何度も同じルートをまわることが多い
と以前書いたことがありますが、今回もまた同じ轍を踏みます。
来る者を拒んでる感があって、演奏修行を申し出る気にはなりませんでした。
今回、調べたところ、御霊神社本宮の祭神は
さらに、御霊神社本宮の、丹生川を挟んだ対岸にある火雷(ほのいかづち)神社の祭神が
この地に幽閉された井上(いかみ)内親王が身籠っていた第三子との伝承があり、
その四柱を合わせて「四所大明神」と称していたとの説が見つかりました。
慰めるために延暦19年(800)に創建されたというのはメルヘンチックに過ぎるかと。
(天武系は持統天皇が腹違いの皇子を粛清したことで? 後継者が居なくなってしまった!?)
この時すでに井上内親王は55歳ですから、第三子妊娠説はいかがなものでしょうか。
幽閉され、宝亀6年(775)4月27日に母子とも没したため毒殺説が根強くあります。
幽閉し、身の潔白を主張する早良親王が絶食して憤死すると淡路島に埋葬しています。
実母の高野新笠(?-790)らを相次いで喪います。
その墓を山陵(宇智陵)と追称するなどしたそうです。
その上で葛井王が霊安寺および御霊神社を創建したとのことです。
現在は宮内庁の管轄です。
ここへの道は、ちょっと心配になるくらい細く、バイクじゃないと来られなかったかも?
そして宇智陵から北へ数分の他戸親王墓への道はもっと険しかった…。
この道を上がりきれるかどうか心配でしたが、左折してみました。
左側が他戸親王墓への参道のようですがバイクでは進めません。
右手の道を上がり、他戸親王墓であることを確認しましたが、
この母子の陵墓はいったいどの方角を向いているのでしょう?
地図を見たら、ともに東南に面しているようです…。
古代人の考え方は理解し難い部分が多いのですけれど、
古代歌謡を学ぶ上では理解しようとする努力が必要となります。
そこで今回は、奈良でバイクをレンタルし、タクシーでは素通りせざるを得なかった
道を走りつつ吉野まで来た次第です。では時間を巻き戻します。
今日は、再びあをによしに乗り、近鉄奈良駅まで行きました。
駅からタクシーでバイク屋さんへ行くと、予約したホンダのバイクが不調とのことで
初めてヤマハ車に乗りましたが、すぐに慣れて快適なバイク旅となりました。
先ずはバイク屋さんから数分の大安寺へ。
前回はこの道を北上して「旧大安寺境内」を見つけたら、右手が御霊神社でした。
南側へは僅か150mながら時間がなく、旧石清水八幡たる八幡神社へ行けませんでした。
この道を南に進むと、大安寺東塔跡が隣接していました。
これだけでも最盛時の大安寺の規模が想像できますね…。
秦楽寺へ向かう途中、突然左手に奇妙な建物が!?
あの建物は当地から出土した土器に描かれた多層式の楼閣を復元したものだそうです。
10分ほどで秦楽寺に着きました。
実際に見てみたいと思って立ち寄ったら、とても興味深い空間でした。
池の蛙がやかましく鳴くので⼤師が叱ったところ、それ以来鳴かなくなった
との伝説は、いったいどんな比喩なのか…を考えています。
この、秦の本拠地の一つから、飛鳥の奥の奥「くつな石」を目指しました。
ずうっとこういう道なら走りやすくて楽勝ですが。
「石舞台古墳」を過ぎて、いったん下ります。
この先の葛神社までタクシーで行った際、次はバイクで来ようと決めました。
↑の画像中央のこんもりに葛神社が鎮座してます。
今日は、この二岐から右方向に急勾配を登ります!
ここを右折するのは、前回タクシーの運転手さんに断られました。
その時、この風景を見て再訪を誓ったのです。さあ、登りますよ。
前方左手に道標があります。あそこから段々畑を右方向に進むんですね。
右手に廻り込んだら、奥へ進む道がありました。
手で開閉する柵の横に、ここから100mと書かれていました。
大雨の直後で坂道がぬかるんでいて滑っても困るし、気が進まなかったものの
今日がラストチャンスかもしれないと思い、登ってみることにしました。
ここまでで既に100m以上歩いた気が…(後で計測したら直線で140mだったので200mはあった?)。
やっと鳥居が見えてきました。
「くつな石」は小さめの磐境で、オススメできる観光地の対極にある感じでした。
苔生した…と言うより、苔玉のような「くつな石」。
では下りるとしましょう。
細いコンクリート橋が見える位置まで来ました。
橋を渡ったら、そそくさと柵に鎖をかけてバイクに乗りました。
古代ヤマトが眼下におさまる絶景ですね…。
葛神社および「くつな石」の登り口には都塚古墳があるし、
古代にはとても重要な地域だったのかもしれません。
↓こちらは登る時に撮った画像。貴重なランドマークです。
ここからひたすら五條市御山町の宇智陵を目指したわけですが、
以前行った「芋峠」のある桜井明日香吉野線ではなく、
これが大きな間違いだったらしく、169号線で吉野川まで南下し、
五條方面へ西進した方が走りやすかったかもしれません。
ナビの指示通りに走ったら、こんな道で、かなり不安になりました。
突然こんな石垣が出現するし!?
この先が薬水駅だったので検索したら、あの石垣の上は変電所跡のようです。
ともかく先を見通せない道なのでスピードを出せず、MapFanやGoogleMapが
出した所要時間(時速30kmで計算)の倍近くかかりました。
それでもこの先、夕映えの田植風景が見られました。
宿泊先は賀名生皇居跡の敷地内の建物を2019年に改築したというホテルです。
十津川行きのバスに乗るたびに眺め、行きたいと思い続けた場所に
泊まれる日が来ようとは…、感無量です。
フルーツロード(?)が見えたので、この先のトンネルを抜けたら直ぐです。
賀名生まで来ました。宿泊棟はこの先のようです。
ちょうど日没時刻の19時に着きました。
川沿いの石垣の上に建っています。
翌朝5時過ぎに、↑あの窓からiPadで撮ってみました↓。
まるでお城の濠に建つ石垣のような石組みを見て、「賀名生=穴生」と穴太衆との
関係を疑いましたが、旧賀名生御所の所有者によれば無関係とのことでした。
この門の前にバイクを停めさせていただきました。
門を入ると正面が重要文化財の母屋で、宿泊棟は右の建物でした。
こちらも翌朝の画像です。
最後に、バイクで乗り入れた19時に驚いて逃げたウリボウ?!
賀名生旧皇居 KANAUの食事はジビエ料理でした。ごめんなさい。
隣接する歴史民俗資料館の案内リーフレットをダウンロードできるとありましたので
以下に添付しました。説明文も引用させていただきます。
脱出し、吉野へと向かいました。この途中で賀名生に滞在しています。
こうして、以後約60年にわたる両朝が対立・抗争する「南北朝時代」が幕を開けました。
賀名生で様子をうかがっていたことが挙げられます。
こうして、わずか数か月のことですが、南朝が唯一の朝廷となり、
賀名生は都になりました(このできごとを「正平の一統」と呼びます)。
その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、
賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。