藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古代人の思考③ 井上内親王(吉野皇后)と吉野

何度も同じルートをまわることが多い
と以前書いたことがありますが、今回もまた同じ轍を踏みます。
久々に読み返すと、「他戸親王墓」と「井上内親王宇智陵」を素通りしてました。
早良親王崇道天皇と同じように、山部親王桓武天皇の支持者に陥れられたとされる
井上内親王母子を怨霊として恐れた桓武天皇はのちに御霊神社などを創建しています。
井上内親王を祀る御霊神社の本宮とされる五條市霊安寺町へも足を運びましたが、
来る者を拒んでる感があって、演奏修行を申し出る気にはなりませんでした。
今回、調べたところ、御霊神社本宮の祭神は
井上内親王他戸親王(井上内親王の第二子)早良親王(桓武天皇の同母弟で、他戸親王の異母兄)
さらに、御霊神社本宮の、丹生川を挟んだ対岸にある火雷(ほのいかづち)神社の祭神が
この地に幽閉された井上(いかみ)内親王が身籠っていた第三子との伝承があり、
その四柱を合わせて「四所大明神」と称していたとの説が見つかりました。
ただし、火雷神社(宇智郡御山村)の社伝、井上内親王宇智郡で産んだとされる雷神を
慰めるために延暦19年(800)に創建されたというのはメルヘンチックに過ぎるかと。
 
井上内親王(717-775)は第45代聖武天皇の第1皇女で、第49代光仁天皇の皇后になりました。
光仁天皇天智天皇の第7皇子 施基(しき)皇子の子で、名前は白壁(しらかべ)王。
天武系の天皇に官人として仕えるも、宝亀元年(770)称徳天皇が没すると62歳で即位。
(天武系は持統天皇が腹違いの皇子を粛清したことで? 後継者が居なくなってしまった!?)
光仁天皇の第4皇子で井上内親王との子 他戸(おさべ)親王が皇太子に立てられましたが、
宝亀3年(772)5月、井上内親王天皇を呪殺しようした罪に問われて廃后および廃太子
この時すでに井上内親王は55歳ですから、第三子妊娠説はいかがなものでしょうか。
 
ともあれ井上内親王は皇太子を廃された他戸親王ともども宝亀4年(773)から宇智郡
幽閉され、宝亀6年(775)4月27日に母子とも没したため毒殺説が根強くあります。
なお、この事件の首謀者は、高野新笠と山部親王推しで
光仁天皇桓武天皇の即位に関わった藤原百川と言われています。
 
他戸親王に代わって皇太子になったのが、光仁天皇第1皇子の山部親王(737-806)でした。
天応元年(781)4月に即位した山部親王(桓武天皇)は同じ百済系の母高野新笠から生まれた弟
早良親王を皇太子に立てるも、延暦4年(785)藤原種継暗殺事件に関与したとして乙訓寺に
幽閉し、身の潔白を主張する早良親王が絶食して憤死すると淡路島に埋葬しています。
 
775年の井上内親王(異母弟)他戸親王の死から10年後に同母弟の早良親王が死ぬと、
桓武天皇は夫人で藤原百川の娘 旅子(759-788)や皇后の藤原乙牟漏(760-790)
実母の高野新笠(?-790)らを相次いで喪います。
それを、自らが死に追いやった弟らの怨念と考えた桓武天皇は、延暦19年(800)
早良親王に「崇道天皇」を追号し、井上内親王を「吉野皇后」として復位させて
その墓を山陵(宇智陵)と追称するなどしたそうです。
日本後紀』は、桓武天皇延暦19年(800)7月に自身の第12皇子 葛井王を宇智郡に派遣し
井上内親王の皇后復位や墓所を山陵と称することを告げたと伝えています。
その上で葛井王が霊安寺および御霊神社を創建したとのことです。
現在は宮内庁の管轄です。
ここへの道は、ちょっと心配になるくらい細く、バイクじゃないと来られなかったかも?
そして宇智陵から北へ数分の他戸親王への道はもっと険しかった…。
この道を上がりきれるかどうか心配でしたが、左折してみました。
左側が他戸親王への参道のようですがバイクでは進めません。
右手の道を上がり、他戸親王であることを確認しましたが、
この母子の陵墓はいったいどの方角を向いているのでしょう?
地図を見たら、ともに東南に面しているようです…。
 
古代人の考え方は理解し難い部分が多いのですけれど、
古代歌謡を学ぶ上では理解しようとする努力が必要となります。
そこで今回は、奈良でバイクをレンタルし、タクシーでは素通りせざるを得なかった
道を走りつつ吉野まで来た次第です。では時間を巻き戻します。
 
今日は、再びあをによしに乗り、近鉄奈良駅まで行きました。
車窓から撮った平城宮跡歴史公園の朱雀門です。
駅からタクシーでバイク屋さんへ行くと、予約したホンダのバイクが不調とのことで
初めてヤマハ車に乗りましたが、すぐに慣れて快適なバイク旅となりました。
 
先ずはバイク屋さんから数分の大安寺へ。
前回はこの道を北上して「旧大安寺境内」を見つけたら、右手が御霊神社でした。
南側へは僅か150mながら時間がなく、旧石清水八幡たる八幡神社へ行けませんでした。
この道を南に進むと、大安寺東塔跡が隣接していました。
これだけでも最盛時の大安寺の規模が想像できますね…。
 
大安寺から南下して、磯城郡田原本町秦庄というモロ秦地名の
秦楽寺へ向かう途中、突然左手に奇妙な建物が!?
この不思議ランドは唐古・鍵遺跡史跡公園(磯城郡田原本町唐古)でした。
あの建物は当地から出土した土器に描かれた多層式の楼閣を復元したものだそうです。
 
