藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

『常陸国風土記』香島郡

ずうっと高温多湿の日々が続き、今日やっと20~24℃となりました。
茨城県は終日「曇り」の予報でしたが、ずいぶん日に焼けました。
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何と、もうほとんど稲刈りが終わっているではありませんか!?
気温が30℃を超えるとヘルメットをかぶって1分後には汗で目が開かなくなるため
バイクで遠出できず、これほどブログを休んだのは初めてのことではないかと?
 
今日は前回の続きで「潮来市」~「鹿嶋市」を訪ねます。
潮来佐原線を走っていたら「与田浦」の最西端が見えました。
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水郷だけあって船着場がありましたが、観光客はゼロ。閑散としています。
さらに北上して常陸利根川を渡ります。
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おそらく対岸のこんもりの中に「浅間塚古墳」があり、
そこが当時の水際だったのではないでしょうか。
4世紀末から5世紀初めに築造された「浅間塚古墳」は
霞ヶ浦・北浦周辺で最古の前方後円墳で、県内では第11位の大きさだとか。
「浅間塚」の名は、頭頂部から富士山が見えることに由来するようです。
その「浅間塚古墳」と同じ北緯35.9462に位置する素鵞熊野神社
潮来市潮来の訪問先として選びました。両者の距離は僅かに1.3km。
素鵞熊野神社が4世紀頃の当地の支配者の拠点だった可能性があるかも?
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今は狭い路地の奥の社頭に、ケヤキの由来がありました。
98段の石段参道を登ろうにも社頭が狭くてバイクを停められません。
バイクで上がれる道を探すとしましょう。
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由緒にまたしても水戸光圀公の名が…。彼の寺社改革って何だったんでしょうねぇ。
常陸国下総国などでの寺社の廃絶、移転、また当社のような合祀(祭神の呉越同舟)
ケヤキの起源が1188年ですって? それ以前からここは天然の要塞だったでしょ?
台地を右方向に迂回すると社殿横の駐車場まで行けました。
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ケヤキと大六天山の起源から800有余年というわけですか…。
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台地の中腹に裏参道の鳥居があり、地形から見て、ここも縄文台地だったのでは?
常陸国に五絃のコトをもつ民族が住んでいたことは出土品で証明されており、
水戸の御老公は1188年以前の歴史を隠蔽したかったのかもしれませんね。
 
ここ潮来市鹿嶋市を隔てているのは「鰐川」です。
ワニと来れば、八尋の鰐の姿でウガヤフキアヘズ(初代神武天皇の父)を産んだ豊玉姫
志賀島(しかのしま)と同じ豊玉族ゆえ、志賀=鹿で鹿島。
 
鹿島神宮にはかつて東西南北に一之鳥居があったそうです。
鳥居の結界の中を神域にしたということでしょうか?
東は鹿嶋市明石、西は鹿嶋市大船津、南は神栖市日川、北は鹿嶋市浜津賀。
ところが、すでに足を運んだ「日川(にっかわ)」では鳥居を見つけられず、
今では日川から遷座した息栖神社の一之鳥居のことだと言われています。
北は2017年に「神戸(ごうど)」と呼ばれる戸隠神社脇の参道に再建されたそうで、
こうなると、残り2ヶ所の現在地も怪しいものですね。
西の一之鳥居は「鰐川」にありました。神宮橋で結ばれた対岸に見えてます。
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古来、西の一之鳥居は水上鳥居で、現在の鳥居は2013年に再建されたそうです。
川底からの高さが18.5m、幅が22.5mで、旧鳥居の約2.5倍なのだとか。
 
東の一之鳥居は鹿島神宮の祭神 武甕槌神が上陸した聖地という設定です。
ほかに、武甕槌神経津主神が上陸し、経津主神は「沼尾」から「香取」へ
武甕槌神は「沼尾」から鹿島神宮へ遷ったとの説や、
上陸した武甕槌神が向かったのが「高天原」で、鹿島神宮の社殿は
江戸時代まで「高天原」にあったとの説もあるようです。
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↑は昭和30年頃に撮影された「高天原」で、真ん中の松林が鬼塚だそうです。
現在「高天原」は住宅地となり、奥にひときわ高い鬼塚が見えます。
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「鹿島の大神が東征の折、従わない鬼たちを退治して、その首を埋めた」?
「鹿島の大神」=武甕槌神は、朝廷の命により東国征伐を担当した皇軍ですが、
従わなかった先住民を虐殺し、その首を埋めたのが鬼塚って…!?
巨大すぎませんか? 鬼塚。数千どころか数万の首塚ですか?
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この鬼塚から西南へ1km、鹿島神宮との中間地点に潮社(いたのやしろ)がありました。
2ヶ月前に行った倉数の潮宮(いたみや)神社の元宮です。
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992年に、鹿嶋市宮中の下津入口から倉数へ遷座したとのこと。
その読みを知った水戸光圀が1698年に「板来(いたく)」を「潮来(いたこ)」と改称しています。
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現在は下津通りに隣接し、敷地もさほど広くないものの、趣があります。
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道路から一歩足を踏み入れると、ここだけが別世界のようでした。
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この社の裏数メートルにある道路を車が往き来しているとは思えないほどの静けさでした。
 
