4/7に泥濘に突っ込んだ衝撃でミラーレス一眼がオシャカになってしまいました。
昨日、新しいカメラが届いたので、さっそく近場へ撮影に出かけることに。
近場で好きな神社となると、文句なしに新木(あらき)の葺不合(ふきあへず)神社です。
なにしろ「新木東台遺跡」と「五郎池遺跡」(新木字宮前)に隣接しているのです。
鳥居は356号線に面していますが、何度か行くうちに裏参道を見つけました。
葺不合神社はこの縄文台地の南側に位置していて、
356号線沿いの鳥居をくぐったらいったん階段を下り、
次に階段を登って社殿にたどり着くといった特殊な立地です。
こちらが356号線からの表参道です。
裏参道を通ると、左手の畑の先は崖です。
崖を左手に見ながら進むと、社殿が見えてきます。
先客が三名おられたので遠慮していたら、地元の方がお掃除に来られました。
先ずは社叢を楽しみましょう。
あれま、つくばの「蠶影山神社」の石碑がありました。
どれが御神木? なんていうレベルではない社叢が大好きなんです。
やっと先客が下の「弁天宮」へ移動されたので本殿を撮りました。
柵越しにしか見られないのですけれど、それでも大変な迫力です。
大工は新木(あらき)村の田口末吉、木挽は根本米吉、彫刻は北相馬郡
北方村(現 龍ヶ崎市)の彫物師二代目後藤藤太郎(1861~1931)が担当したそうです。
この本殿は、字宮前の地にあった「沖田の産土神」で、奈良朝創祀といわれる
それが明治の神仏分離政策と一村一社令のあおりを受けて、
とはいえ、現社地も旧社地と同じ縄文台地で約300mしか離れていないため
地元の方々は旧社地にある祠も大切にしておられるそうです。
上の画像の右手に古墳があります。
調査はされていませんが、古墳だと言い伝えられているとか。
たまたま葺不合神社でお掃除をされていた方に教えて頂いて見に行きました。
ここから東の方へ少し土地が傾斜しているようですね。
やはり下り坂がありました。
畑仕事をしてらした方々に字宮前について訊いてみましたが、
今は「新木」の地名しか使わないのでわからないと言われました。
字(あざ)名が消えたことで見えなくなったものがたくさんあるような気がします。
再び葺不合神社へ戻りましたが、まだ先客の三名様が境内で
ディスカッション中。お掃除の方もおられるので演奏修行ができません。
この二神の子とされるウガヤフキアヘズが祭神の葺不合神社を再訪してみました。
ウガヤフキアヘズを祭神としているのも、神武天皇以前の歴史を誇示することで
ヤマト王権より古いクニがあったと主張していることに、やっと気づいたからです。
本殿から弁天宮へおりてみます。
先客の三名様は一番低い場所へ下りて散策されています。
下には巨きな銀杏の木があるのですけれど、
紫陽花の時季にまた来るつもりなので、今日はここまでにします。
現在、拝殿として使われているこの建物は明和2年(1765)に造営された弁天堂で、
「沖田村の弁財天」としての創祀は文治2年(1186)なのだそうです。
先述の一村一社令で明治39年(1906)に三峯・白山等と合祀され、
主祭神がウガヤフキアヘズノミコトになったわけです。
広い境内には夥しい数の摂社・末社があります。
たしかに「蠶影山神社」の石碑もありましたけど…
空飛ぶ弁財天を見て ↓ 家人が「カイコだ!!」と叫ぶのですが、どうでしょう?
よもや弁財天が金色姫に取って代わられてるなんてこと、ありませんよね?
それより、弁財天と言えば琵琶を弾いてるものだと思っていたのに
笙を持つ天女と蓮華を持つ天女が「八」の字になっている点が
鳩が「八」の字に向き合った八幡みたいで、気になります。
また、ずっと心に引っ掛かっていたのが
「妙見様」の看板を背負わせられた人頭蛇身の宇賀神です。
ありました!! まだ先客が居られましたが、一番低い場所へ下りてから時間が経つし、
駅から徒歩で来られたようなので、そろそろ356号線への階段を上がられるでしょう。
「妙見様」に相対する崖ギリギリに座って演奏修行させていただきます。
囲いの中に移されていました。
ずっと草むらに打ち捨てられるように置かれていたのに…
宇賀神に心を寄せる氏子さんがおられたということでしょうか?
あるいは、千葉氏の北辰妙見信仰と合体させられたのでしょうか?
