藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古代人の思考④ 犬戎・穴生・穴師など

今日最初の訪問地は、賀名生旧皇居からバイクで2分走った丹生神社
吉野は丹生神社だらけですが、ここは丹生川と大日川(おびがわ)の合流点ゆえ
特別に「大日川丹生神社」と呼ばれているようです。
画像右手の丹生川沿いに168号線を走ってきました。
画像左手を大日川が流れています。
大日川が丹生川に合流するタイトな二俣に鎮座しています。
御神木の巨きな公孫樹からも、歴史の古さを感じます。
本殿への石段が非常に長く険しいことでも有名です。
地形にしか興味のない私は当然ながら登りません。
さ、再び丹生川沿いの168号線へ戻ります。
幾度も十津川村へバスで向かった道をバイクで走れるなんて最高です。
走り始めてすぐ、「ここは黒渕です」「黒木御所跡 0.8km」の案内板が目に入り、
隠岐後醍醐天皇の「黒木御所跡」へ行った記憶が蘇りました。
「黒木」とは、「白木」や「赤木」のような製材過程を経ていない、皮が付いたままの
自然に近い木材を指すことから、戦時や政変時の天皇の行宮を「黒木御所」と
称ぶことがあるらしく、それへの興味を抑え切れず寄り道してしまいました。
ほどなく「黒木御所 100m」の小さな案内板を見つけましたが、100mはあやしい…。
バイクで入れそうにもないし、狭い道に駐輪して歩くのも憚られます。
無駄足になってしまいましたが、先の曲がり角から丹生川が見えたので撮りました。
帰宅後調べたら、そこは「南朝三帝 黒木之御所趾」の石碑のみがある春日神でした。
かつては水運に頼るところが大きかったので、賀名生旧皇居も「黒木之御所趾」も
丹生川沿いに位置していたことを確認できてよかったです。
 
再び168号線へ戻り、城戸の交差点を左折しようとしたら「玉置山」方面の文字が
目に飛び込んできて、思わず「行きたい!」と(心の中で)叫びましたが、渋々左折…。
20号線で吉野川沿いの下市を目指し、そこから五條吉野線で飯貝まで行きます。
現在の読みが「イイガイ」なので、かつての表記は「いひかひ」でしょう。
ここを『古事記』の「井氷鹿(ヰヒカ)」、『日本書紀』の「井光(ヰヒカ)」にあてて
「井光の井戸」の伝承地とする説があり、水分(みくまり)神社があるというのです。
 
從其地幸行者。生尾人自井出來。其井有光。爾問汝誰也。答曰僕者國神。名謂井氷鹿
此者吉野首等祖也】。
 
古事記』の非常に有名な一節ですね。
そこより御幸すれば、尾のある人、井戸より出で来たりき。その井に光あり。
「汝は誰ぞ」と問へば、「われは国つ神、名を井氷鹿(ゐひか)といふ」と答へ申しき。
【これは吉野首(よしののおびと)らの祖なり】。
 
従来より議論されてきたのは「尾の生えた人」の解釈です。
中には、古代中国の北西部の辺境に犬を先祖とする「犬戎(けんじゅう)という部族がいて
その人々が住みついたとする説までありましたが、私はこれを比喩と考えています。
 
古代中国において、中華を囲むように四方に居住していた異民族に対する蔑称に
四夷(しゐ)あるいは夷狄(ゐてき)がありました。
四夷とは即ち、東夷、北狄(ほくてき)、西夷=西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)のこと。
「犬戎」は西戎とも呼ばれ、実体は遊牧民で、殷王朝の頃から存在を認められていました。
古代の日本で朝廷にまつろわぬ先住民を蝦夷と呼び、蝦夷地を平らげる征夷大将軍
任命したのは、漢文のできる史(書記)らが中国の四夷や夷狄を知っていたからでしょう。
 
よって「尾のある人」というのは、実際に尾があったわけではなく、
まだ朝廷の支配下に入っていない反対勢力や荒ぶる人々を指していると考えます。
「天つ神」に対して「国つ神」と答えていることもヒントになるでしょう。
 