鹿島神宮では、2012年12月21日に行けなかった「御手洗池」へ。
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御手洗公園とあるように、ここはまさしく公園でしかありませんでした。
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有り難いですか? コレ。わざわざ水を汲みに来る方もあるとか。
私のように信仰心のない者は、水道水かも?なんて思ったりしますが。
 
さて、今日のテーマの一つは「鹿島神宮境内附(つけたり)郡家(ぐうけ)跡」。
御手洗公園から向かったのは「沼尾」の郡家跡です。
地図上では香島の天の大神を構成した沼尾神社の西南西2kmの距離にあります。
ただし、沼尾神社も1986年に「鹿島神宮境内附郡家跡」に指定されています。
要するに、2ヶ所の「沼尾」(飛び地?)に「鹿島神宮境内附郡家跡」があるわけです。
 
途中の「須賀」を走っていたら名もなき古墳らしきものが散見され、
一つだけ看板のあった「夫婦塚古墳」を撮りました。
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わざわざ駐車場まで行ったのですが、よくわかりませんでした。
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再び公道へ戻って反対側から撮ったら墳丘がわかり、まだましでした。
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ここ鹿嶋市「須賀」から北浦沿いに鹿嶋市「沼尾」に向かって北上します。
この先は地図上に道がなく、勘だけが頼りです。
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あ、ここ左折ですね、きっと…。
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入るとすぐ未舗装路になりました。
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うわっ!? ぬかるんでいて、なかなか進めません。何とか足で漕いで…
抜けた先は墓地!!
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真ん中の大きいお墓には「塚原家」と彫られています。
そういえば、ここ学園通りに入る手前に「塚原城」跡がありましたね。
その南東の「須賀」には、鹿島新当流の開祖「塚原卜伝(1489-1571)の墓」があります。
 
この先、バイクを切り返せなくなると困るので、墓地の前に停めて歩きました。
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左は崖で、真下にさっき登って来た学園通りが見えます。
この先を右方向に曲がったら、またしても墓地です。
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さらに進むと、右手に鳥居が見えました。地図に稲荷神社とありますが?
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右折すると、北上する道がありました。が、国土地理院の地図を見ると
この先は行きどまりで、その右がさっきの墓地の裏手になるようです。
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稲荷神社は「塚原古墳群」を訪問する経路にある神社と書かれていましたが?
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取り敢えず、稲荷神社を撮って引き返そうとしたら、南にこんもりが!?
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ここが「塚原古墳群」でしたか…。
GoogleMapで「塚原古墳群」の位置を確認し、周辺を歩こうとしたら
南側も西側もケモノ道で、お墓の近辺から離れるのが憚られました。
しかし国土地理院の地図では、ここが「鹿島神宮境内附郡家跡」なんですよね…。
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再びバイクで、さっき通った三叉路まで戻りました。
左折すると、「鹿島神宮境内附郡家跡」ではないかと思えるような広場と
香取神社があるようなのですが、草ぼうぼうだったので一瞬ためらいました。
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最初の広場。この奥に香取神社があるようなのですが、道が…。
上の画像左端の轍を走っていたら、かなりぬかるんでいて動けなくなり
途中からバイクを下りて押したり牽いたりしつつ進みました。
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やっとこさ、奥の広場へ到達しましたが、ここでは何枚撮っても大きな赤い丸が!!
左手にまたお墓があり、その先へ進めるかどうか見にゆきました。
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お墓まで行ってみたら、段差があって下れるようなのですが、先が見通せません。
これ以上バイクを押して進むのも大変なので、香取神社を探すのは諦めました。
 
