藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

地図にない神社

下総国岩井城を探していたとき偶然お会いした根本様が
「古道のエキスパート」とわかり、鎌倉街道や古代東海道を歩いて
発見された"地図に載っていない"神社を教えて下さいとお願いしました。
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まことに図々しい申し出を快くお受け下さって
今日、件の岩井城で待ち合わせました。
 
「先ずは大房(だいぼう)八坂神社へ行きましょう」
何と、ダイダラボウ地名として興味を持っていた大房です!!
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八坂神社への階段の登り口にあるお屋敷前に駐車させて下さるとか。
御当主が根本様のお知り合いとのことで御挨拶させて頂きました。
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蔵を撤去された跡地にも紫陽花! ちょうど大好きな紫陽花を見に、新木(あらき)
葺不合(ふきあへず)神社へ行こうと思っていたところだったので幸運に感謝しました。
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色とりどりの紫陽花を堪能したのち、向こうの階段を登ることに。
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思いがけず幅広で新しいコンクリートの階段がジグザクに設置されていて
登りやすかった!! まるで個人宅の氏神様のようでした。
というのも、同じ利根町の押戸の集落を走ったとき、
敷地内に立派な神社のあるお宅を何軒か見かけていたのです。
先ほどのお屋敷でお尋ねすべきでしたね。
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社地にウグイスの声が響き渡っています。
声を和して神楽歌の唄い方を学ばせていただきましょう。
f:id:YumiAIKAWA:20210603045756j:plain 2曲演奏させて頂いた間、ずうっとウグイスが鳴いてくれてました。
やはり室内での練習とは大違いですね。
来週には晴れる日もありそうなので、演奏修行に出かけたいものです。
 
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次は、縄文の遺跡や貝塚のある早尾台を走っています。
早尾の天満宮「奥乃宮」へご案内くださるとか。
早尾の天満宮へ行ってから 4年も経ったんですね…。
その間「奥乃宮」を知らないまま過ごしていたのに、さすが根本様です。
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「ここですね」
え?! ここ?
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入り口に石像など埋まっていて怖いんですけど…?
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クリスマスリースのような形状も、何となく不気味じゃありませんか?
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やっと「奥乃宮」と朱書きされた石祠を望遠で撮影したら、
手前に夥しい羽毛が散乱していました!!
先導して下さったお二方が
「イタチかハクビシンか、小動物が鳩を食べたんでしょう」
と仰るので演奏どころではなくなり、慌てて引き返しました。
「自然界のことだから弱肉強食はしかたがない」
という理屈は分かりますが、それと恐怖心は別です。
いつもながら不甲斐ない私ですみません。
 
それにしても、当地は「北方貝塚」に隣接する縄文台地で、
紀元前7500年頃と言われる「花輪台貝塚」の真北(東経140.146)
約300mという重要な位置にあった天満宮が、いつの時代に
いかなる理由で遷座しなくてはならなくなったのかが謎です。
 
何の成果も得られないまま、同じく利根町上曽根の日枝神社へ向かいます。
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地図にないのに、何となくこの道を進みました。
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え?! これはまた…低地の渋い神社(石祠)ではありませんか?!
日枝神社だという証拠がここにあるわけではなく、
古い資料にそう書かれていたそうです。
もちろん社名や祭神が変わっている可能性はゼロではないけれど、
かつての下総国の北端たる利根町では家の祖神を祀っている場合が
多い上、当地を奪ってまで祭神を変えたとは思えません。
他者が奪いに来るのは、"やしろ"ではなく、"資源"だと考えます。
 
