藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

四たび「伊富岐神社」へ

伊吹山とその周辺に鎮座するイブキ神社を幾つも訪問しました。
伊吹山はその名称からイブキ氏の本貫の地と考えることができ、
中でも古代藍川郷に鎮座する美濃国二宮伊富岐神社へは三たび足を運びました。
(藍川にとっても当地が本貫の地ゆえ)
今回は京都からの帰途、新幹線で米原へ移動し、
伊吹山南麓から岐阜羽島駅までをタクシーで走りました。
おお…伊吹山が見えて来ました!! 伊富岐神社へは四度目の訪問となります。
 
先ずは、千福神社(米原市高番124)です。
往古の社名はわかりませんが、「せんフク」であれ「ちフク」であれ
「イ・フク」「イ・フキ」氏との関連が疑われます。
しかし、それよりも興味をひかれたのは「高番」の地名でした。
「タカ」の枕詞は「薦枕」で、海人族の祭祀と深く関わっています。
また、これまでの印象ではスカ・ソカ・サカといった氏族が
祖神としてスサノヲを祀った神社が多いように感じてきました。
そして当社の祭神もズバリ素盞鳴尊
ただし当社の「タカ」は、「倭姫命が神鏡を奉じてしばらくこの地に留まった
ことから、高座(たかみくら)の意により高番の地名が生まれた」とされています。
とはいえ"倭姫の「元伊勢巡幸」伝説"には諸説あり、いまや物語と見做されている上、
当地は以下の『皇大神宮儀式帳』(延暦年間)に含まれていないため、
祭神の素盞鳴尊に関わるスカ・ソカ・サカ氏の居住区だった可能性はあります。
"大神の鎮座地"を求めて大和笠縫邑を出発した倭姫は、宇陀から近江・美濃を経て
伊勢に辿り着いたと伝えられており、下記の巡幸地のほか、
「淡海甲可の日雲の宮」や「尾張国中島の宮」を経たとか
「滝原の宮造らしめて坐しき」などの記録もあります。
 
     大和国 美和・御諸の宮奈良県桜井市三輪町/三輪山あたり?)
     大和国 宇太・阿貴の宮奈良県宇陀郡宇陀町迫間/阿紀神社?)
     大和国 宇太・佐々波多の宮奈良県宇陀郡榛原町山辺/篠畑神社?)
     伊賀国 阿閉柘植の宮三重県阿山郡柘植町上柘植古宮/都美恵神社あたり?)
     淡海国 坂田の宮 滋賀県坂田郡近江町/坂田神明宮?)
     美濃国 伊久良賀の宮岐阜県本巣郡巣南町居倉/天神神社あたり?)
     伊勢国 桑名・野代の宮 三重県桑名郡多度町下野代/野志里神社あたり?)
     伊勢国 河曲鈴鹿・小山の宮 三重県亀山市野村町忍山/布気神社あたり?)
     伊勢国 壱志・藤方片樋の宮三重県津市藤方森目/加良比之神社あたり?)
     伊勢国 飯野・高宮三重県松阪市山添/神山神社あたり?)
     伊勢国 多気・佐々牟江の宮 三重県多気明和町山大淀/竹佐々夫江神社?)
     伊勢国 玉岐波流・磯の宮三重県伊勢市磯町/磯神社?)
     伊勢国 宇治家田・田上宮 三重県伊勢市楠部町家田/神宮御田あたり?)
     伊勢国 伊須々の河上・大宮地三重県伊勢市宇治浦田町/内宮)
 
当社の案内板には、第11代垂仁天皇の皇女 倭姫命
垂仁天皇8年、淡海国坂田宮(米原市宇賀野 坂田神明宮)に至り、2年間留まりました。
千福神社には、倭姫命(甲賀郡日雲宮より御幸の際)しばし留まった、あるいは
ここを通ったという伝承があります」と書かれています。
坂田神明宮へは、当然ながら「宇賀野」の地名にひかれて足を運びました。
 
千福神社では二段ロケットのような珍しい形状の銀杏が印象に残りました。
 
次は宝暦4年(1754)創祀とある伊弉册(いざなみ)神社(米原市須川)です。
江戸時代とは新し過ぎますが、近くを流れる川が須川ではなく天野川だったので
地名の「スガワ=スカハ」は古来スカ氏の地だった名残かもと疑いました。
伊弉册神社は北北西に視界が開けていて、上の画像(中央左寄り)には
白い新幹線が写っています。
伊吹山を遥拝する形になっていないのは意外でしたが、
現在の社名に拘わらず、当社は伊吹山山頂から真南に約7kmの
東経136.40に位置しているため、太古の祭祀に興味がわきます。
 