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さっきタイヤが減り込んだ泥濘を、今度は真ん中の草の上を走って通過しました。
そして学園通りを渡って直進すると金砂神社があるはずです。
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きっと、あれですね。やっと地図に道がなかった理由がわかりました。
未舗装路を道路として扱っていないんですね。
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金砂神社・佐竹氏と言えば、常陸太田市西金砂神社が想起されます。
その西金砂神社で72年ごとに行なわれる大祭礼では「磯出」と言って
両社の氏子たちがそれぞれ500人ほどの大行列を編成し、日立市水木浜まで
往復約75kmを1週間かけて歩き、渡御の途中で田楽舞を奉納したりするそうです。
そして水木浜では「磯出」伝説にちなむ非公開の神事が行なわれるとか。
 
「806年、水木ノ浜に鮑の舟に乗った神が現れ」金砂山に着いたとの伝承は、
鹿嶋市明石浜から上陸した武甕槌神経津主神鹿嶋市沼尾へ向かい、
武甕槌神が沼尾から鹿島神宮へ、経津主神が沼尾から香取へ遷ったとの説と
何気に重なり、その沼尾に金砂神社があるというのも意味深な気がします。
16世紀末に佐竹氏が当地を支配して金砂神社を勧請したとの由緒よりも、
皇軍が先住民を討伐・虐殺して土地を奪う"システム"に興味が湧きます。
 
ここからはまた地図上に道のない大宮神社を探します。
大宮とは字のごとく、神社の上位にある大きな宮なので。
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画像右上が金砂神社社叢、珍しく道端に紅白の彼岸花が咲いてますね。
ここから南下すれば大宮神社があるはず。勘だけが頼りですが…。
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当然ながら未舗装路を走っています。ふと左手を見ると、こんもりがあったので左折。
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おおお…鳥居です!! しかし近づくと段差があってバイクでは入れません。
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鳥居に「大宮様」と書かれていました。
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もともと社殿には興味が無いので通り過ぎました。
振り返ると、台地のてっぺんを支配するのにピッタリな、平坦地の中央にありますね。
ここまで夢中で未舗装路を走ってきましたが、そろそろ脱出せねばなりません。
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おそらく東へ抜けるのが最短コースでしょう。が、枯草の分厚いこと!?
白煙を上げつつバイクを駆って、何とか舗装路へ出られました。
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この台地の西端から学園通りを上り、東に出て南下したわけです。
が、西が「沼尾」、真ん中の大宮神社とその南の塚原ト伝の墓が「須賀」、
この下り坂がある東側が「田野辺」と地名がバラバラです。
恐らく「田谷沼」で隔てられた隣の"シマ"に鎮座する沼尾神社の飛び地として
鹿島神宮境内附郡家跡」≒「塚原古墳群」の住所が「沼尾」になったのでしょう。
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「田谷沼」が見えてきました。正面左の"シマ"に沼尾神社、右に僅かに見える"シマ"に
坂戸神社があります。その近くに國土神社があるようなので行ってみます。
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え? ここですか? 現状は、名前から想像できない規模ですね…。
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何となく、蜘蛛窟の上に建てられたかも? という気がしたので素通りしました。
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坂戸神社鹿島神宮の摂社になったため地区の人々が国譲りの神 大国主命
勧請したのが國土神社だと書かれていますが、穿った見方をすると、
坂戸神社皇軍の手に落ちて先住民を虐殺した結果、蜘蛛窟ができたので、
支配者が国譲りの象徴たる大国主を祀って鎮守としたとも解釈できます。
 
鹿嶋デジタル博物館に「カシマの地名の由来」が書かれていますが、
冒頭以外は、古代海人族の風習(甕棺)などが反映されているようです。
     ●「香島天之大神の名に由来している」(『常陸国風土記』)
     ●「鹿嶋という小島の名に由来している」(『當社伝記』)
     ●「鹿の棲む嶋」(『鹿嶋志』)
     ●「神嶋(かみしま)の略」(『旧字考』『鹿嶋志』)
     ●「甕嶋(かめしま)の略」(『鹿嶋志』)
     ●「カシシマの転化」(岸で船を繋ぎとめるためのカシが林立するシマの意)
 
冒頭の香島天之大神については、ここ10年ほど考えてきました。
常陸国風土記』香島郡に
其処に有(い)ませる所の(あめ)之大神の社坂戸の社沼尾の社
三処を合せて惣べて香島天之大神と称ふ。よりて郡に名づく。
風俗(ふぞく)の説に霰雫る香島の国と云ふ。」との地名譚があります。
これは『肥前国風土記逸文などに
あられふるきしまが岳」とあることとも重なります。
これまで疑ってきたように、『常陸国風土記』に皇軍が七日七夜「杵島ぶり」を
歌い舞って先住民を誘き出した場面が描かれているのは、彼ら先住民が
杵島唱曲(きしまぶり)」を懐かしく思うことを知っていたからではないでしょうか。
「カシマの地名の由来」には「シマ」→「シマ」の転化もあり得ると考えます。
 