また、吉野が古くから知られた水銀鉱産地であったことは「丹生」地名や丹生神社が
多数認められることでも明らかです。丹生とは辰砂の別名で、丹砂、朱砂も同じです。
「井戸より出で来たりき。その井に光あり」の「井」はまさしく採掘抗でしょう。
「穴生」の地名も、井戸から出て来た人や採掘抗からの産物をイメージさせます。
 
もしかすると、古代には鉱山での作業に従事する人々を「犬戎」や「犬」に
譬えることがあったのではないかと思える話がもう一つ思い浮かびます。
『今昔物語』第11巻 第25、弘法大師空海が高野(狩場)明神と出会う話です。
弘仁7年(816)嵯峨天皇より高野山を賜って開創に至る開山伝説ですが、
空海真言密教の修行および布教に適した地を探すため、唐から帰国する際に
投げた「三鈷杵」の落ちた場所を探しに出立すると、まさに大和国宇智ノ郡で
大小二匹の黒い犬(或いは白黒二匹の犬)を連れた猟師に出会ったというのです。
金や水銀などの鉱脈を探し求めて山を歩き回る民は、ある時は修験者として、
ある時は猟師として犬を伴なっているとの説がありますが、この時は
高野山地主神「丹生津姫命」の眷属「狩場大明神」として現われたわけです。
こうした伝説の背景にあるのが『古事記』や『日本書紀』の
「尾のある人」という表現ではないかと思われます。
 
20号線(下市宗桧線)をひたすら北上。
トンネルを抜けると視界が広がりました。
あとは吉野川まで下って右折し、吉野神宮駅を目指します。
あの鳥居をくぐって左折したら、2分ほどで「井光の井戸」の伝承地入り口です。
はたしてバイクで水分神社まで登れるでしょうか?
「ここを右折」と言われて見たら、鳥居がありました。
ほどなく急勾配になりましたが、駐輪スペースはありません。
徒歩で往復すると小一時間はかかりそう…(奈良まで走らねばならない私には時間がありません)
何とか二ノ鳥居まで来ました。ここが写真で確認していた難所です。
左側は断崖絶壁なので、ここに駐輪することも考えましたが、バイクなら通れそう。
再び道幅が広くなり、建物らしきものが見えてきました。
人工的建造物には興味がないので、これ以上は近づいていません。
右の建物が井戸の覆屋のような気もしますが…未確認。
ヤマハのバイク、急勾配をものともせず、よく走ってくれました。
それにしても下りが心配ですが、ブレーキは大丈夫ですよね。
この難所は、谷を見ると怖いので、コンクリート部分だけを見て通過しました!!
なぜ鳥居の前後にだけ段差をつけているのでしょう…?
ブレーキもよく利いて快調でした。またこのバイクを借りて吉野を走りたいものです。
吉野川を渡ったら一路「桜井」を目指します。
吉野はタクシーだと入れない場所が多いので、小回りの利くバイクは最高でした。
吉野川の浜と言えば、雄略天皇が吉野宮へ行く時に出会った童女の話がありました。
美麗な童女を気に入り、結婚してから宮に帰った天皇は、再び吉野へ行った時、
その童女と出会った場所に大御呉床(胡坐を組んで座る台)を立てて座り、自ら琴を弾いて
童女を舞わせました。すると、とても上手く踊ったので歌を詠みました。
 
阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾 麻比須流袁美那 登許余爾母加母
呉床居(あぐらゐ)の 神の御手持ち 弾く琴に 舞ひする女(おみな) 常世(とこよ)にもかも
 
この歌で、童女が永遠に若いままだといいなぁ…などと嘯いたのは、当然ながら
引田の赤猪子との歌のやりとりを受けてのことでしょう。
大和美和河(三輪川)行幸した雄略天皇に「宮中に迎えるから嫁がずに居れ」と言われた
少女が、放置されたまま老いたため、「80歳を過ぎた今、老いた身で入内しようとは
思わぬけれど、待ち続けた思いを伝えたい」と結納の品々を携えて皇居を訪ねたら、
事情を知った天皇が驚いて、今さら結婚できないので代わりに歌を送ったという話。
 
あの標識によれば、直進は「大宇陀」、左側が「桜井」方面のようです。
2003年9月17日に開通した、迫力満点の新鹿路(しんろくろ)トンネル(2,466m)を通って
三輪山が見える所まで来ました。あの三輪山の南麓に引田の赤猪子の神社があります。
 