10分ほどで秦楽寺に着きました。
秦楽寺秦河勝の創建と言われ、本堂前の「阿字池」は弘法⼤師空海の築造と伝わります。
「阿字池」を囲むように龍王笠縫神社春日神が鎮座している形態が珍しく、
実際に見てみたいと思って立ち寄ったら、とても興味深い空間でした。
池の蛙がやかましく鳴くので⼤師が叱ったところ、それ以来鳴かなくなった
との伝説は、いったいどんな比喩なのか…を考えています。
 
この、秦の本拠地の一つから、飛鳥の奥の奥「くつな石」を目指しました。
ずうっとこういう道なら走りやすくて楽勝ですが。
石舞台古墳」を過ぎて、いったん下ります。
この先の葛神社までタクシーで行った際、次はバイクで来ようと決めました。
↑の画像中央のこんもりに葛神社が鎮座してます。
今日は、この二岐から右方向に急勾配を登ります!
ここを右折するのは、前回タクシーの運転手さんに断られました。
その時、この風景を見て再訪を誓ったのです。さあ、登りますよ。
前方左手に道標があります。あそこから段々畑を右方向に進むんですね。
右手に廻り込んだら、奥へ進む道がありました。
しかし、コンクリート舗装の終着点の先には細いコンクリート製の橋が!?
手で開閉する柵の横に、ここから100mと書かれていました。
大雨の直後で坂道がぬかるんでいて滑っても困るし、気が進まなかったものの
今日がラストチャンスかもしれないと思い、登ってみることにしました。
ここまでで既に100m以上歩いた気が…(後で計測したら直線で140mだったので200mはあった?)
やっと鳥居が見えてきました。
くつな石」は小さめの磐境で、オススメできる観光地の対極にある感じでした。
苔生した…と言うより、苔玉のような「くつな石」。
では下りるとしましょう。
細いコンクリート橋が見える位置まで来ました。
橋を渡ったら、そそくさと柵に鎖をかけてバイクに乗りました。
古代ヤマトが眼下におさまる絶景ですね…。
葛神社および「くつな石」の登り口には都塚古墳があるし、
古代にはとても重要な地域だったのかもしれません。
↓こちらは登る時に撮った画像。貴重なランドマークです。
 
ここからひたすら五條市御山町の宇智陵を目指したわけですが、
以前行った「芋峠」のある桜井明日香吉野線ではなく、
キトラ古墳から壺阪山駅を経て、近鉄吉野線に沿って走りました。
これが大きな間違いだったらしく、169号線で吉野川まで南下し、
五條方面へ西進した方が走りやすかったかもしれません。
ナビの指示通りに走ったら、こんな道で、かなり不安になりました。
突然こんな石垣が出現するし!?
この先が薬水駅だったので検索したら、あの石垣の上は変電所跡のようです。
ともかく先を見通せない道なのでスピードを出せず、MapFanやGoogleMapが
出した所要時間(時速30kmで計算)の倍近くかかりました。
それでもこの先、夕映えの田植風景が見られました。
 
宿泊先は賀名生皇居跡の敷地内の建物を2019年に改築したというホテルです。
十津川行きのバスに乗るたびに眺め、行きたいと思い続けた場所に
泊まれる日が来ようとは…、感無量です。
フルーツロード(?)が見えたので、この先のトンネルを抜けたら直ぐです。
賀名生まで来ました。宿泊棟はこの先のようです。
ちょうど日没時刻の19時に着きました。
川沿いの石垣の上に建っています。
翌朝5時過ぎに、↑あの窓からiPadで撮ってみました↓。
まるでお城の濠に建つ石垣のような石組みを見て、「賀名生=穴生」と穴太衆との
関係を疑いましたが、旧賀名生御所の所有者によれば無関係とのことでした。
この門の前にバイクを停めさせていただきました。
門を入ると正面が重要文化財の母屋で、宿泊棟は右の建物でした。
こちらも翌朝の画像です。
最後に、バイクで乗り入れた19時に驚いて逃げたウリボウ?!
賀名生旧皇居 KANAUの食事はジビエ料理でした。ごめんなさい。
 
隣接する歴史民俗資料館の案内リーフレットをダウンロードできるとありましたので
以下に添付しました。説明文も引用させていただきます。
 
1336年(〈南朝〉延元元年・〈北朝建武3年)後醍醐天皇は、幽閉先の京都・花山院(かざんいん)
脱出し、吉野へと向かいました。この途中で賀名生に滞在しています。
吉野にこもった天皇は、自らが正統の天皇であると主張したことから、
京都(北朝)と吉野(南朝)の二つの朝廷が出現する事態になりました。
こうして、以後約60年にわたる両朝が対立・抗争する「南北朝時代」が幕を開けました。
 
後醍醐天皇賀名生滞在の理由の一つに、真言密教に大きく帰依していた天皇が、
総本山である高野山金剛峯寺への行幸(ぎょうこう)を強く願い、それがかなわない場合に
吉野山金峯山寺へと向かう計画のため、高野山吉野山のほぼ中間地点に位置する
賀名生で様子をうかがっていたことが挙げられます。
 
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、1348年(正平3年・貞和4年)
南朝の本拠地の吉野山焼き討ちにあうと、賀名生に行宮(あんぐう)を定めました。
それから間もない1351年(正平6年・観応2年)北朝天皇を擁立した足利尊氏が、
一時的に南朝に降伏し北朝天皇は廃されます。
こうして、わずか数か月のことですが、南朝が唯一の朝廷となり、
賀名生は都になりました(このできごとを「正平の一統」と呼びます)
その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、
賀名生南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。