天之大神の社については110余基の古墳を擁する潮来市大生地区の
大生殿神社が第一候補であろうと考えています。
それは、鹿島神宮と密接な関係にあったオフ氏の奥津城とされる
子子舞塚(まごまひづか)と同じ北緯35.98に位置しているためです。
「鹿島の本宮」と伝わるのは大生神社の方ながら、創立年代は不詳。
大生古墳群が築かれた古墳時代中期に当地の支配者がオフ氏だったかどうかは
わかりませんけれど、それ以前から当地が太平洋と霞ケ浦に挟まれた
鹿行(ろっこう)地区の中心であったことは想像に難くありません。
同じように、鹿嶋市山之上の坂戸神社鹿嶋市沼尾の沼尾神社にも
"シマ"の盟主が居たはずで、そうした有力な先住民を平らげたのち
皇軍が編成したのが香島天之大神だったのかもしれません。
 
もう一つ、古代の結界は非常に誤差が少なくて驚くのですが、
この三社の関係は、北緯35.986に位置する大生殿神社坂戸神社の直線距離が 6.46km、
大生殿神社沼尾神社の直線距離も 6.46km、坂戸神社沼尾神社の直線距離が 1.56kmの
二等辺三角形になっており、強力な連合軍として組織されていたと推察されます。
 
皇軍の東国征伐を追ってゆくと、古代海人族のシステムが浮かび上がってきますね。
では、次の「鹿島神宮境内附郡家跡」を訪ねてみましょう。
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これでは何もわかりませんが、ただただだだっ広い平坦地が南西に広がっています。
東経140.63523の鹿島神宮奥宮の真南1.4kmに位置する「神野向(かのむかひ)遺跡」です。
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1984年の調査で一辺=約53mの回廊で囲まれた正庁域が発見され、その内部施設が
明らかになったこと、多数の墨書土器や銅印のほか重要な資料が出土したこと等により
1986年に国指定史跡「鹿島神宮境内附郡家跡 “神野向遺跡”」になりました。
常陸国風土記』香島郡の条にある「香島の神の社の南に郡家あり」が
決め手になったとすると、皇軍が「高天原」の先住民を「鬼塚」に屠った直後、
常陸国風土記』成立の721年までに鹿島神宮が現在地に創建されたことになりましょう。
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常陸国風土記』香島郡より
香島の神の社の南に郡家がある。また、社の北には沼尾の池がある。
古老が言うには「(この池は)神代に天から流れてきた水沼(みぬま)である」と。
この沼に生えている蓮根は、味が他のものとはたいそう違って、この上なく美味しい。
病気の者が、この沼の蓮を食べると、病が早く癒えるというのは確かなことだ。
鮒や鯉もたくさん棲んでいる。この地は以前郡家が置かれていた所である。
橘がたくさん植えられており、その果実は美味である。
 
すると、「神野向遺跡」に郡家が置かれる前は現沼尾神社周辺が郡家だったんですね。
しかし、国土地理院の地図を見ると、現沼尾神社のある「沼尾」と、北浦の湖岸に近い
「沼尾」の「塚原古墳群」周辺に「鹿島神宮境内附郡家跡」と記載されています。
後者は水運の拠点の一つとして、出先機関でも置かれていたのでしょうか?
一説に、初め「沼尾」にあった郡家は、710年頃に「神野」へ移り、
900年頃まで機能していたとも言われているそうです。
 
