誕生日なのでどこかへ出掛けたい…と思うけれど、
元々神社には興味がないし、神話にも飽きた…。
そんな時、明治に落語家・三遊亭圓朝によって創作された落語(怪談噺)
『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)の元となる説話、江戸時代に流布した「累ヶ淵」の
物語にまつわる地があるとの情報を得たのです。
圓朝さん以外に全編を取り上げた落語家は居ないらしい…。
また、「真景」とは当時の流行語「神経」のもじりだとか…。
場所を特定したとて何の益も無い。が、神社よりましな気がしました。
筑波山を右手に眺めつつ走っています。いま小貝川を渡るところ。
蝦夷征討の際、この地で馬に水を飲ませた「水飼戸」(みつかヘと)が語源なのだとか。
上に「市役所」とあるのは水海道市(1954-2005)役所ではなく、
常陸と下総を合体させた常総市(2006-)役所ではないかと思います。
この水海道地区は、江戸時代中期までは寒村で、
中宿(現 水海道元町)から新町(現 水海道本町)までが村唯一の大通りだったと言うのですが、
それが本当なら、直線距離でわずか1km未満なんです!?
ところが江戸末期以降、「鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽くることなし」と
称されるほど発展したというのですから、訳が分かりません。
鬼怒川の水運なら、昔から活用されていたと思うのですが、
盛んに運搬すべき何かが周辺地域から出たとか?
その鬼怒川を渡りますよ。
鬼怒川は古くは「毛野国」を流れることから「毛野川」と呼ばれたり、
「絹川」「衣川」などと書かれたりしたそうです。
他方、小貝川は約1,300年前には「子飼川」、約1,000年前には「蚕飼川」の表記が
見られ、「蚕養川」と書かれることもあり、蚕飼-糸繰-絹糸の発想から、
小貝川の支流の一つが「糸繰川」と名づけられたりしたそうです。
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鬼怒川と小貝川を分離する工事が始まったのは1621年でした。
用水利用型河川となった小貝川に福岡・岡・豊田の三大堰が作られたのに対し、
鬼怒川には多くの河岸が誕生して利根川水系の水運に果たす役割が大きくなりました。
1774年の河岸吟味で、俗に鬼怒川四十八河岸と呼ばれる多数の河岸が公認されたとか。
占めていたといわれる奥州米をはじめ、東北諸藩からの物産を運搬したそうです。
上の画像中央あたりを目指し、橋を渡ってから右折。
5分ほど走って、土手が見える場所まで来ました。土手に上がってみます。
やはり右手に筑波山。この右下が鬼怒川で「累ヶ淵」があるようですが、
バイクを停めて下りてゆくのはハードルが高すぎます。
構わず直進すると、鬼怒川が見えました。
前方に、冠雪した山々が見えるのですが、曇天ゆえハッキリ撮れません。
地図によると、この土手を北上すれば左手に人丸神社があるようです。
え? ここを下りるんですか?
あれまぁ…道路に突き当たりましたが、これって神社ですか?
左手を見ると鳥居がありました。殺風景すぎますけど…。
こちらが正面のようですが、鳥居に扁額なし。
社殿まで行っても扁額なし。結局のところ地図に人丸神社とあっただけ…。
さっき下りた土手がすぐ近くに見えます。元は水運に関わる神社だったかも?
どうもこのままでは空振りに終わりそうですね。
ここまで来たのは、人丸(660-724)さま、篁(たかむら)さま(802-853)推しゆえで
おそらく"怨霊"フェチではないのかと!?
"日本三大怨霊"と言えば
ちょっと年代が離れすぎている感もありますが、平安時代という括りだそうで。
1164年に暗殺されました。御遺体は五色台白峯の稚児ヶ嶽の崖の上で荼毘に付され、
その地に第75代崇徳天皇白峯陵が築かれたのです。
その後、都で変事が相次いだため、御陵横に頓証寺殿を建久2年(1191)に建立。
坂出高校出身の私にとって五色台の白峯陵は地元であり、たとえ"怨霊"と
そんな日本の朝廷に対抗して「新皇(しんのう)」を名乗ったのが平将門でした。
取り次いだとする八幡大菩薩のお告げによって天慶2年(939)12月19日に即位するも
3日間晒された後、笑い声を立てて東国へ飛び去ったと言われています。
これはもちろん"怨霊"時代のことですが、存命中の昌泰4年(901)1月、右大臣だった
大宰員外帥に左遷された道真は俸給がなくなり、従者も与えられないまま、
延喜3年(903)2月25日に薨去。
身の潔白を訴えて登り続けたという天拝山を歩いてみました。
刑死じゃなかったとはいえ、道真が"怨霊"と呼ばれるようになったのは、
菅原氏は道真の曾祖父 古人のとき土師(はじ)氏から改められ、道真の父は菅原是善。
しかも、坂東市岩井の将門の国王神社と同じ北緯36.06に位置しているのです。
これには古代人の思考が影響しているかも?