奈良県生駒郡斑鳩町五百井(いほゐ)伊弉册命(いざなみのみこと)神社があり、
やはり地名にひかれて足を運んでいました。
もちろん伊福部=五百木部=廬城部=伊福吉部ゆえ。
 
さて、いよいよ関ヶ原を越えて古代藍川郷へやってきました。
ほんとうに懐かしいという言葉がピッタリの風景。
伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町伊吹)伊吹山山頂から東南約9.4kmに位置しています。
この社名からも伊吹山御神体山としていることは明らかで、由緒にこうあります。
 
此の付近一帯往古は瓊々杵尊の御兄天火明命の子孫伊福氏の本貫なれば
同氏等が氏神として創祀せるなるべし。由緒として史籍に見えたるものには、
文徳天皇実録に仁壽二年十二月美濃國伊冨岐神を以て官社に列すとあり。
三代実録には清和天皇貞観七年五月十八日従五位下伊冨岐神に従四位下を授く。
陽成天皇の元暦元年二月二十一日従四位下伊冨岐神に従四位上を授くと見え、
延喜式神明帳には美濃國三座の内とあり。
美濃神名帳には正一位伊冨岐と見え、その他康和五年神祇官奏状同中臣氏祭文
本朝神社考平家物語神社啓蒙美濃國雑事記美濃明細記藤河日記等にも当社のこと見えたり。
一千余年前既に官社に列せられ、中間史料を免れしたれども、
年次を追つて授位せられ、現在は正一位を以て傳ふる古社なり。
 
空海美濃国不破郡藍川郷に足を運び、天長元年(824)3月3日に
伊福部氏の菩提寺を創建したことは既に書きました。
社殿の横の杉の古木ともども演奏風景を撮って下さいました。
さすが伊福氏の祖神を祀る神社だけあって、古木が歴史の長さを証明してますね。
今日も演奏修行させて頂き、感謝の一語です。
 
伊富岐神社と同じ北緯35.37に美濃国府跡があります。
その真南約2kmの東経136.52に美濃国一宮たる南宮大社があって、
南宮大社の旧鎮座地は美濃国府跡の美濃国総社南宮御旅神社と言われています。
古代人の思考に照らせば、伊富岐神社から真東に2.6kmの南宮御旅神社
南宮大社の真北に位置し、3社を結ぶと直角三角形になるため
古代における関係性を疑い、足を運んでみることにしました。
上の画像中央から斜め右奥に伊吹山があります。そして
南宮御旅神社の社殿に向かうと同緯度の伊富岐神社を遥拝することになります。
なお、伊富岐神社南宮御旅神社と同じ北緯35.37に『古事記』に登場する
「喪山」古墳があり、ここ南宮御旅神社からの距離は真東に870mです。
 
今日は新幹線に乗る時間が決まっているため、「喪山」を端折って岐阜羽島駅方面へ。
駅の手前に位置する伊富(いとみ)神社(岐阜県安八郡安八町牧905)へ立ち寄りました。
祭神は丹後宮津の(この)神社と同じ天火明命でした。
天火明命天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子とされ、
天火明命を兄・邇邇芸命を弟とする説、天火明命邇邇芸命の父とする説などあります。
以下は、当社の由緒書です。
 
本社の創建は文正元年(1466)9月18日後土御門天皇の御代の創建に係る古社なり。
社号の伊富は蓋し伊富部の略にて、祭神は伊富部氏の祖神、天之火明命なり。
伊富部は美濃尾張に縁ある古姓なり。
美濃明細記、百岐年に「安八郡牧邑一伊富社、同所富士社」とあり。
又、新撰美濃誌に「牧村は馬ノ瀬の東にありて世安庄なり。伊富社村内にあり。
は? それなら、なぜ「いふき」じゃなく「いとみ」と読むんですか?
そういえば、当社から真東(北緯35.33)13.5kmの伊冨利部(いふりべ)神社・伊冨利部古墳も
「いふくべ」「いほきべ」からの転訛でしたね。
「いとみ」の発音は、深く追求せず、漢字の誤読ですませるべきなのでしょう。
今や、よほどの山奥でもない限り、古代の雰囲気を味わうことなどできませんし。
ふと案内板の位置から振り返ると、参道の緑に心がなごみました。
 
10日ほど前には天気予報が雨だったこの2日間、幸いお天気に恵まれ、
美味しいものをたくさん頂いて元気になりました!
昨夜ご招待いただいた上、本日は撮影までして頂き、感謝の言葉もございません。
日程が合いましたら、また是非ご一緒させて下さいませ。