5月8日か9日にミニ旅をする予定でしたが、
PM2.5と黄砂が「非常に多い」との予報により控えました。
やっと今日出かけたものの、まだグシュグシュしてました。
一社目からこんな森ですから、風が吹くたびにクシャミが出ます。
しかし、この立地は?! 彼方の右寄りに見える細い線は下手賀沼です。
ここまでの参道(?!)が狭かったので、二輪で来るべきだったと反省。
三輪のキャノピーでギリギリでしたから、太タイヤのキャノピーでは通れません。
社頭までくると、急勾配の階段が!? 調べたら、昭和初期に寄進されていました。
もしかして当時、山を切り開いて道路を通したためにつける必要があった?
国土地理院地図によれば ↑ 下方右寄りの「浦部」にあるのが当社です。
そして次に行くのが北西に位置する同じ「浦部」の鳥見神社。
とりあえず、いつものように、すぐに鳥居をくぐらず周辺を歩いてみます。
鳥居の右の道を歩きながら、どこかから社殿のある境内に入れるのではないか
と思いましたが、木漏れ日を浴びただけで境内の位置を過ぎてしまいました。
もうこの先は下るだけでしょう。
引き返していると、下に民家が見え、崖が真っ縦でした!?
草むらではないので、ヘビが出る確率は低そう…でしたが、中はどうでしょう?
皇太神宮社? 国家神道っぽい社名ですね。
「慶安元年(1648)創建、祭神は大日霊女尊」とのことですが、
そんなことがあるでしょうか? 皇太神宮なら伊勢の内宮なので天照大神でしょう。
ずいぶんユニークな拝殿ですね…。
本殿も神明造りじゃないようですし(菊の御紋はついてますが)。
向こうの境内社の方が目立ちますね。
しかしながら、この空間は古代の円形祭祀場を彷彿とさせます。
慶安元年創建と祭神のオホヒルメ、さらに手水鉢がヒントになるでしょう。
手水鉢にある「伊勢太々講」とは、
江戸時代にお伊勢参りが盛んになると村内で加入を強制する例もあり、
参詣に必要な旅費を積み立てて交代で参拝した」というものです。
「太々講」とも「伊勢講」とも呼ばれ、
代表者を共同出資で順次派遣することで「代参講」とも呼ばれたそうです。
当社の立地を見ると、古代祭祀場にふさわしい高台にあり、
元々縄文の女神オホヒルメの祭祀があったことから、江戸時代(1648)に
では、国土地理院の地図を見ると、かつては同じ台地上を往き来していたと
思われる鳥見神社へ向かいますが、何とさっき通った分岐を下りました。
左の道を下ってきてV字に方向転換し、真ん中の道を下ってから右折しました。
キャノピーで登り切れるか…と心配になるほど高低差が大きく、
一般の地図にない道は想像を絶する複雑さでした。
やっと急坂を登り切って振り返ったら、さっき通った崖上の
皇太神宮社への狭い参道(?!)が同じ高さに見えました。
ともに「浦部」の集落だし、かつては同じ丘の上に鎮座していたはず。
鳥見神社の住所は「印西市浦部(字御手洗)2125番地」です。
おっと分岐です。石祠の位置から見て右折と判断しました。
この先は未舗装路です。一旦停止して左を見ると社殿が!?
やれやれ…「下の観音寺から徒歩で」と書かれていましたが、
何とかキャノピーで到達できました。
このような場所に? と言うのは失礼極まりないのですけれど、
すごく立派な神楽殿が見えてます!
『千葉県印旛郡誌』(1913)に
村社鳥見(とりみ)神社は浦部村字御手洗にあり、登美屋比賣命(とみやひめのみこと)、
創建は先の皇太神宮社と同じ慶安元年(1648)とあり、
「とみ」でなく「とりみ」と読むのは、歴史の浅さからかもしれません。
かなり読みづらいですが、参考まで。
拝殿と本殿の趣きがまるで違うのは下総国の特徴なのかもしれません。
当社の本殿は瑞垣に囲まれて完全に独立しています。
この一帯は土師器などが出土した宮後(みやうしろ)遺跡で姫宮古墳がある
とのことでしたが、いったいどこに?
周囲はこんもりと盛り上がった部分が多く、蜘蛛塚かも? と感じました。
鳥居の北にも参道がありました。
地図にない道に居るためナビが当てにならず、ここから一気に北へ下ることに。
ガタガタ道で転げ落ちそうでしたが、あっという間に282号線に出ました。
次は、真西の平塚にある鳥見神社です。3分ほど走って振り返りますと…
あの、中央のシマへ行ってました。
そろそろ左折して次のシマへ上陸します。
防犯パトロールの幟を見たら、ここはもう白井(しろい)市でした。
低い丘を登り切るとすぐ平塚鳥見神社がありました。
うわっ、ここも「太太神楽」ですよ。社頭だけで石碑が20基ほど!?
