いよいよレコーディングも危うくなってきたかなぁ…とぼんやりしていたら
偶然、琴海神社という文字が目に飛び込んできました!
これは…「ことうみ」と読むのかもしれませんが、古代の日本語なら
母音は語頭にしか立たないため「ことぅみ」でしょうか?
「海」は海人族の「あま」で、日本の「こと」は海人族の楽器だったから
「ことあま」→「こたま」かも? なんて妄想を逞しくしていましたが、
オミクロン株の感染拡大で遠出できなくなりそうなので行ってみよう!
と、新幹線の自由席に乗りました。土曜日なので混んでます。
駅弁フェチの私が楽しみにしていたローストビーフ弁当は
4人の家族連れがピタッとショーウィンドウ左側にはりついていらしたため買えず、
右側を担当していたお姉さんに「右端のお弁当を一つ」とお願いしました。
さつまいものレモン煮とカブが美味しくて「うわぉ!!」でした。
さて、熱海で、常々二度と乗りたくないと口にしている伊豆急に乗り換えました。
少し待てば踊り子号に乗れますが、下田から鈍行で引き返すと同時刻になるため
各駅停車に乗ってます…。熱海からの所要時間、なんと1時間40分ですよ!?
縄張り争い(「伊豆戦争」)の弊害でクネクネと走るこの路線は揺れるし遅いんです。
1959年に伊東~下田間の鉄道敷設の免許が東急側に与えられたことに対抗するため
河津〜下田を山側へ変更したそうです。その、問題の下田プリンスにも泊まりましたね。
誰トク? と思ったら、今回私が得をしました。
車窓からはまだ海が見えています。伊豆大島…また行きたいものです。
伊豆北川という駅から、まさかと思いますが、大室山らしき山頂部が見えました。
方角的には大室山でもおかしくありませんね…。
伊豆稲取駅では特急列車の待ち合わせですって。停車時間7分だそうです。
それでも着実に、目指す駅が近づいてきました。
今日最初に行くのは高根神社。当然アヂスキタカヒコネかと思いますよね?
そこが伊豆半島の不思議なところで、『静岡縣神社志』賀茂郡の項にこうありました。
「高根神社は五社あるがその祭神は一定せぬ、味耜高彦根命を祀るは南上村に三社、
蔵王権現なら
吉野の金峯山で感得したという金剛蔵王大権現のことですよね?
この読みが「いなずさ」ですって? あり得ないでしょ?
「梓」は「梓弓(あづさゆみ)」の略ですから「いなづさ」!
この地名は高根神社の神事とも深く関わっているようです。
それにしても、現代かなづかいは一貫性に欠けてますよね…。
「土地(とち)」の表面はなぜ「地面(ぢめん)」じゃないんですか?
↑これは駅入り口まで下りて撮ったもの、↓こちらは無人駅を出た時に撮りました。
こんなに趣のある駅は、かつて見たことがありません。
西武鉄道が白浜方面の土地を買収しなければ、こういう山中の駅は誕生しませんでした。
駅から高根神社までは高低差があるものの徒歩2分だそうです。
小川を渡って少し歩いたら道沿い左手にありました。右方向の線路と相対しています。
当社には「鬼射(おびしゃ)」と呼ばれる神事があるというので来てみました。
それが来月に迫っているため、氏子さんたちが集まっておられ、お話を聞けました。
「おびしゃ」とは、意訳すれば「御奉射」が近いのではないかと思われますが、
これぞ「梓弓」ですよね。
その字にわざわざ「鬼」を使ったところに含意があったのでしょうか?
本殿には御神体の人形が祀られているため上がれないと言われましたが、
拝殿で、裏面に「鬼」と書かれた「鬼射」の的を見ることができました。
上陸したという風に、「き」の発音に先住民をあらわす「鬼」が使われていました。
すると「鬼射」は吉備の桃太郎と同じ鬼(先住民)退治?
下田行きに乗るため、20分ほどの滞在で稲梓駅へ戻りました。
ホームのベンチに座っておられた御高齢の女性に「さっき神社に居た方ね」と
お声がけ頂いたので、いろいろ質問していたら、当社の北西、直線で約9kmの
検索すると、2019年以降、担い手不足により休止中とのこと。
松崎町では「鬼射」を「おんびしゃ」、弓太郎を「ゆんだる」と発音し、
江戸時代から続くと言われているそうです。
『増訂 豆州志稿』に「古祠也毎歳二月大的ノ神事ヲ行フ」とある高根神社の「鬼射」は
長い歴史をもつと考えられており、それが松崎町に伝わったのかもしれません。
高根神社は↑画像中央付近の一際濃い緑を左に回り込んだ立地なので駅からは見えません。
下田駅に着くと、すぐタクシーに乗りました。
伊豆半島南部では最も有名な白浜の伊古奈比咩命神社(白濱神社)を素通りして
コンクリート橋を渡ったら右折して突き当りまで。
うっわぁ~~~!!
