藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

『常陸国風土記』における行方郡の地名

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常陸国風土記(723 ?)を読み、茨城県の地図を広げて
鹿島神社香取神社をピックアップした日から10年以上経ちました。
神社とは本来、祖神を祀るものです。ところが、ざっと数えても茨城県には
鹿島神社が300社以上、香取神社が200社以上ありました。
それが「鹿島・香取の皇軍」が先住民を平らげた証だとしたら、
先住民は誰? どんな氏族?
との疑問につき動かされて、今日もバイクを走らせています。
土浦駅を過ぎ、263号線沿いの7-11湖北店の先から354号線に右折するまでの
約1.5km、右折してからの約1.5km、およそ3kmにわたり蓮畑が続いていました。
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(たくさん開花している箇所もありましたが、一車線なので停まっての撮影ができませんでした)
行方へ行くのに 3つのルートがありますが、今日は出島~霞ケ浦大橋を渡ります。
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出島郵便局の手前、左側に金色の扁額が見えたので引き返しました。
八坂神社…、この半島には鹿島神社より八坂神社の方が多いように感じます。
天台宗云々より、祭神のスサノヲにソカ・スカ氏を投影しているのかも?
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奥まで行ってみたら、地元の鎮守としてきちんとお祀りされているようでした。
これは「茅の輪(ちのわ)」というものでは?
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何も知らないので「茅の輪くぐり」の由来を調べたら、日本神話にありました。
備後国を旅するスサノヲが宿を探していたら蘇民将来が手厚くもてなしてくれたので
数年後、再訪して「病が流行ったら茅で輪を作り、腰につけて難を逃れなさい」と
教えたそうです。それで昔は、茅の輪を腰につけて無病息災を願いましたが、
江戸の初め頃に大きな輪をくぐるようになったのだとか。
「茅の輪」は6月の晦日(みそか)に行なわれる「夏越の祓(なごしのはらへ)」と
12月の大晦日に行なわれる「年越の祓(としこしのはらへ)」に設置されるそうです。
(信仰心のない私は、もちろんくぐりませんでしたよ!?)
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やっと霞ケ浦大橋まで来ました。左端にけぶっているのが筑波山です。
 
今回と次回、2度に分けて『常陸国風土記』の「行方郡」と「香島郡」の
成り立ちと地名由来などを勉強します。
 
常陸国風土記(講談社学術文庫 / 2001)の訳注を担当された
秋本吉徳氏は、巻末の解説にこう書いておられます。
当国風土記において「荒ぶる賊(にしもの)(新治郡)、「国巣(くず)(茨城郡)
「佐伯(さへき)(茨城郡など)、「凶猾(にしもの)(行方郡)などと書かれた蝦夷は、
いずれも穴居生活を営む異形・異俗の人として描出されているのであるが、
それらのすべてが「賊」、つまり討伐しなければならぬ敵として
表わされているのであり、同化させようともしていなかったことは注意してよい
説話的な誇張があるにしても、東夷の凶賊を策略によって皆殺しにした
建借馬命(たけかしまのみこと)の行為(行方郡)は、そうした蝦夷に対する意識を
如実に物語っているといえよう。
蝦夷討伐にあたった者としては、黒坂命(茨城郡)や建借馬命のように、
当国の直接の支配者である国造の祖が比較的多いのであるが、
彼らが討伐を正当化するのに、蝦夷に対し「化(おもむけ)に背きて、
(いた)く粛敬(みや)なかりき」(行方郡)としている点は重要である。
すなわち、彼らの蝦夷討伐は、天皇の権威による〈おもむけ〉という
大義名分によってなされていたのであり、この天皇の教化に従わぬ者は
討伐されねばならぬという論理が、明確に打ち出されているのである。
 
東国平定の大義名分の下に「香島の天の大神」と「香島郡」をつくった
朝廷は、蝦夷討伐の実働部隊として「鹿島・香取の皇軍」を組織した?
 