ここで、前回教えて頂きながら到達できなかった女化(おなばけ)近くの
山王神社の地図を頂いて解散。一路、北へ向かいました。
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これは、牛久市女化町の中にポツンとある龍ヶ崎市の飛び地
「馴馬町女化」の女化神社鳥居ですね。
かつて龍ヶ崎市の来迎院に守護されていたため、飛び地になったのだそうです。
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根本様が描かれた「鎌倉街道」を走りつつ、社殿を撮影。
この真北に女化神社奥の院(稲荷)があるようです。
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取ってつけたように新しい鳥居と狛キツネですね。
一の鳥居からここまで800m以上ありました。
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バイクを下りて歩く気はありません。
このまま「鎌倉街道」を北上し、牛久市結束町(けっそくちょう)鹿島神社を探します。
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縄文台地ですね。
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この二岐は、根本様の地図によれば左が「鎌倉街道」です。
地図ではそのまま直進するようでしたが、あまりにも道が細くなり
不安になったので「牛久自然観察の森ネイチャーセンター」を
ぐるりと迂回するルートをとりました。
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管理される自然。すでに門は閉じられていました。
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さっきの門は森の南側、鹿島神社は森の北側に位置しています。
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先が見えませんが、鳥居の手前にバイクを停めて歩くことに。
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思いがけず、右折したらすぐに社殿が見えました。
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↑ 社殿の左奥の案内板手前に、細い道があります。
たぶん根本様の地図にある「鎌倉街道」への抜け道でしょう。
歩いてみたかったものの、前日午前中までの雨でぬかるんでいて
演奏修行もできない状態だったので諦めました。
再び女化神社まで戻り、今度は「鎌倉街道」を南に進みます。
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かなり高低差のある悪路を、地図を見ながら行きつ戻りつしましたが、
着いたのは前回お話を伺って来てみた場所でした。
この細い道が「鎌倉街道」であることは間違いないと思います。
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根本様の地図に、上の「お墓」と、この「祠」が描き込まれていました。
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祠の横の道を進めるだけ進んでみました。が、社殿らしきものはありません。
祠の奥まで行って左折しても直進しても"ケモノ道"です。
 
結局、地図があっても無くても同じ場所に来たものの、
そもそも方向オンチなので間違っているかもしれません。
ただ「鎌倉街道」の険しさはよくわかったので、山王神社探しはここまで。
 
鎌倉街道(鎌倉古道・鎌倉往還・鎌倉道)」とは、いわゆる鎌倉幕府御家人
「いざ鎌倉!」と馳せ参じた道と言われつつ、その実態は明かされていないそうです。
鎌倉時代の『吾妻鏡』に中路・奥大道・下道とあり、「幻の道」とも呼ばれたとか。
 
鎌倉街道」そのものが鎌倉時代~戦国時代の道ゆえ、周辺の神社も
いわゆる延喜式内社とは違い、創建年の新しいものが多いようです。
結束町の鹿島神社は1460年創建でした。
 
女化神社は1509年に京都の伏見稲荷に詣でた女化の人が稲荷信仰を伝えたのが
はじまりとされ、GoogleMapには女化稲荷神社とあります。
社名は稲荷大明神女化稲荷社保食神女化神社と変わったそうです。
 
日本の神社は、各氏族が祖神を祀ることから始まったらしいので
利根町に見られる敷地内のお社こそがあるべき姿?
私を含め祖神を知らない人が増える中、ルーツが判る家が羨ましい…。
 
……………
 
6/5、このブログをお読み下さった根本様からメールが届きました。
「坂下の祠からの参道はケモノ道、墓の坂の上の脇道は掃除されています」とのこと。
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ふむふむ…やはり画像右寄りの広場が参道の起点でしたか。
たしかにお墓の上に十字路がありましたが、私は雨の後の未舗装路は
走らないと約束させられてますので…
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最初に来た時も気になった道ですが、これは走ってはいけないヤツ…。
もちろん歩くのはもっと怖いので無理。10km/h以下で走ってみます。
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ひ………!?
これは…あかんヤツです。これ以上は近づけません。
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右に目をやると、下からの参道があるはず!?
お墓の位置からバイクで80mほど登り、落ち葉の未舗装路を50mほど
走ったので、あの広場からだと約100mケモノ道を登らねばなりません。
私には、この未舗装路しかありませんでした。
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とはいえ、こわいので長居は無用! 一目散に戻ります。
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十字路です。直進すると民家があります。
左折して、お墓の方へ戻るとしましょう。
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鎌倉街道」は高低差があり、中世の人々にとっても
決して楽な道じゃなかったのでは? と感じました。
それにしても、地図に載っていない神社はハードルが高いですね…。
 
