前回、梨を買いに行った帰りに石尊阿夫利神社へ立ち寄ったことで
その中腹に「八束脛」遺跡を見つけた瞬間、目が釘付けに!!
「古老曰く、昔、土地の言葉で都知久母(ツチクモ)または夜都賀波岐(ヤツカハギ)と
いふ国巣(クズ)が居り、その国巣に山の佐伯・野の佐伯がいた」
なぜこのような蔑称をつけられて、縄文時代から生活していた土地を
一方的に追われなくてはならなかったのでしょうか。
これは期待が膨らむ画像ですが、ルビの「やつはぎ」は無いでしょう。
八束脛洞窟遺跡への行き方を検索し、さまざまなブログを読むと
「藪道を進むとやがて登山道らしくなり、しばらく登ると長い石段の下に出る」
と書いてあって、とても一人で到達できるとは思えなくなりました…。
ただ、八束脛洞窟遺跡の西2kmほどの利根川沿いに
縄文時代(3,500~2,300年前)の「矢瀬遺跡」「梨の木平敷石住居跡」があり、そこから
北へ1kmほどの深沢から縄文後期の「深沢遺跡配石遺構」が見つかっているとわかり
足を運んでも空振りには終わらないような気がしました。
ともかく、八束脛洞窟遺跡へは行けそうにないと判断し、古書店で
1999~2000年にかけて開催された『新弥生紀行』展の図録(朝日新聞社)を購入。
八束脛洞窟遺跡は東日本における「再葬」を考える上で重視されているとわかりました。
再葬のプロセス (『新弥生紀行』166頁)
「八束脛遺跡は岩陰から何十体分もの焼けた人骨が大量に出土した。
それらにはねじれたものが多く、骨に軟部がついている際に焼いたことを物語る。
また、骨に刃物の傷跡のあるものがあり、しばしば一緒に出土する剥片石器が
解体具だとする意見もある。したがって、遺体は土中、あるいは岩陰で
さらすようにして骨にされたが、まだ肉がついている状態でも一定の時期が
おとずれると掘り出し、解体して再埋葬したのだろう。」
(『新弥生紀行』166頁)
再葬のプロセスがわかりやすくまとめられています。
が、私の目は、歯のペンダントから離れなくなりました。
縄文時代に抜歯の風習があったことを知ってはいても、
歯をアクセサリーとして首にかけていたとは想像できませんでした。
『新弥生紀行』175頁にこうありました。
「八束脛岩陰で、歯や手の骨に穿孔してペンダントとした例が
18点見つかったのも、再葬儀礼が執行されたあとに祖先となる死者との
つながりを共有するための装身具として用いられたに違いない。」
縄文時代から受け継いだ習俗についても書かれています。
出先でざっと開いて撮影したため読みづらく申し訳ありません。
弥生時代の墓制にかなり変遷があった点も気になります。
やはり渡来系氏族の流入があったのでしょうか?
のちの、朝廷の東征に関して言えば、鉱山があったことが大きいでしょう。
沼田市石墨町に戸神山があり、同経度の中腹に戸神山金山跡、
ただし、ヤマレコなどに「戸神山=石尊山」と書かれていて戸惑いました。
標高は「戸神山」が771.6m、「石尊山」が751.6m、そもそも住所が
「みなかみ町」と「石墨町」で、山頂は直線で4.88km離れています。
「地元では戸神山が石尊山と呼ばれている」と書かれていますが、
沼田市在住の運転手さんは、そもそも「石尊山」を知らないとのこと!?
おおよその場所を指差すと、「あれは三峰山ですよ」と仰います。
山の輪郭がはっきり見えません。
運転手さんは「石尊山」どころか、八束脛洞窟遺跡もご存知ありませんでした。
先ずは金山跡のある「戸神山」へ向かいます。
「戸神山」はピラミッド山として「ぐんま百名山」にも選ばれています。
「戸神山、戸上山、十日見山」とも表記されていたそうです。
いずれもピラミッド山として知られた御神体山なのだとか。
「あ、あれが戸神山じゃありませんか?」
沼田市の戸神山にある鉱山跡コースは「鎖やロープあり」とのことで、
虚空蔵菩薩堂までで失礼しようと思ったら、結構な石段がありました。
先が見えませんが、ここで失礼するというわけにはいきませんよね…。
一応 GoogleMap には車が通れるとして、この道が出ていました。
でも運転手さんに断られてしまい、徒歩で登ってます…。
車が通れたはずの道は、石段を軸にジグザグになっていて、ここは右方向へ上ります。
おおお…これを期待して来ました!