常陸国風土記』に、鹿島神宮のある「香島(鹿島)」の郡(こほり)
下総国海上(うなかみ)の国造が所領の地のうち、
軽野(かるの)から南にある一つの里、また那賀(なか)の国造が所領の地のうち、
寒田(さむた)より北にある五つの里を割いて、別個に設置した」とあります。
 
また「その地に鎮座まします天の大神の社・坂戸の社・および沼尾の社の三社を
合わせ称して香島の天の大神と申し上げる。よって郡の名とした」とのこと。
 
…にしても、『古事記(712)が成った翌年の和銅6年5月2日に『風土記』撰進の詔が出、
その11年後に成ったとされる『常陸国風土記』に天智天皇(626-672)の話が出ていたとは!?
 
淡海の大津の朝(天智天皇の御世)に、初めて使ひを遣して、神の宮を造らしめき。
それより已来(このかた)、修理(つく)ること絶えず」との本文および詳細な注記は、
中央とのパイプをもっていた中臣氏が香島大神に奉仕していたことを背景に
神話体系を踏まえた上で当地の伝承を盛ったと考えられているようです。
なお、天智朝の「神の宮」と鹿島神宮の社地については
次回のテーマなので、足を運んで考えたいと思います。
 
「鹿島・香取の皇軍」については、大杉神社のHPに書かれた
菟上(うなかみ)之国は広大な常総内海を支配域としておりました。
その内海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。
律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、
大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。
その後菟上之国の海上支配・交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた
鹿嶋・香取の両神社に移譲しました」がヒントになるかもしれません。
 
仲国の一族」とは、那賀国造にまつわる氏族でしょうか?
どんな勢力がどんな先住民を討伐したかの一端を知るには、一つ一つ
常陸国風土記』に出てくる地名と由来にあたる必要があるかもしれません。
それにしても、「孝徳天皇の653年に行方の郡家が置かれた」として、
坂上田村麻呂(758-811)征夷大将軍になるまでの144年と、その後も続く
アテルイらの悲劇に思いを致すと、気が遠くなってきます。
 
行方郡 東・南・西は並に流海、北は茨城(うばらき)の郡なり。
   ●行方(なめかた)の郡(こほり) (倭武の天皇、天下を巡幸して此の国を過ぎ、繊細で美しいゆえ
行細=なめくはし」と呼ばれたのが「行方=なめかた」に転訛) 
(孝徳天皇の653年、茨城国造、那珂国造、惣領高向大夫、中臣幡織田大夫らに請いて 
茨城の地の八里と那珂の地の七里、合せて七百余戸を割きて、行方の郡家を置けり) 
(『和名抄』に「行方=奈女加多」とあり) 
   ●提賀(てが)の里 (郡の西北の地に住んでゐた手鹿という名の佐伯に因む名)
   ●曾尼(そね)の村 (提賀より北に「曾尼の駅」を置く。疏彌吡古という佐伯の名を村につく) 
   ●男高(をだか)の里 (郡家より南へ七里。昔この地に住んでいた小高という名の佐伯に因む名)
   ●香澄(かすみ)の里 (景行天皇下総国の印波の鳥見丘に登られた時、東を臨み「の中から
湧き上がるように見える」と仰せになったことから「の郷」と呼ばれた) 
   ●板来(いたく)の村 (香澄の里より南十里の渡し場に「板来の駅家」が置かれた)
(建借間命が「痛く殺す」と言った所を「伊多久と謂う。のちに水戸光圀 
後述の「潮宮」を「いたみや」と読むと知り、板来」を潮来改めさせた) 
   ●布都奈(ふつな)の村 (建借間命が「ふつに斬る」と言った所)
   ●安伐(やすきり)の里 (建借間命が「安く殺る」と言った所)
   ●吉前(えさき)の邑 (建借間命が「吉く殺く」と言った所)
   ●当麻(たぎま)の郷 (倭武の天皇、此の郷を過ぎ、悪しき道の義を取りて「当麻」と謂う) 
   ●芸都(きつ)の里 (当麻より南にあり、寸津比古寸津比売という二人の国巣に因む名)
   ●相鹿(あふか) (倭武の天皇の后 大橘比賣命、此の地に参り遇う故「安布賀」の邑と謂う) 
(『和名抄』に「逢鹿郷」と見える) 
   ●大生(おほふ)の里 (大炊の義を取りて大生の村と名づく。「相鹿」の里の南に隣接)
 