ついで…というのも失礼ながら、女化神社について調べていたら
気になる神社が見つかりました。根本女化稲荷神社です。
女化稲荷の伝承は『鶴の恩返し』と『信太の狐』を一緒にしたような感じで
野口家の「常州女化稲荷大明神縁起」など数多くの話がありました。
一説に
狐が嫁いだ忠五郎(忠七とも)の先祖・大徳忠右衛門は大徳村(龍ヶ崎市)に住んでいましたが、
何度も水害に遭ったため、忠五郎の父親の代に根本村(稲敷市)に移住したそうです。
その忠五郎と狐の曾孫(?)栗林義長が根本村に建立したのが根本女化稲荷神社なのだとか。
栗林義長(1551?-1587?)は実在の人物で「関東の(諸葛)孔明」の異名をとった武将でした。
彼の早世を惜しんだ人々が伝説のモデルにしたとの説も。
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「若柴城」なら女化神社に近いですね…。
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稲敷市上根本の根本郵便局前の路地を入ってきました。
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へ? コレ…ですか?
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たしかに「根本女化稲荷神社」と書かれていますが?
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これが一番古そうですね。「神明宮玉垣稲荷神社鳥居建設」とあります。
「神社」と名乗るからには明治以降。
もとは「神明宮」もあったということでしょうか?
しかし、玉垣はどこに?
いずれにせよ、さほど古いものとは思えず
女化神社にしろ根本女化稲荷神社にしろ、単に京で大流行していた
伏見稲荷大社の稲荷信仰にあやかろうとしただけかもしれないと感じました。
もし当社が室町末期の創建だとしたら、女化の女化神社が創建された1509年には
誕生していなかった栗林義長が、当地に女化神社を勧請した可能性もありそう?
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左奥に回り込むと「真光寺」(跡?)がありました。
明治以前は神仏習合ですが、無住になって久しいように見えます。
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山門の位置から見た根本女化稲荷神社です。玉垣はありません。
来た道を戻ろうとしたら、ナビがこの道を行けと言います。
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こんなん無理に決まってる…。
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根本郵便局の先を右折してさっきの階段下まで来ました。
あとは帰宅するばかりですが、せっかくの機会なので
このブログのトップに引用した古代東海道の図 771年以降に載っている
「榛谷」(現 半田町)へ、根本様から頂戴した手書きの地図を頼りに行ってみます。
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「榛谷」は『和名類聚抄』所収の古代地名を収録した「古代地名検索システム」では
発音は「はんがや」(「はがや」の撥音便)、のち「はんだ」になった?
この、常陸国の「榛谷(はりがや・はんがや)」→半田(はんだ)に対し、
横浜の保土ヶ谷区から旭区にかけては、かつての「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」で、
武蔵国の「榛谷(はんがや)」→保土ヶ谷(ほどがや)とアクロバティックに転訛しています。
 
