが、
北西に直線で17kmもあって、帰り道と逆方向なので諦めました。
岸辺でもない内陸なのに…と思いつつ行ったら、恋瀬川の支流
川又川の近くに鎮座していました。それで住所が川又なんですね。
再び筑波山山頂と同緯度まで南下してきました。
このあたり真っ直ぐな道がなく、右折とか直進とか言われても
進行方向がわからず、迷いに迷ってここへ着きました。
どうやらここが(現)息栖神社のようですね。
わざわざ(現)をつけたのは、当社の方が本家の息栖神社より古いためです。
語るに落ちるとはこのことでしょうか?
東国三社の一つ息栖神社の創建年代と合っていません。
息栖神社HPの由緒には「久那斗神(くなどのかみ)を主神とし、
相殿に天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神」を祀ると
書いてありますが、創祀は応神天皇の御代となっています。
しかし当社は、実在したなら3世紀後半とも言われる
第10代崇神天皇の8年に創建されたと書いてあるんですよ。
同じ社名で創祀された可能性はゼロです。
於岐都説神の名を欲しがり、於岐都説神社だったと主張しています。
そもそも本家が、於岐都説神社なのか息栖神社なのか
ハッキリさせるべきでしょう。話はそれから…です。
比較的新しい鳥居。社殿の奥の奥まで細長く社叢が続いています。
民家が隣接していたため、ここまでで社頭に戻りました。
境内社も多く、それぞれが蜘蛛塚を思わせるこんもりの上に
建っているのが気になります。
社名の謎、蜘蛛塚の位置など、きちんと書いておいてくれないと困ります。
この時点で16時。日没が18時になっていることもあって寄り道することに。
何度も高浜を通りながら、今は亡き古代の港を見ることを忘れていました。
現在は出島方面へ行く「石岡田伏土浦線」で恋瀬川を渡るだけですが。
今日は時間的余裕があるので古墳に近づいてみました。
え~~~?! 「府中愛宕山古墳」ですって?
「舟塚山古墳」だと思い込んでいました。
「石岡田伏土浦線」へ戻って道標を見ると、「舟塚山古墳」は南でした。
たしかに…。この位置から振り返ると「愛宕山古墳」が僅かに見えました。
300mしか離れていないので、古代にはよく見通せたのでしょうね。
こんなに大きな古墳が近くにあると思わなかったので、間違えてしまいました。
さ、恋瀬川を渡ります。
反対側には筑波山が見えます。
古来より人々が愛でてきた景観です(今は鉄塔?! だらけで比較にもなりませんが)。
わざわざ出島方面へ渡ったのは、石岡市石川という住所を見つけたからです。
蘇賀石川宿禰や倉山田石川麻呂の名に由来する地名ではないかと思い、
取り敢えずナビに石川八幡宮をセットしました。
舗装路を直進するだけだと思ってのんびり走っていたら、突然
「ここを左折です」と言われ、反射的にハンドルを切りました。
今よくよく地図を見ると、石川八幡宮まで数メートルの地点でした。
その後も「右折」「左折」と言われ、右往左往させられました。
農道なので行きどまりというケースもあり、さすがにおかしいと思って
地図を開いたら石川八幡宮から遠ざかっていました。
↑上の画像は手もちのカメラで撮った最後の画像です。
こののち、農道を迂回して元の道に戻ろうと、草の生えた道を
走っていた時、草の下が泥濘でキャノピーが転倒してしまいました。
オフロード仕様のバイクじゃないため仕方がないものの
転倒の衝撃で二代目ミラーレス一眼がオシャカ…!!
以下はiPadで撮りました。
当初の進行方向から逆に戻っています。
あのこんもりに石川八幡宮の祠が鎮座しているはずです。
あれぇ、鳥居から中へは入れませんよ。
これが失脚させられた氏族の成れの果てということなのでしょうか?
日本人として、征夷大将軍の指揮の下に先住民が討伐されていった
悲惨きわまりない自国の歴史を知っておきたく思います。
そうじゃないと、天皇家が宮中での鎮魂祭で言霊(ことだま)による
鎮魂(みたましづめ)と魂振(みたまふり)の二つの儀を行なう意味もわかりませんので。
キャノピーのカスタム車が届いたら、また出かけますね。