まず、上に2つの「駅家(うまや)」が出てきます。
「駅家」とは、伝達を任された使者が乗る馬を準備した宿泊施設です。
奈良時代に、地方を統治する拠点として「国府(こくふ)」が置かれ、都と国府を結ぶ
道路が整備されて、30里(約16km)ごとに「駅家」を置く、駅制が敷かれました。
ただし、著しく地形の変わった現在、「駅家」の場所を特定することは難しく、
曾尼(そねのうまや)」の所在地も諸説あるそうです。
今は石岡市立石岡小学校の敷地内にある常陸国府から、霞ヶ浦を経て
行方の郡に通じる交通路に置かれた水駅(みずうまや)であったとされ、
玉造泉の県道脇に、玉造郷土文化研究会が建てた「曾尼駅家の跡」の石碑があるとか。
   ↓ この辺が「国府」ですね。
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常陸国風土記』の地図を見ると「曾尼駅」は今の霞ケ浦大橋の北にあったようです。
今日はその霞ケ浦沿いを355号線で北上し、360号線に入って茨城空港南まで行きます。
先月、下総国切手神社へ行った際に知った「手接神社」の本社があるためです。
この機会を逃したら、たぶん生きているうちには行けないので。
手接神社」の本社は旧東茨城郡小川町(現 小美玉市与沢)にあります。
(「小美玉市」の「小」は小川町で、あとは美野里町と玉里村の合併地名です)
「小川」に「カッパ」と来れば小川芋銭を連想しますが、芋銭の小川家は常陸国
牛久藩の大目付で、廃藩置県により新治県城中村(現 牛久市城中町)に移って
農家になったそうで、小川町との関連は不明です。
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おっと、「手接神社」へ向かうため橘郵便局を目指していると、約1.5km手前の
行方市羽生に橘郷造神社がありました。通り過ぎてから気づいたので鳥居は遥か手前。
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橘郷(たちばなごう)の名を負う神社ゆえ、現在も広大な敷地を有しているのでしょう。
行方市HPに「弟橘姫命と木花開夜姫命を祀るこの神社は、
平安前期の史書である『日本三代実録』の記録にも登場する古い歴史を持っています。
また、鎌倉幕府の事跡を綴った『吾妻鏡』は、源頼朝がこの神社周辺地域である
橘郷を鹿島神宮へ寄進したことを伝えています」とありました。
 
おっと、また通り過ぎてしまいました。
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360号線に看板があったので、ここから側道に入ります。
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開けっ広げな鎮座地です。むしろ右手の森の中にある「与沢の古社」が気になりますが。
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たしかに「手接(てつぎ)神社」とあります。
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拝殿扁額の右側も撮っておきました。
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こちらが本殿です。立派すぎて悪いということはないのですけれど、
思うに、「カッパ」というのは異形の者で、朝廷の言う「オニ」と似た扱いだったのでは?
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↑ は享和元年(1801)水戸藩東浜で網にかかった河童の姿だそうです。
「身長三尺五寸(約106cm)、重さ十二貫目(約45kg)。胸が隆起し、猪首。背が曲がっている
と付記されているとか(Wikipediaより)
それゆえ、勝手に、立派な社殿に違和感をもつわけです。
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違和感といえば、ここ茨城空港南の交差点近くを走っていたら物凄い轟音が!?
思わずバイクを停めて見上げたら戦闘機のようなものが飛んでいました。
そうか…茨城空港って百里基地だったんですね。
 