同経度なので、絶対に御神体山が背後に見えるはず。
そして、こちら「丑」と「寅」で一組の狛犬(?)を楽しみに来ました。
右側に「狛丑」? 左側に「狛寅」?
彼らはどこに睨みをきかせているんでしょう?
「狛寅」ちゃんを後ろから撮ってみました。
彼らが構えている(或いは遥拝している?)のはこの方角です。
運転手さんに訊いたら「子持山(1,296m)」でした。
行ってますね、6年前…。すると、ここへ来るのにずいぶん時間を要しました。
大乗院はもともと子持御前と日本武尊の2種類の縁起を持っていたけれど、
縁起を採用し、他の吾妻七社との差別化を図るべく宣伝していったそうです。
戸神山と子持山の関係について私は未だ何もわかっていません。
この字は「虚空蔵」でよろしいでしょうか?
石段下の駐車場には「天台宗戸神山神宮院清樂寺跡」の碑がありました。
宗教に疎いので、子持山との関係を含め、追々調べます。
はい、こちらが堂宇の左手にある先ほどの道路の終着点です。
これじゃあタクシーの運転手さんが行きたくないと仰るのは当然ですね…。
では自力でそろそろと下り始めましょう。
登りの時には気づきませんでしたが、子持山に向かって下りてゆきます。
ここ「石墨」地区が古代から発展していた証拠が、この戸神山以外にもありました。
あり、国の「天然記念物」に指定されてるそうですよ。東に見えるのは戸神山。
あれま?! 防虫ネットがかけられています。
しかしクワの木ってこんなに大きくなるものなんですか?
「石墨」は、絹のふるさとと金山を擁する非常に重要な地域だったとわかりました。
すると、この地を拠点としていた氏族の祖神は?
へ? これが石墨(せきぼく)大神宮ですって?
大神宮とは恐れ入りますが、今や鳥居までの参道すらありません。
左手の黒っぽい建物は観光トイレで、トイレ休憩の場所として探しておきました。
境内地はとうに売り払われてしまったようで、
大クワとの間にも民家があるため迂回しなくてはなりません。
祭神すらわからない大神宮は、大クワ見学者のための駐車場と化していました。
さて、いよいよ八束脛洞窟遺跡の入り口を探しに行きます。
地図に無いため、勘だけで走って貰ったら着きました!!
入り口の草はきれいに刈られてますね。
「神社まで徒歩 往復約一時間程度」とあります。
タクシーの台数が少ない地域では、たとえ待ち時間の料金を払うと言っても
一時間待ちとなると「また電話して下さい」と、帰ってしまわれかねません。
それで演奏修行後に電話すると「実車中なので行けません」と言われたり…。
登山道が整備されても八束脛洞窟遺跡まで行くのは厳しそう…と考えつつ
山頂付近を見上げたら、洞窟らしきものが見えるではありませんか!?
「あれですよね?」 思わず車内の運転手さんに叫んでいました。
初めて来たという運転手さんも、「あれでしょうね」と仰います。
登れなくても来てよかった…と思いました。
運転手さんが「大クワも見られたし、良かったですね」と仰るので
「大クワの百倍は感動しました」と子供じみたことを言ってしまいました。
穴切(あなぎれ)集落を離れ、公道に出てから「石尊山」を振り返ると
さっきより低い位置まで洞窟が見えたのに、焦点が合わず残念でした。
とはいえ「石尊山」も見られたし、今日の主目的は果たせました。
あとは特徴のありそうな神社を幾つか廻り、上毛高原駅前の
村主(すぐり)八幡神社と地図にありました。
けれど、運転手さんは「すぐり神社ですね」と仰います。
たしかに「村主の大欅」とあります。
「八幡」はいくさ神なので、いつの頃にか被さったのでしょう。
しかし、神紋が五三の桐なのですが…?
この大欅だけが、いにしえからの歴史を物語ってくれてます。
みなかみ町上牧に子持神社があるというので行ってみました。
運転手さん曰く「前は巨木があったのに、いつの間にか伐られてたんですよ」。
「うわっ、これですか…!?」「伐って売ったんだと思いますよ」
みなかみ町は、この上牧あたりから雪が多くなるそうで
見たこともないような凄い(二人羽織みたいな!?)覆屋が建っていました。
扁額は「正一位子持大明神」なので稲荷かもしれませんが、由緒を撮ってきました。
縁起を採用したとあったので、当社の創立が860年代だとしたら、当初の祭神は
子持明神で、途中で祭神が変わった可能性もありそうです。
帰り際、この狛犬(?!)を見て、ド胆を抜かれました!!