と心の中で叫び、人工的建造物を素通り。
引き寄せられるように海辺に座り、《阿知女(あちめ)》と《篠波(さざなみ)》を演奏しました。
いきなり20分以上も演奏したので運転手さんはさぞ驚かれたことでしょう。
伊豆大島に向かって演奏していたわけですね。
書かれていますが、これは後付けというものではないでしょうか?
「なきち」には、山崩れした崖、焼畑の土地などの意味があり、実際に
そこから子安社があった現在地に遷座したと言われているそうです。
縄地川の別名は縄地沢(なはちさは)とも伝わります。
現鎮座地の「縄地(なはぢ)」は「奈疑知(なきち)」の転訛と言われますが、どうでしょうか?
また『神名帳考証土代』(1813)にこうあります。
奈疑知(ナキチ)命神社は延喜式神名帳伊豆國賀茂郡に記載される
伊豆國四六座のうちの一座。祭神のナキチノミコト(奈疑知命)は不詳の神で
一説にはオホヤマツミノカミにつながる女性の眷属神ともいわれる。
しかしながら、私は何となく、地主神である以上、本来の土地を離れて
遷座したらおしまい…というか別物になるんじゃないの? と感じています。
いわゆる一ノ宮論争や式内社の論社などにも全く興味が湧きません。
それよりも運転手さんからお聞きした「縄地には金山があった」との情報が重要です。
古来、人は資源のある場所に集まりますので。
縄地から河津に向けて北上し、琴海神社まで数分というところまで来ましたが、
河津川の河口付近に相撲の四十八手の一つ「河津掛け」の考案者として有名な
河津三郎ゆかりの地があるというので立ち寄りました。
おおお…偶像が並んでいます。右は殺された河津三郎の仇討ちをした曽我兄弟ですね?
ここ河津八幡神社は(曽我兄弟の父)河津三郎の館跡地と伝わるそうです。
母親の再婚により曽我を名乗ることになったというのが…。
私には、鳥居の向こうに見える標高180.9mの城山(河津城跡)の方が気になりました。
さ、琴海神社へ向かいます。
駅の真東に位置するこの入り江は古代からの湊だったようです。
見高神社は
この浜は昔、役行者が割石山(今井の浜の北方)にこもり、毎朝この海に入り
斎祓の「みそぎ」を続けました。村人達はそれからこの浜を「斎抜の浜」
土地のなまりで「いみしの浜」「いめしの浜」となり、その徳をうんでいました。
と説明しています。
琴海神社はきっと、このこんもりのてっぺんに鎮座しているのでしょう。
海に向かって鳥居があります。
船着場からそのまま参拝する形の対馬の神社を思い出します。
岩礁の上に建てられたかのようですね…。
かつての御神灯の台座などが並べられています。
これらの残骸がなければ、舟から直進できたはず。
左手の石段を下りて浜辺まで迂回してみます。
この地が自然の良港としての地形を縄文時代から保っていたらしいと感じるのは
約300m離れた河津町立東小学校の校内に縄文式住居が復元されているからです。
再び琴海神社社頭に戻りましょう。まるで漣痕化石ですね…。
当社の前に行った河津八幡神社と同じ河津三郎絡みとの説あり。
安元の昔、伊東祐親の子 河津三郎祐泰が赤沢山で殺されると、
妻は二人の子をつれて相模国の曽我祐信と再婚したそうです。
その時に持参した河津三郎の守り本尊 弁財天が、応永12年(1405) 3月16日
当地に奉還されて琴海神社の御神体になったと伝えられています。
「海中を漂う黒塗りの箱をひろって祀った」と言われています。
もしかすると、そこは、縄文時代に東日本を中心に流通していた
「神津島の黒曜石」の陸揚げ地だったのかもしれません。
その龍王崎とは逆に、
琴海神社は入江の奥にあるので見えませんが、まさしく伊豆大島の手前に見える岬が
恵比寿山の神社まで登る時間がないので、取り敢えず浜辺へ出てみます。
この浜辺の後方には伊豆今井浜東急ホテルが建っており、ここは
ホテルのプライベートビーチのようになっています。
西武側が白浜の土地を買収した結果、下田~河津は山中を走ることになった東急側は
数人のサーファーがいらっしゃるようです。
正面にお誂え向きの岩場が見えました。
岩場に立つと、当地は伊豆諸島との交易における重要な拠点だったはず、と感じます。
ここが今日最後のステージです。
海辺で、海人族のコトを弾き、海人族の歌をうたう。
最高でした!!