与沢の手接神社から倉数(くらかず)潮宮(いたみや)神社までは約6分と出たものの
地図に道がなく、ナビが到着点にしたのは手前の人家でした。
そのお宅で教えて頂いたのは、どうやら近くの別の神社だったらしく、
勘に頼るほかなくなりました。↓ 道らしきものはここのみ(バイクで行けるかどうか心配ですが)
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凸凹で曲がりくねった未舗装路を登ってゆくと、台地のテッペンに出ました。
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この先は畑で、左手に社殿がありました。
わざわざ地図に道が載っていない潮宮神社を訪れたのは、
潮宮(いたみや)」を知った水戸光圀(1628-1701)が、
元禄11年(1698)に「板来(いたく)」を「潮来(いたこ)」と改めたと知ったからです。
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裏から入ってきましたが、表参道はどこ?
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鳥居が見えないので、ずっと先に階段があって、その下が社頭なのでしょう。
歩いて往復する時間が惜しいので、社殿の周辺のみ撮っておきます。
f:id:YumiAIKAWA:20210716104104j:plain与沢の手接神社と距離が近いせいか、本殿の造りが似ていました。
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もちろん台地のテッペンに鎮座しているため、社叢は大違いですが。
まるで異次元のような空間でした(異次元へ行ったことがないので個人的妄想に過ぎません)
ここ倉数の潮宮神社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と書かれています。
これは…調べたいと思いつつまだ掘り下げられていない不可解な役どころです。
『記・紀』では、
葦原中国が騒がしいので天照大御神と高木神が建御雷神を遣わすことにしたら
高倉下が夢の中で建御雷神に「国を平定した剣を倉に降しておくから目覚めたら
天津神の御子に献上せよ」と命ぜられて、熊野で悪神の毒気により倒れた
(のちの)神武天皇一行に霊剣「布都御魂」を献上して助けたことになっています。
先代旧事本紀』は高倉下の父をニギハヤヒとし、
尾張連らの祖「天香語山命(彌彦神社などの祭神)と同神としています。
 
いずれにせよ、神話は作り話ですから、さまざまな仮説が成り立ちます。
「鹿島・香取の皇軍」の誕生以前、物部系の勢力が常陸国を支配していたとして
中央での物部・蘇我両本宗家の失脚に伴なって、天智・天武の御世に律令制による
統一国家樹立の機運が高まり、東国平定が国是になったのかも?
古代は海路を抑えることが必須なので、霞ケ浦の入り口を
「鹿島」と「香取」の軍神に支配させたのが、蝦夷征伐の第一歩?
 
天照大御神と高木神が葦原中国に遣わそうとしたとの神話に基づいて
鹿島神宮の祭神が建御雷神=武甕槌大神になり、
鹿島神宮の摂社潮宮神社の祭神が、建御雷神の命で霊剣を届けた
高倉下命という組み合わせになった?
 
その潮宮神社鹿嶋市宮中(下津入口)から、ここ倉数へ遷座したのが992年。
前述の橘郷造神社のところで行方市HPから引用した
源頼朝(1147-99)がこの神社周辺地域である橘郷を鹿島神宮へ寄進した
との記述を信じれば、当地は992年にはまだ鹿島神宮に寄進されていません。
 