なお、根本様は手書きの地図(左上)に、「榛谷」とは
二つの山が張り出し、谷(や)となっているところと註を入れ、
「榛谷」の駅家(うまや)が二つの山の入り江にあったとされています。
緊急時の情報伝達のために乗り継ぐ馬を置いておく駅家は
原則として三十里(約16km)ごとに設置されています。
この「駅制」は 7世紀後半に始まりました。
根本様の地図右上の囲みにあるように、古代東海道の駅家は
「榛谷(半田)」の南が「於賦(古戸)」です。
当然、船を使ったわけで、古代の海岸線を走ることを重視している私は
駅家と関係なく、物部地名の「古戸」に惹かれて走りに行ったばかりでした。
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ここが「榛谷」の入り江だとして、左の山は写っていませんが、
先ずは地図上部左寄りの八幡神社へ行ってみます。
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ここから古代東海道を下ってゆきます。
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左の道から来て、V字に曲がって一気に「榛谷」のもう一方の山沿いを下ります。
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あの丘陵に登らないと…と考えていたら、道がありました。
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満願寺」って、ホントにこういう場所にあるのかしら?
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うっわぁ~、ありました!!
でも、これ以上の急勾配は危険なので右折せず直進します。
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さっき下から見上げて撮影した場所を撮りました。
そのまま北上して、八幡神社に向かったルートを引き返します。
次は墓地のある反対側の丘陵へ行きますが、
GoogleMapには「香取神社」があります。
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位置的には、この石段を登った奥だと思うのですけれど、
道が細く、バイクを停める場所などありません。
ヘビも怖いので、ともかくバイクで行けるところまで行きます。
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台地のテッペンを走っていたら、長戸小学校にぶつかったので左折し、
長戸コミュニティセンターの奥の道を進みました。
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地図の通り、この先に道は無く、引き返すことに。
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行き止まりの先にあった墓地へは、忠魂碑の前にバイクを停めて歩いてゆき、
香取神社」の方向へ進む道を探しましたが、下へ降りる道しかありませんでした。
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地図にある神社も、地図にない神社も見つけられない私ですが、
だからこそ"自然の要塞"たり得るのだと自らに言い聞かせて帰ることに。
でも、どこかで一曲くらい演奏修行すべきかも? と思い、
コンクリート部分のある神社へ立ち寄ることにしました。
 
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何度か前を通りましたが、公道に面しているため素通りしてました。
この日は鳥居の右足部分に子供用自転車を投げ捨ててゲーム三昧!?
諦めて通り過ぎようとしたら、バス停が目に入りました。
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「貝原塚」? ここは龍ヶ崎市貝原塚町でした。
貝塚とは名乗ってないけれど、もし貝塚なら、神社は台地の突端にあるかも?
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八坂神社横の道を下ってみると、正面に天台宗の金剛院。
明治以前は神仏習合なので金剛院と八坂神社は一体だったと思われます。
京都祇園八坂神社が1868年まで天台宗祇園感神院と称していたように。
その金剛院の奥が城山で、比高 7mほどの平山城「貝原塚城」跡でした。
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むろん「貝原塚城」は金剛院や八坂神社よりずっと新しいわけで、
天然の要塞を利用したと考える方が、空堀を造り、土塁を築いて
八坂神社を鎮座させたと考えるより自然でしょう。
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八坂神社は崖地に建っているように見えます。
この台地の突端の守護と考えて演奏修行してみることにしました。
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久しぶりにコンクリートの上で演奏した気がします。
周囲の写真などを撮りつつ、三人の母子連れが去るのを待ちました。
その間、iPadで検索し、現在「龍ケ崎鎮守」を名乗る龍ヶ崎市上町の
八坂神社が当社からの分霊だったとわかりました。
『龍ヶ崎 旧市街西部地区・名所旧跡調査』にこうあります。
 
文治年間(1185-90)源頼朝の家臣であった下河辺政義氏は常陸国最南部で
河川敷の葦野原と沼地だった龍ケ崎の開拓にあたった。
開拓には高井(貝原塚)の農民たちを引き連れたので貝原塚八坂神社の分社を
文治2年(1186)に高森(根町)へ建立したという。
 
これは…、私にとって非常に興味深い事実が書かれています。
貝原塚のもともとの地名は「井」であり、八坂神社の分社が
置かれた現在の根町はもともと「森」だったというのです。
その根町から上町へ遷座したのは天正5年(1577)でした。
しかも、上町の南に「砂」があり、その西が「須」!?
やはり常陸国には「薦枕タカの国」にちなむ地名が多いのかも?
 
佐賀の杵島から国東半島を経て瀬戸内海を横断し
五絃のコトを常陸国までもってきた海人族の足跡を辿る旅は続きます。
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演奏したら青空が少し見えてきたので、遠回りして女化街道を走り、
女化神社経由で無事帰宅しました。
貴重な情報を下さる根本敏明様のお蔭で次々と興味が湧いてきます。
まことに有り難きことにて、重ね重ね御礼申し上げます。