とにもかくにも演奏修行ができ、木漏れ日も撮れたので
本殿の横に停めたバイクまで戻ります。
弁財天は仏教の神だから弁天宮はやはりお寺っぽいですね。仏教と言えば、
すると、当社の境内に宇賀神が置かれていたのは偶然ではなかったんですね?
では、縄文台地を下ります。
ここは葺不合神社の北東500mなので、この縄文台地の縦は数百メートル。
葺不合神社の旧社地はもともと北の下り坂近くにあったため
「沖田の産土神」と呼ばれていたのではないでしょうか?
かつては坂を下りてゆくと「香取海」だったはず。
この台地ギリギリまで波が打ち寄せていたことでしょう。
さ、再び利根川の土手を走って帰途に就きます。
ところが、利根川を渡って北上していたら、↓ここで信号待ち。
(すべてが消えた瞬間を撮ってました!! こののち赤)
以前なら何とも思わなかったでしょう。神奈川県と同じ地名?
否「横+スカ」?! 「スカ・ソカ・サカ」の法則では?
慌てて周辺の地図を探しました。
「押戸須賀遺跡」「大房須賀遺跡」…やはりスガ・ソガ地名でしたか。
このあたりは2013年に「立木貝塚」や「蛟(こう)もう神社」へ通っていた頃
何度となく走りましたが、「須賀遺跡」は特に目印などなかったと思います。
やっと台地から下りられた記憶があります。
そこからは舟で龍ヶ崎へ渡ったそうです。
上の地図左上の「舟形山」は現在 ↑ 龍ヶ崎南高校になっています。
そしてこの画像左寄りのこんもりが「弟橘姫の櫛塚」です。
今日立ち寄れるとしたら、前々から同名の神社が近くにあるのはなぜ?
と不思議だった「北方」の王子神社です。
ナビをセットしたら、かなり迂回しました。
突然「ここを左折」と言われて慌てて撮ったら、樹だけ…。
うわぁ~ここも縄文台地です!
以前「花輪台貝塚」へ行ったのでわかってはいましたが、こちらは広々です。
ナビには、道なりに進めという感じで放置されていますが?
神社があるとしたら、あのこんもりでしょう。
またしても未舗装路ですが…進むしかありません。
ふと目の前に人の姿が見えました。参拝の方でしょうか?
左手に突然、鳥居が出現しましたが、人の気配はありません。
たしかにこの右手から女性が出て来られたのですけれど…。
たしかにこの右手から女性が出て来られたのですけれど…。
バイクでこの道を通るのは不可能でしたね。
今回はナビがちゃんと仕事をしてくれました。
雨だと4/7のように草の下に溜まった水や泥にタイヤがとられそうですが。
今日は舗装されていない参道にピッタリな晴天でした。
すると、先ほどの女性は、鳥居の所から右折して、この道を進んだことになります。
すごいですね…。私など、ヘビが怖くてとても一人では歩けません。
本殿もド迫力でした。茅葺屋根はほとんど剥がれてますし。
今、かつての工法のまま修復するのは難しいんでしょうね…。
社叢はすばらしかったものの、人工的建造物は…。
バイクまで戻るあいだ、ずっと社殿のある方を見ていました。
この地区は古墳や遺跡が多いだけに、古墳か蜘蛛塚の上に建てられた
可能性はゼロじゃないかも? とゾクゾクしました。
王子神社は元亀3年(1572)4月14日、ここ北方ではなく北隣の長沖村に
当時の府川(布川)城主(恐らく豊島貞継?)が創建しました。
(左の台地が「北方」、その北が文字通り遠浅の泥濘地だったと思われる「長沖」)
なぜ王子神社だったのかと言うと、
当時の府川城主は今の「東京都北区豊島」発祥とされる豊島氏で、
その豊島氏は元亨年間(1321-4)に熊野新宮の浜王子より若一王子宮を勧請し
(布川豊島氏と武蔵豊島氏の関係については俗説を引用したものの、実は不確かなことが多いらしい…)
「布河系豊島氏系図」にある豊島頼継(?-1563)が初代とされ、
永正16年(1519)に府川城を築いています。
文明10年(1478)までに失い、後北条氏の配下となりましたが、府川系豊島氏は、
弟の頼重が府川城の留守を守るも、浅野長政に攻められて降伏。
豊島信満が老中井上正就を殺害して自害するまで続いています。
すると、府川豊島氏が失脚した1590年と断絶した1628年が、
そのヒントは「岩井城」にあるかも?