ただ、日本文徳実録の元慶3年(879)の条に
「大洗磯前に海水で塩をつくる翁」という記事があって
鹿島灘では古くから製塩が行なわれていたのだそうです。
さらに他の資料で、大洗の南約15kmほどの大洋村(現 鉾田市)の汲上浜で
作られた塩が石岡府中まで馬で運ばれていたことを知りました。
「潮の道」です。
=汲上-鎌田-鉾田-小船津-両宿-小貫-中山-芹沢-倉数(中継所)-与沢-小川-高浜-府中
=汲上-鎌田-鉾田-仮宿-上山-倉数(中継所)-与沢-小川-四箇村-府中
「潮の道」に新旧があり、その中間地点が倉数でした。
879年に鹿島灘での製塩の記録があるのなら、
同時期に「潮の道」ができたとしても不思議ではなく、
中継所としての塩蔵があって賑わっていた倉数に、鹿島にあった
潮宮神社を992年に遷座させたとしてもおかしくないでしょう。
府中へ治める塩に、お上が関わっていないはずはないし、
神社が税の徴収などに携わっていたとの説もありますので。
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そろそろと倉数の台地から下りてますが、往時の「潮の道」もこんなに険しかったのかな?
ここから「旧 潮の道」で倉数の隣だった芹沢へ向かうクネクネ道も、ゆっくりと
バイクを走らせるほかなく、目指す大宮神社周辺の道も地図にありませんでした。
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えっ?! これって…あの新選組の?
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道なりに曲がると、「芹澤鴨生家」の通用門手前に「手接明神」の碑が!!
ここは手接神社本社から直線で約3.5kmの距離です。興味津々ですが、
私は「芹澤鴨生家」どころではないので板塀に沿って台地へ上がりました。
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大宮神社は右折と分かっていましたが、それは地図にない道で、
とりあえず道なりに進むと左手に「芹澤城址」の碑がありました。
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まさか、芹沢鴨が芹沢城主の家系…なんてこと、ありませんよね?
帰宅後、調べたら、本名は下村嗣次。
天狗党時代に拘束され、死刑を言い渡されるも、2年後に釈放されたため
京へ向かって壬生村に屯所を構え、壬生浪士組として活動を始めています。
それを機に、水戸藩芹沢村出身ということで「芹澤」と名乗ったらしい…。
のち京の警備を任されるようになった壬生浪士組は、新選組となりました。
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石碑の位置から来た道を振り返りました。
この道を引き返し、右折せずに直進すれば大宮神社へ行けるはずです。
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またしても裏から来ました。バイクを停めて表参道まで行きましょう。
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やはり社殿の正面に階段がありました。
では、来た道を引き返します。
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こんな道ばかり走ってますよね…。デフギアのキャノピーなのでスイスイですが。
平地へ下りて次の「荒原郷」へ向かおうとしたら「現原村道路元標」なるものが
ありました。すると、ここ芹沢もかつての「荒原郷」だったわけですね。
明治22年の町村制施行により、捻木村・若海村・芹沢村・谷島村が合併した際、
旧「荒原郷」の名をとって行方郡「現原村」としたそうです。
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東進していたら、左手に鳥居がありました。さっき見た階段でしたか…。
祭神は元はオホヒルメ、のちにタケミカヅチに征服されたわけですね。
境内社市杵島神社とありますが、それが今から行こうとしている神社です。
 
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この道標は見逃しますよね…。「辯才天参道 五〇〇米」と彫られていますか?
大宮神社から2kmほど南下し、右折して参道へ入らなくてはならなかったのに
遥か先まで行ってしまいました。「荒原」の地だけあって広大な台地です。
実は MapFan に「杵島神社」とあったので来てみました。今日のメインです。
GoogleMaps には「市杵島神社」とあります。
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朝廷としては、この台地は欲しいですよね…。
「荒原」とは、皇軍から見て荒ぶる神が居る土地?
皇軍が荒事で決着をつけた場所? いずれにしても先住民にしたら迷惑な話です。
台地の向こうに見えているのは茨城県立玉造工業高等学校の校舎。
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「荒原」の台地から少し下ると社殿がありました。
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鳥居の前にバイクを停めて来た道を撮りました。以下は、この坂の続きです。
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もし、当社が杵島神社なら、『常陸国風土記』行方郷に出てくる
杵島ぶり」と関連づけないではいられません。
(はかりごと)を思いついた建借間命は、兵を山の阿(くま)に伏せ隠した上で、
海渚(なぎさ・川も可?)に船を飾り立てて連ね、雲のような蓋(きぬがさ)を翻し、
(あめ)の鳥琴・天の鳥笛で杵島唱曲(きしまぶり)を七日七夜、演奏して歌い舞った。
音楽につられた賊が一族郎党、悉く住処から出で来て、浜で遊興にふけっていると
建借間命は兵に出入口を塞がせ、住処に戻れないようにして後方から襲ひ撃ち、
賊を悉く捕らえて、もろともに焼き滅ぼした!!
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ここは、川なのか「一の沢池」なのかわかりませんが、両岸の斜面を住処にしていて
上の台地から攻められて火をつけられたら終わりだな…と妄想を逞しくしました。
この道の神社側に小さな建物がありました。
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さっき社殿の右手にあった階段下の境内社はこれでしたか。
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怖くて、とても下りてゆけませんでした。
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ここ「荒原」の地名は「行方郡阿良比」と書かれています。
「本尊 宇賀神弁財天」とあるのが、下の道沿いの境内社かも知れません。
人頭蛇身の神像は、比叡山延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、
仏教の弁才天と習合させられたため、明治の神仏分離令
切り離されたはずですが、当社は祭祀を変えなかったのでしょうか?
さて、本題です。最後から 5行目に答えがありました。
「神社合祀 大正六年無格社杵島神社は財産造成の見込たたざる為
法的に芹沢大宮神社に合祀となる」
杵島神社…!?
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この坂道を上り切ると、玉造工業高等学校です。
「荒原」から「ヤツ」に下り、再び異次元を見た思いでした。
たとえ碑文の杵島神社市杵島神社の「市」が欠落しただけだったとしても
この地形を見て、私なりに風土記の「杵島ぶり」の場面がイメージできました。
今回、私は「杵島ぶり」におびき出された先住民が「紀」にまつわる
人々だったのではないかとの妄想から杵島神社を目指して来たわけですが、
下の石碑を見た瞬間、持統天皇の祖父 蘇我倉山田石川麻呂の名に象徴される
蘇我氏と石川氏の痕跡では? と興奮しました(拝殿を個人で寄進されたとは!?)
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しかし、明治39年に出された神社合祀政策で、大正3年までに
全国で約20万社あった神社のうち 7万社が取り壊されたと言われていますが、
大正6年になってもまだ合祀が続いていたとは驚きました。
昭和18年に却下された杵島神社の「社格復旧」は、氏子が合祀後も毎年
祭礼を続けた結果、昭和39年に認められたそうです。
それにしても「財産造成の見込」という視点が理解できません。
神社は商店とは違うのでは?
 