一角獣ですか? あなた、オニでしょ?!
実は今日もう一つのテーマが"大峰"で、ここから利根川を渡って北上した
みなかみ町「小仁田」に大峰神社があるのです。
この「小仁田」は今は「コニタ」と発音されますが、「オニタ」じゃなかったのか
と疑って来ました。現に、近くに「大峰山」「大峰沼」があるにも拘わらず、
コニタの大峰神社のみ「オオミネ」ではなく「ダイボー」と発音されるので。
「ダイボー」の発音は製鉄製銅に関わる人々の代名詞とも言われる
「ダイダラボッチ」を指すとの伝承が列島各地にあります。
「姦(かだましき)鬼を攘(はら)へ」との言葉が使われているため、朝廷側が
「オニ」と呼んだことは明らかで、大牧の子持神社がそういう「オニ」の
居住区だったとしたら、狛犬に角があってもおかしくありませんよね?
かつては山の裾野に近い場所で樹木に覆われていたと思われますが、
今は右端のガードレールの下が関越自動車道の水上料金所で、
1985年(昭和60年)10月2日の使用開始に先駆けて道路がつけられたようです。
社殿に向かって真西に約4kmの距離に吾妻耶山、西南西に約4kmの距離に大峰山。
当社の位置づけはその里宮だったのかも知れません。
有り難いことに由緒書があり、当社の奥宮が現吾妻耶神社とわかりました。
この案内板は実に多くの情報をもたらしてくれます。
地図上の名称大峰神社に対し、鳥居の扁額は大峯宮、社殿の扁額は大峯神社でした。
それよりも気になったのは鳥居も社殿も南面していて、
疑問を抱えたまま帰ろうとしたら、ここにも立派な神楽殿がありました。
当地には大峯修験よりも伊勢神道の方が浸透しているようですね。
上毛高原駅へ引き返す途中の小川地区にある小川神社(まさか「コガワ」と発音?)にも
階段を上って振り返ると…
当社も関越自動車道に隣接していました。
たしかに神楽殿はありました。が、社殿がありません。
運転手さんも驚いていて、訳が分からぬまま退散しました。
あら?! 角? 初めてお目にかかりますが、どなたでしょうか?
もしかして、ニホンカモシカのお子さんですか?
展示はテンコ盛り!? ですが、私には本物なのかレプリカなのかわかりませんでした。
これは本物だと信じたい、お目当ての歯と骨です。
隣接する縄文の矢瀬遺跡からの出土品が並んでいます。
縄文の矢瀬遺跡から出た耳飾りです。
そして私の大好きな土偶。
まだまだ沢山ありましたが、この地域なら掘れば出てきそうですね。
本来なら片っ端から遺跡をまわりたいのですが、
拙宅から2時間かからないため宿泊許可は得られませんでした。
小仁田の大峰神社も、小川の小川神社も、広大な空き地に隣接していました。
見た目だけでは何もわかりませんので、もう少し調べてから行くべきでした。
歴史資料館を出たら、目の前に「石尊山」。奥が三峰山です。
取り敢えず、上毛高原駅への道すがら「深沢遺跡配石遺構」を撮りました。
ここから1㎞北の深沢で出土した配石遺構を移して再現したそうです。
約3,500年前(縄文時代後期)の集団墓地の跡で、形の異なる石(墓)が配されています。
道路の反対側には「梨の木平敷石住居跡」がありました。
縄文時代中期の住居跡で、囲炉裏を中心に平板な石がきれいに敷き詰められているとか。
1977年(昭和52年)に県指定史跡となり、2003年(平成15年)に覆屋が整備されたそうです。
扉を開けたら中は真っ暗。ガラス越しに撮った下の画像の中央が囲炉裏ですね。
ガラス張りの周囲にL字型に解説が並べられていました。そのうちの一枚↓。
以上の施設は全て無人でした。日曜日なのに、
施設の方も、観光客の方も居られませんでした。
お蔭さまで一人でゆっくり拝見できました。
ものすごく重かったのですが、無農薬の完熟りんごを買いました。
タクシーで走っている時に見たりんごが真っ赤で本当に美味しそうだったんです。
それが無農薬で栽培されていたとは有り難い限りです。
乾燥「まいたけ」と「きくらげ」も便利に使わせて頂きます。
タクシーで3時間、拝観が30分の短い滞在でしたが、
己の勉強不足を知る良い機会になりました。感謝いたします。