藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

兜跋(とばつ)毘沙門天

坂上田村麻呂田沢湖周辺を訪れたかどうか…はわかりません。
けれど、せっかく来たので、ゆかりのありそうな場所へは行っておきたい。
ということで、「こまち」で帰途に就く前に田沢湖駅周辺を走ってみることに。
 
先ずは昨日の続きで「辰子」姫関連…。
ホテルの近くに「姫塚公園」なるものがありました。
9時に予約したタクシーの運転手さんに「姫塚公園まで」と伝えると
「あそこはトイレしかありませんよ」と言ったきり動いてくれません。
「一応調べて来てますので、ともかく向かって下さい」とお願いしました。
すると、公道の脇、トイレの手前に↓こちらが設置されていました。
平将門(903-940)の娘 瀧夜叉姫が当地へ落ち延びて来て村祖になったとの説や
将門と辰子の娘を瀧夜叉姫とする伝説などがあるようです。
ま、将門が当地に足を運んだかどうかは確認できないでしょうけれど
誰が、何のために、瀧夜叉姫伝説を創り上げたかに興味があります。
何しろ、ここ田沢湖東畔にある姫塚は北緯39.72に位置し、
昨日行った田沢湖西畔の明神堂(古称 浮木の宮)と同緯度なのですから。
駐車場の向こうの道に入りました。この先は一段低くなっています。
道の左手に四阿がありました。公園と謳ってますので、一応ベンチも。
そして道の右手、この真後ろに姫塚がありました。
蜘蛛窟っぽい雰囲気…、田沢湖畔で平和に暮らしていた先住民が
朝廷軍に平らげられた可能性は十分ありそうな感じですが…?
駐車場へ引き返そうとしたらタクシーが見えていました。
書いてあった通り、入り口の標柱から100mほどの距離でした。
 
田沢湖駅方面へと南下する道すがら、(なか?)生保内(おぼない)神社がありました。
瀧夜叉姫伝説のある愛宕神社大山祇神社が合祀されています。
窓を開けて1枚撮っただけで田沢湖駅南方面へ急ぎました。
瀧夜叉姫関連の過去ブログはこちら↓
 
藍婆王神社 (田沢湖生保内大谷地8)
藍婆王」って何なんですか?!
実は、この名称への疑問が私を田沢湖へ向かわせました。
私としては初めて見た社名だったのに、地図を確認したら
横手市大森町上溝下久保に藍婆神社
青森県三戸郡階上町道仏上桑木窪に藍婆天神がありました。
…これは、知らないと恥ずかしいかも? と調べ始めたわけです。
 
藍婆」とは仏教において普賢菩薩の眷属とされる十羅刹女の一人。
サンスクリット語 : Lambhā (ランバー)
古代、日本人は漢字を現代のように意味を考慮して使ったわけではなく、
発音記号的に使われた側面が大きかったようです。
要するに、「ランバー」の当て字が「藍婆」でした。
 
その「藍婆」は、「兜跋毘沙門天立像」に刻まれているらしい…。
↑ は国宝に指定された教王護国寺(東寺)の「兜跋毘沙門天立像」で、
かつて(朱雀大路の南端)羅城門の楼上に安置されていたと言われています。
それは西域の兜跋国に出現した毘沙門天が王城鎮護のため城門に安置されたとの
伝承に基づくもので、「兜跋」は現在のトゥルファンを指すとの説があります。
ただし近年は毘沙門天がもつ宝塔(ストゥーパ)に由来するとの見方もあるようです。
6~7世紀に中央アジアで生まれた「兜跋毘沙門天立像」は、
ホータンから唐に伝わって流行したとも言われます。
 
この東寺像の特徴は、五面ある宝冠を被った西域風の顔立ちにあり、
大きくつり上がった眼の黒目部分には鉱物が埋め込まれています。
鎖を編んだ外套状の金鎖甲(きんさこう)という西域的な防具を着け、
藍婆(にらんば)毘藍婆(びらんば)を従えた地天女(ちてんにょ)
差し出した両手の上に立っています。
材質は中国産の桜で、中国・唐代の作と考えられてきたとのこと。
 