さて、当地から南東に約2km走ると「木滝(きたき)屋久(びやく)製鉄遺跡」があります。
たぶん二度と来ることはないと思うので、帰途と逆方向ですが走りました。
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坂の途中で「目的地に着きました」と言われましたが、ここですか?
取り敢えずバイクを下りて細い道へ入ると案内板がありました。
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え? これだけ?
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常陸国風土記』香島郡より
郡の東二三里に高松の浜あり。大海の波に流し寄せられた砂と貝とが積もって
高い丘と成り、松林が自然にできた。椎や柴も入り交じり、今では山野のようだ。
東西の松の下には泉が湧き、周囲は八九歩ばかり。その水は清らかでとても旨い。
慶雲元年(704)国司の婇女朝臣(うねめのあそん)が、鍛冶師の佐備大麿(さびのおほまろ)らを
連れて、若松の浜で砂鉄を採り、(その砂鉄で)剣を造った。
ここ高松の浜の南方、軽野の里から若松の浜に至る三十里あまりは、ずっと松山が続く。
(この松山に)マツホド、ネアルマツホド(といった薬草)を産し、毎年それらを掘る。
さて若松の浦は、常陸・下総の国境である。(その若松の浦の)安是(あぜ)の湖(みなと)
産する砂鉄は、剣に造るとたいそうよく切れる(剣となる)
しかしながら、そこは香島の神の神域にあたるので、だれでもが気軽に
そこに入って松を伐ったり砂鉄を掘ったりすることはできない。
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現在、↑の地図にある安是の湖(?)は消滅してますが、「木滝比屋久製鉄遺跡」の南東
鹿嶋市立高松小学校・中学校あたりが湖の北辺だったようです。
その浜から良い砂鉄を「木滝比屋久製鉄遺跡」まで運んだことで、案内板にある
「谷から吹き上げる自然風」を得て高松の松を燃やし、古代製鉄を営めたわけですね。
 
案内板の先がケモノ道で進めず、不完全燃焼でしたが、地形は理解できました。
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鹿嶋市では"シマ"から"シマ"への移動となるため、高低差があるかと思いきや、
高架道路を走ってスイスイ渡れました。↑この入り江は現鹿島神宮の南まで続きます。
 
次の目的地「神野(かの)の跡宮」は「鹿島神宮境内附郡家跡 “神野向遺跡”」の真西1.1km、
同じ北緯35.957にあり、太古は香取海に突き出た半島の突端だったとわかりました。
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いま南面しているのは「鰐川」です。
以下の『常陸国風土記』の記述は現在の鹿島神宮と解釈されているようですが、
太平洋と霞ケ浦に挟まれた土地というより、社の周囲に東西の海が迫っていて
峰や谷、人里が入り組んだ、細い半島という方がしっくりきます。
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常陸国風土記』香島郡より
毎年四月十日には祭を行ない、酒宴を催す。卜氏(うらべうじ)の同族の人々は、
男も女もすべて集まり、昼となく夜となく、酒を飲みながら歌い舞い楽しむのである。
その時の歌に、
あらさかの 神の御酒(みさけ)を 飲(た)げと 言ひけばかもよ 我が酔(ゑ)ひにけむ
この神の社の周囲は卜氏の住むところだ。その土地は高く広く、東と西は海に臨み、
峰や谷(人の住まない所)と、邑や里(人が住む所)とが互いに入り混じっている。
山にある木と野にある草とが自然に垣のように生い繁り、(その中の地を)庭とし、
谷の流れと岸にある泉は、まるで朝夕の汲み水にせよと言わんばかりに湧き流れている。
(中略)
ここはまさに仙人の住むという幽境の地、また霊異のなりいづる神仙の地とでも
いうべきところである。その素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。
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ここに書かれた由緒「鹿島の大神が初めて天降り給いし所が神野の跡宮」を信じるなら
皇軍が初めて上陸したのは、さっきの「鰐川」が見えた場所だったかもしれません。
ここ鹿嶋市「神野」の東隣が同じ台地上にある「宮中」で、鹿島神宮本殿までは1.5kmです。
太平洋側の東の一之鳥居から上陸した皇軍が、3km西の沼尾神社へ向かったとして、
その「沼尾」から経津主神が「香取」へ、武甕槌神鹿島神宮へ遷ったというのは
距離があり過ぎるように思えてなりません。
この突端から上陸し、先住民を平らげるため「沼尾」や「高天原」へ行ったのでは?
 
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往古も白鷺が舞っていたであろう長閑な土地は、鹿島と香取の皇軍に降りました。
そして『常陸国風土記』にあるように「淡海の大津の朝(天智天皇の御世)に初めて
使いの人を派遣して(香島の大神の)神の宮を造らせた」のだとしたら、668年以降に
「神野」か現在の鹿島神宮の地に社殿が建てられたことになります。
 
残念ながら今回もまた『常陸国風土記』の地名や内容を解明できませんでした。
最後に、日本で唯一(?)灯台が建っている場所から海が見えない(灯台に上がれば見える)
言われている鹿嶋灯台を撮ってきました。
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坂を下ってみたものの、なかなか見える場所が無くて、少し上がったら見えました。
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カシマサッカースタジアムのある台地、東へ約600mゆけば鹿嶋灯台です。
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では帰るとしましょう。往復ともほとんど信号のない利根川沿いを走りました。
突破口はなかなか見つかりませんね…。