またしても「とりみ」神社でした。
まだ走っていなかったので来てみたら、祭神はニギハヤヒでも
祭祀は物部系ではなく、伊勢系だったようです。
そして当社もまた、上の拝殿と奥の本殿の印象がまるで違います。
浦部の鳥見神社と同じく瑞垣に囲まれた本殿です。
本殿の後ろに横穴式石室があったため、古墳の上に建てられた可能性も?
社叢も右奥に向けてかなり広がっていることから、古墳群だったかも?!
このシマを下りたら、いよいよ「手賀」へ上陸です。
駆逐された先住民と同じ名です。
郡より西北に向ふと「提賀(てが)」の里がある。昔、この地に住んでゐた
「手鹿(てが)」といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。
里の北に香島の神を分祀した社がある。
周囲の山や野は、土が肥え、栗、竹、茅などが多く繁ってゐる。
かつての水辺から上がると「手賀」の里です。
もっとも近代の手賀村は、昭和30年に風見村と合併して沼南村となった後、
ずうっと、このまんまの狭い坂をクネクネ走ってゆくと…
鳥居にぶつかる格好になりました。
狭いT字路なので、たとえ自転車でも停められません。
左折すると取ってつけたような遊び場と公民館らしきものがありました。
元は境内摂社だったのかな?
でも今は塀で区切られているんですよね…。
これだけの巨木が何本もあるのですから、もとは社叢だったと思われますが。
あれ? 鳥見神社だと思って来たら、伊津美神社ですって!?
住所が「柏市泉1358」なので、「いづみ」は地名ですよね。
社頭の鳥居の扁額は「伊津美」と「鳥見」のWネームでした。
本殿の右前の柱についている2つのキノコ状の飾りが気になりました。
手賀沼の北にある日秀将門神社を目指して下り始めました。
振り返ると社殿がこんもりの上に建っていました。同時刻(17:13)、
「手賀」の蜘蛛塚でないことを願いつつ撮った進行方向の空です。
かつての「手賀村」の台地を下りました。
17:20、手賀沼の南を東へ向かって走っています。
中世末頃まで手下浦(てかのうら)と呼ばれる入江でしたが、
「香取海」へつながる出口が堰き止められて形成されたそうです。
手賀沼を渡っています。初めて走る道はいいですねぇ…。
ここ「ひびり」の地名も神社の由来も、実に不思議です。
天慶3年(940)に平将門が戦没するや、その霊が遺臣とともに対岸の明神下から
手賀沼を騎馬にて渡り、湖畔の岡陵に登って朝日が昇るのを拝したというのです。
なぜこの地に戻ったとされるのかについては、当社の北北西300mに
昭和53年(1978)、県立高校建設に伴なう発掘調査で見つかったのが「日秀西遺跡」。
主な遺構は、
3年前、将門にとって「岡」が重要なキーワードであることを知りました。
そして手賀沼北部の丘陵地では数多の遺跡が発見されています。
平将門が下総にて始めたと伝わる「野馬追」にも「岡」が不可欠です。
「日秀西遺跡」周辺を将門が重視していたと示唆するためのものだったのでしょう。
帰りは利根川の土手を走りたいので、ここから北上します。
途中「古戸」という物部っぽい地名があるので行ってみます。
先日行った葺不合(ふきあへず)神社のある「新木」の西隣のようです。
おお…、縄文台地に上がってきました。
この先、右手に下り坂があって我孫子市立湖北中学校が見えました。
危ないので交差点を過ぎてから撮影したら、正面に校庭が写りました。
太古はここまで「香取海」が迫っていたと思われますが、
現在は江戸時代以降の干拓事業もあり宅地化されています。
撮影位置に道標らしきものがあったので、船着場だったのかもしれません。
稲荷神社にキツネが居るかどうか確認すべく立ち寄りました。
舟形の変わった社地ですね…。両側が道路に挟まれています。
右手奥へ進んでみたものの、キツネは見当たりませんでした。
草ぼうぼうだし、ヘビが居たら大変なので、このまま引き揚げます。
まさかここが「古戸貝塚」だとは思わなかったので…。
我孫子市HPに
●現在でも古戸稲荷神社周辺には貝殻や土器が散っていること
などが明記されていました。
2度の発掘調査ののち、当社周辺は住宅地になっています。
葺不合神社同様、縄文台地にあり、新木小学校建設に伴なって昭和54年(1979)に
発掘調査が行なわれた「新木東台遺跡」(消滅)とは1kmしか離れていません。
ナビに逆らって北の干拓地に下りると、田植えのための苗箱が置かれていました。
日本の田植え風景はほんとうに美しいですね…。