やっと「藍婆」の実態がわかりました。
法華経陀羅尼品に登場する十羅刹女(じゅうらせつにょ)
1. 藍婆(らんば)ランバー
2. 毘藍婆(びらんば)ヴィランバー
3. 曲歯(こくし)クータダンティー
4. 華歯(けし)プシュパダンティー
5. 黒歯(こくし)マクタダンティー
6. 多髪(たほつ)ケーシニー
7. 無厭足(むえんぞく)アチャラー
8. 持瓔珞(じようらく)マーラーダーリー
9. 皐諦(こうたい)クンティー
10. 奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ)サルヴァサットヴォージョーハーリー
 
東北には日本一の高さ(4.73m)を誇る、ケヤキ一木造りの「兜跋毘沙門天像」があるとか。
延暦21年(802)に造陸奥国胆沢城使として派遣された坂上田村麻呂
紀伊熊野三山に戦勝祈願して蝦夷を平定できたことで、熊野三神を勧請して
現在の花巻市に建立した三熊野神社に「成島毘沙門堂」が設置されています。
平安中期の作で、ランバー&ヴィランバーを踏みつける形の東寺像とは違い、
地天女ひとりが毘沙門天を支え、両脇に藍婆毘藍婆の座像が置かれています。
 
妄想を逞しくするなら、
西域の兜跋国に王城鎮護のため城門に安置される形で出現した毘沙門天を、
平安時代朱雀大路の南端を守護する羅城門の楼上に安置した前例に倣い、
征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」たる
坂上田村麻呂が、蝦夷との最前線に王城鎮護の「兜跋毘沙門天像」を置いて、
これから征服する蝦夷地を王城と見立て、その城門とせむとの決意表明だった?
 
花巻の「成島毘沙門堂」からの距離は
田沢湖藍婆王神社が北東に54km、横手市藍婆神社が真西に70km。
蝦夷征討の最前線を出羽・陸奥両国とも北緯39.3度に設定したかのように見えます。
 
田沢湖畔に毘沙門堂は見当たらず、単に小さな藍婆王神社があっただけですが。
こんな小さな情報を拾い集めることしかできなくても、これ無しには
古代の姿や古代人の思考のヒントは見えてきません。
 
藍婆王神社から更に南下して、四柱神社を探すも、地図上に道がありません。
こういう時は直感のみで「あの未舗装の砂利道があやしい」となりますが、
そこは運転手さんが悪路を走って下さるかどうかにかかっています。
今日も曇りの予報でしたが、昨日と同様、きれいな青空が広がっています。
「行きましょう!」と運転手さんが仰って下さいました。
「鳥居が見えましたよ」
運転手さんの決断のお蔭で、あっけなく社頭に着きました。
社頭から右手を見ると、馬を集結させた砦じゃなかったのかとの妄想が!?
左手へ続く道からも馬場を連想しました。
当社も「718年創建」を謳っているため、蝦夷征討軍の拠点の一つだった可能性を
疑って来てみたわけですが、たぶん、当たり…かな?
だって、「荒脛巾(アラハバキ)太郎」ですよ!?
「太郎」って何やねん…。
アラハバキって、縄文の女神じゃなかったの??
私は由緒書にある内容を読み替えて、先住民の祭祀の拠点を朝廷軍が奪い、
祭神を朝廷御用達の四神に差し替えたと独断的且つわかりやすく解釈しました。
アラハバキの縄文パワーはまだ残っているでしょうか?
画像右端の「荒覇吐太郎権現 遷座式記念(?)」の標柱を見るために近寄ったら
「供養塔」の右に「故 安倍晋太郎氏 婦人 洋子氏 記念植樹」の標柱がありました。
御子息 安倍晋三国葬の日に、いかなる暗示?!
 
最後に田沢湖駅近くの生保内(おぼない)神社へ。
一ノ鳥居は生保内神社、ニノ鳥居は八幡宮
創建はやはり718年(養老2年正月聖武天皇勅命に依り創立)とされていますが、
古代はどんな社名だったのでしょう?
明治以降は、明治44年6月8日に掛樋神社、道及神社、
同年11月29日に八幡神社、白籏神社、熊野神社、山神社、水沢神社、
翌45年7月12日に磯前神社、
大正2年3月12日水波能売神社、駒形神社、国見神社
を合祀!?
 
なお、「生保内」は江戸時代に記録がある地名で、アイヌ語地名ではないかと。
「小保内」「遠保内」「音保内」「産内」などの表記があり、ウブナイの発音も。
「ナイ」はアイヌ語で「沢」の意味なので、「オボナイ」は生保内川周辺の
「沢」のある地形を表わした地名だったのかもしれません。
 
ますます縄文遺跡へ行ってみたくなった旅でした。