資料を入手すべく4/15に利根町立歴史民俗資料館へ行ったものの、
残念ながら、「岩井城に関しては場所も歴史もわかりません。城ではなく、
府川城を守る砦のようなものだったのでは?」と言われ、空振りに終わりました。
しかし子供のお使いじゃあるまいし、「そうですか」と帰るわけにはいきません。
またしても地図上に道のない場所を探すことに。
たぶんここだと思うけれど、こういう水たまりは危ないから
もう通らないことにしました。他の道を探します。
このこんもりが要塞(岩井城)だとしたら、左側の斜面が土塁でしょう。
出かける前に町役場へ電話したら
「中へは入れませんが、外から土塁だけは見られます」と言われました。
すぐに、バイクでは進めなくなったので、細い道のド真ん中にキャノピーを停めて
徒歩で坂を登りました(落ち葉の状態から、滅多に人も車も通らないと判断して)。
少しクネッとしていたので約150mほど登ったでしょうか。
うわっ、縄文台地です!?
左手を見ると、現在はボーイスカウトの野営場ですが、かつては
「岩井城」へと続いていたに違いない(と思える)台地がありました。
下りはまたプチ森林浴です。
竹林の木漏れ日がきれいでした。
これで満足して帰るほかないだろうと、「横須賀」の交差点まで戻ると
お花に囲まれた素敵なカフェがありました。
アイスコーヒーを飲んで頭を冷やしつつ?! 地図を見ていたら、
さっき見た縄文台地に畑があったので上の道から行ける気がしてきました。
奥のボーイスカウトの野営場を左に見ながら農道を直進してみます。
ここじゃないかな? と直感しましたが、こういう未舗装路は危険です。
引き返せなくなったら困るので、先の畑におられた方に尋ねました。
こんなに素晴らしい場所で畑仕事をされてたんですよ(住みたいです縄文台地!!)。
お尋ねしたのは「御岳塚」で「おんたけさん」と呼んでおられました。
やはり先ほどの未舗装路の奥にあるそうです。
しかし、これ以上は進めません。バイクが道に減り込んだので停めました。
バックさせるのも方向転換させるのも大変ですが、今は進むのみです。
草むらを歩いてゆくと、向こうの土塁を2人の男性が歩いておられたので
「御岳塚はどこですか?」と声をかけさせていただきました。
すると、「ここは岩井城の空堀だから、そこで待っていて下さい」と仰り、
わざわざ空堀まで下りて、こちら側へ登ってきて下さいました。
「あの、中央の竹林が御岳塚ですよ」と教えていただき、
「岩井城」とは地図と同じ位置関係にあるとわかりました。
「御岳塚」は古墳とか蜘蛛塚ではなく、ある氏族が代々信仰の場としており、
先祖を葬った可能性はあるでしょうとのことでした。
帰宅後「御岳教」を調べたら、熱心な木曾の御岳(おんたけ)行者だった下山応助が
明治6年に各地の御岳講を結集して結成とあり、新しい信仰だったとわかりました。
こののち「岩井城」(別名 文間城)跡とされる竹林を歩いてから帰途に就きました。
こんな道を通って「御岳塚」へ行ってました。帰りも気をつけないと…。
偶然お目にかかった方は古代の道や遺跡の"専門家"で、
「岩井城と言うけれど、本来は相之谷氏が城主だったのに
岩井氏がクーデターを起こして岩井城になっただけ」と仰います。
そして、帰宅後読んだ『利根町史』第四巻(p.45)にも
「明応のころ(1492-1500) 立木には相之谷弥三郎という人がいて、
殿様をしておったそうだ。その家老に岩井大膳という者がいて、
千葉孝胤(1459-1521)と内通し、相之谷弥三郎を滅ぼしてしまった。
円明寺の裏にある岩井城跡は、千葉氏への功績によって、
文間地区の代官となった岩井氏が居城としたところだという」
とありました。
「岩井城」は、支配者が千葉氏→多賀谷氏→豊島氏と移ったそうです。
豊島氏は1519年に府川城を建てており、その前後に何らかの取引きがあって
岩井氏が城を出、1572年創建の王子神社の社家になった可能性があるのでは?
と妄想している次第です。
なぜなら、王子神社に関する最大の疑問は祭神でした。
豊島氏が失脚した後は祭神を変えようと遷座しようと問題はありません。
何らかの確証を得るため、さらに調査を続けます。
こうしてみると、今は政教分離なんて言われるけれど、歴史的にみて
日本では不可分だったのではないかと思わざるを得ません。