ところで、常陸国下総国にスカ・ソカ地名が多い件に関してですが、
私が蘇我氏や須賀氏、石川氏などが居住していたのではないかと疑っているのに対し、
玉造町教育委員会『原遺跡発掘調査報告書』は「スカ(須賀・渚・菅・周賀)」を一般的な
地名語源「海に沿った高地。砂丘。ス(砂)(処)=砂地・砂でできた土地」と解釈しています。
実際に私が足を運んだ須賀神社もそういう場所に鎮座していました。
船での移動輸送が主だった時代には海や川の要所を押さえる必要があったはず。
「鹿島・香取の皇軍」に駆逐された先住民がスカ・ソカ系の氏族だったとしたら
地形と姓氏の発音や意味が重なる場所があっても不思議ではないと考えています。
 
中でも、つくば市上境(かみざかひ)流山の體見神社の来歴は特殊です。
当社へ足を運んだのは、社名が読めなかったためで、発音は「すがたみ」でした。
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現在は「海に沿った高地」でも「砂丘」でもありませんが、古代は
上の「駅家」の図で「曾彌」の手前になるので霞ケ浦の沿岸でした。
「体見・姿見」とも書かれたようですが、『日本三代実録』仁和3年(887) 5月16日に
正六位菅田神授従五位下」とあるように、本来は製鉄氏族の菅田(おびと)の遠祖三神
すなわち筑紫・伊勢両国の忌部の祖神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)とその御子
天久斯麻比土都命(あまのくしまひとつのみこと)、建許呂命(たけころのみこと)を祀っており、
常陸国河内郡菅田郷の大宮「菅田明神」と称されていました。
現在は「正一位(=稲荷)體見大明神」の扁額が掲げられています。
このブログの日 ↑「上高津貝塚」から桜川を遡上して體見神社へ行った
もう一つの理由は上境(かみざかひ)「瀧の台古墳群」があったためです。
「瀧の台古墳群」は、旧石器・縄文・弥生・古墳時代の複合遺跡です。
その北北西に「曾彌駅(そねのうまや)」、さらに北北西に「桜塚古墳」(つくば市水守)
ありますが、「瀧の台古墳群」や「桜塚古墳」築造当時、忌部は誕生しておらず、
渡来系製鉄氏族の菅田首が「瀧の台古墳群」の主である可能性はありません。
私は、ここがスガ・ソガ氏の一大拠点だったため、渡来系製鉄氏族が
敢えて「菅田(スガた)」と名乗ったのではないかと疑っています。
 