おっと、ここは相撲神社でした。相撲だから渡来系ということでしょうか?
京終(きょうばて)へ向かう道すがら穴師坐兵主神社を探していたら
穴師の「景行天皇纒向日代宮跡」の隣に相撲神社がありました。
「穴師」は「穴生」つながりを疑って来てみたのに、渡来系だったんでしょうか?
井戸から出てきた人や鉱物の象徴が「穴生」なら、「穴師」は採掘・精錬に携わる
プロフェッショナルを指すのではないかと妄想し、国つ神のプロ集団が列島各地の
鉱山や精錬所に派遣されたり散って行ったりしたのではないかと想像していたのですが。
ここ「穴師」からは、松阪へ移動した人々も居たようです。
しかし「景行天皇纒向日代宮跡」がある以上、ここは朝廷の支配下にあったわけです。
この辺は古墳が多く、それらの全てを渡来系のものと言うことはできないと思いますが。
ここは「纏向遺跡」からも近く、天皇の勢力圏にあったことは間違いないでしょう。
この道をもう少し登ってみます。
鎮魂ノ儀で奏上される「穴師の山」とは、ここの奥山かと期待して来ました。
(以下の歌詞および表記は伝承により相違あり)
天地(あめつち)に来ゆらかすはさゆらかす 神はかも神こそは きねきかう きゆらならば
石上(いそのかみ)ふる社(やしろ)の太刀もかと願ふその児にその奉る
猟夫(さつを)らが持有木(もたき)の真弓 奥山に御狩すらしも 弓のはず見ゆ
のぼり坐(ま)す豊日孁(とよひるめ)が御魂欲す 本(もと)金矛(すゑ)は木矛
三輪山に在り立てる ちかさを今栄えでは いつか栄えむ
吾妹子(わぎもこ)穴師の山の山のもと 人も見るかに深山(みやま)かづらせよ
魂筥(たまはこ)に木綿(ゆふ)とりしでて たまちとらせよ
御魂上(みたまが)り魂上(たまが)りましし神は今ぞ来ませる
御魂上り去坐(いまし)し神は今ぞ来ませる 魂筥持ちて去りゆく御魂 魂返しすなや
 
相撲神社の先に鳥居がありました。バイクで進めるところまで行ってみます。
ここが社頭のようです。が、石段があるので右の道を進みます。
ほどなく境内社らしきものがあり、左下に社殿らしきものが見えてきました。
車を返せない道なので、ナビが最奥まで行かせるつもりだと気づきましたが、
言われるままにこの先の急勾配を200m登り、行き止まりから引き返しました。
行き止まりには眺望も何もありませんでした。
社殿が見える所まで歩いて撮影したら、鳥居から左に曲がった位置にありました。
鳥居の真正面に社殿が無い神社は祭神が変わっていると言われるのは本当でしょうか?
当社の御神体山が、古代タタラ製鉄で知られた穴師山ならば、
鳥居→社殿→穴師山が一直線になり、社殿の前に立つと穴師山を遥拝できるはずです。
どこへ行っても現状から往古の祭祀を想像するのは困難を極めるため
こうした地形を確認するしか手掛かりはありません…。
この下の「纏向(まきむく)日代宮(ひしろのみや)伝承地」の案内板に
日本書紀』に景行天皇が九州の日向の国で詠まれた歌として
大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美し
が掲載された画像を先にupしていますが、帰途、この風景を見た時、
自然に伊福部先生が作曲されたメロディーでこの和歌を歌っていました。
それだけで来た甲斐がありました。
 
ここからは、石上神宮早良親王崇道天皇八嶋陵の横を北上して京終へ。
桓武天皇延暦19年(800)に奈良の町の南の出入り口に創建した
上つ道を守る奈良市西紀寺町の崇道天皇社です。
中つ道の薬師寺堂町にある井上御霊社も探してみます。
いずれも車一台がやっと通れる道幅なので駐輪はできません。
これで桓武天皇由来の怨霊をめぐるシリーズは終われそうですかね?
 
ここから約1分のバイク屋さんにバイクを返し、前回と同じあをによしに乗って
京都まで行き、前回と同じのぞみに乗って無事に帰宅できました。
バイク旅の無事を祈って下さり、ありがとうございました。