霞ケ浦の東に曾尼(そね)の駅(うまや)、西に曾彌(そね)の駅があったのは
「提賀より北に曾尼の駅を置く。疏彌毗古(そねびこ)という佐伯の名を村につく」
と『常陸国風土記』にあることから、「てが」に提賀(常陸国)と手賀(下総国)
あったように、「そね」の表記に曾尼曾彌があって、霞ケ浦の東西に
朝廷の言う「そねびこという名の佐伯」が居たということになりましょうか?
(佐伯とは、朝廷の命令を遮る者、すなわち"天皇にまつろわぬ民"のこと)
 
こうして疑問ばかりが山積し、答えはなかなか見つかりませんが、
さらに調査を続けるほか道はありません。
 
今日の帰途は、渋滞で時間が計算できない6号線を通りたくないこともあって
潮来まで行って利根川沿いの土手を走るルートをとりました。
走行距離は増えましたが、夕方なのに、ほとんど車を見ずに帰宅できました。
杵島神社からは水戸神栖線へ出て、ひたすら南下します。
"まつろわぬ民"の居た「夜刀」「手賀」を過ぎ、井上から183号線へ。
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突然、社殿が見えました。井上神社のようです。
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村社としては大きくて立派ですね。
源頼朝は当社を大宮と尊称して神領を寄進しています。
しかし何より重要なのは、坂上田村麻呂(758-811)が最後の奥羽征伐となった
大同元年(806)に、当社で戦勝祈願を行なったとの伝承です。
それは即ち、当地が皇軍の手に落ちていたことを物語っているからです。
それゆえ、この立地なのでは? と、足を運んでみて感じます。
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↑ これは、「西蓮寺の古社」と地図に記載されている場所から見た井上神社です。
今の山田玉造線と、北西に進む古道の三叉路に鎮座しています。
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「西蓮寺の古社」は繁みの中にひっそりと鎮座していました。
けれど廃れた印象はなく、鎮守の森として崇敬されているようです。
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井上神社がヒコホホデミとウガヤフキアヘズの親子を祭神としていたなら
足りないのは神武天皇の父とされるウガヤフキアヘズを産んだトヨタマヒメで、
それが証明できると、当地の先住民が豊玉族だった可能性を主張できるのですが。
隣接する「西蓮寺の古社」から井上神社を見て、私は
4kmあまり北に位置する夜刀神社を思い出しました。
夜刀神社も「西蓮寺の古社」と同じように小さな祠でした。
それに対し、隣には愛宕神社の社殿があったのです。
これが皇軍のやり方だったとしたら、手接神社に隣接する
「与沢の古社」も見ておくべきでした。
今さら後悔しても始まりませんが…。
 
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まだ立ち寄りたい場所は幾つもありましたが、この時点で17:58。
連日、雷雨注意報が出ている中、降られなかっただけでもラッキーです。
↑ の画像右寄りに見えている行方の「虹の塔」の左隣が霞ケ浦大橋です。
井上神社からの帰途、ナビは北上して霞ケ浦大橋を渡り、来た道を戻る
ルートを選びましたが、私は一つでも多く地名を確認したいので
ひたすら南下して「天王崎」までやってきました。
「天王」とは牛頭天王でスサノヲ。八坂神社もあり、ここもスカ・ソカ関連です。
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北から正面へ目を移すと、6/21に行った鷲宮(鳩崎)狼煙台のある美浦村
その南東に位置する浮島があり、左に目をやると佐原や香取が見えます。
前述の「香澄(かすみ)の里」(景行天皇下総国の印波の鳥見丘に登られた時、東を臨み
「霞の中から湧き上がるように見える」と仰せになったことから「霞の郷」と呼ばれた)
今の印旛郡から当地を眺めての印象であろうと言われています。
 
残る「板来潮来」は、次回、「香島郡」へ行く際に通るため
須賀・古高(布都奈の村)などを走るつもりです。
(東京2020オリンピックで使用される鹿島スタジアム周辺の通行規制により、次回は8/6以降になる予定)