あれは…まるで島ですね。
以下のブログで、大生古墳群のオフ(多・飯富)氏と大生(オホフ)氏が無関係らしいと
わかった程度で、常総市大生郷町や大生郷城となるとまるで手に負えません。
取り敢えず、大生郷天満宮の由緒を引いておきましょう。
社伝によれば
道真公自ら自分の姿を描き与え、「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。
自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」
と言い、延喜3年(903)2月25日に亡くなられた。
遺言に従って景行公が遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること20有余年。
現在の真壁町羽鳥に塚を築き、この地の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納めた。
その3年後の延長7年(929)、飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公の奥都城(墓)と定め、
社殿を建てて、羽鳥より遺骨を遷し、お祀りしたのが当天満宮である。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あると言われる中で、
関東から東北にかけては最古の天満宮と言われていること、
などから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神とも言われている。
ちょっと待ってください。
景行が道真の遺骨を納めるのに協力した源護と平良兼は将門が最初に戦った相手です。
常陸介として派遣され、職務を全うするには地元の協力が不可欠と考えたのでしょうか?
そして3年後の延長7年(929)には将門の支配地たる豊田郡大生郷に遺骨を遷しています。
天慶2年(939)12月19日に「新皇」を自称した将門は、翌年2月14日(940年3月25日)に戦死。
この10年の間、景行と将門に何らかの接点があったことは確かでしょう。
道真の三男 菅原景行は876年頃の生まれとされ、没年も不明です。
とあるため、926年に常陸介に着任した可能性は低くないと思います。
しかも、景行の弟 兼茂が承平年間(931-938)後半に常陸介をつとめたとなると
景行の後任だった可能性も否定できません。
景行と兼茂が常陸介だったからこそ、彼らの父 道真の霊と将門が
対話したとの逸話や、「菅原道真公御廟所」も生まれたのでしょう。
訪れましたが、それらはいずれも伝承に過ぎず、遺骨などありません。
ところが、どうやらここ大生郷には遺骨が納められているらしい…。
ここを下りるのが、奥都城への最短距離です。
ちょっと箱庭的な…近代に整えられた公園のようでした。
5.55kmの距離に将門の国王神社が鎮座していること。
坂東市の国王神社まで足を延ばしました。
将門を終焉の地に祀った神社と言われ、創建は没後32年の天禄3年(972)。
社伝(「国王神社縁起」及び「元亨釈書」)によれば
平将門の戦死の際、難を逃れ奥州の恵日寺付近に庵を結び出家し隠棲していた
将門の三女 如蔵尼が、将門の33回忌にあたる天禄3年2月(972)にこの地に戻り、
付近の山林にて霊木を得て、将門の像を刻み、祠を建て安置し祀ったのがはじまり
とされているそうです。
ただし、ここは縄文・奈良・平安の複合遺跡だと前回の訪問時に知りました。
製鉄に関わる工人たちが居住していたと考えられているそうです。
「宮内遺跡」は将門ら坂東武士にとって重要な武器づくりの地だったのかも?
ふと、当地に国王神社を創建したのは、「新皇」を名乗って朝敵となった
平将門に、何らかの権威付けをしたかったからではないかと感じました。
上総介として東下した)の一族とはいえ、関東に土着して未開の地を開墾するなど
自ら領地を増やすしかなかった坂東平氏は生活の苦しさを熟知していました。
だからこそ高望の孫たる将門は東国の独立を掲げ、民衆の支持を得たのでしょう。
そして、将門人気は今も健在です。
まして戦死直後、京でさらし首となった将門に心を寄せる人は少なくなかったはず。
将門が後ろ盾もないまま「新皇」を名乗ったのは、個人的欲求などではなく、
あるいは将門本人がそう信じていた可能性もありそうですが、
そうした心情から、延長7年(929)に遺骨が遷された「菅原道真公御廟所」と同緯度の
「宮内遺跡」に天禄3年(972)に国王神社が創建されたのではないでしょうか?
この周辺には将門にまつわる場所がたくさんあります。
国王神社から真南に約360m、かつて江川沿いの泥濘地だったと想像される
古代の河畔の上り口に神社らしきものがありました。
鳥居をくぐると俄然神社らしく見えますね。
一言神社ですって!? どうやら江川沿いを南南東に下った東側にある
このブログに国王神社のことも書いてましたね。
ここで帰途をナビにセットして走り始めたら、僅か70mで「石井(いはゐ)の井戸跡」!?
実は途中で道標を見かけたのですが、将門にまつわる場所が多いので素通りしました。
結局、見ることができて良かったです。
上の画像左奥のこんもりが「島の薬師」かもしれません。
ああ…ちゃんと一言明神が将門に水を上げたという逸話があるんだ。
振り返ると、一言神社の屋根がすぐそこに見えました。
あいにくの曇天で画像が見づらくて申し訳ありません。
さらに200mほど走ると、一言神社と同緯度で、地図上でも島にしか見えない
「島の薬師」たる延命寺がありました。このあたりは将門ファンの聖地ですね。
ほどなく、坂東平氏とは切り離せない「馬」地名。
私はやはり、人工的建造物よりも地形や地名に興味を惹かれます。
なんて言うと退屈してるみたいに思われるかもしれませんが、
バイクで走ると頭の中がフル回転するのですごく楽しいんです。
ただ走っているだけで楽しいのに、年齢は重なる一方で、
いつかバイクに乗れなくなる日が来るかと思うと残念でなりません。
走りながら感じたこと。
"怨霊"と呼ばれた人たちは信念に基づいて懸命に生きたけれど報われず、
そのエネルギーの強さゆえ、残された人々は彼らの無念に衝き動かされる。
そして崇徳院の呪詛の言葉に象徴される逆転の発想への共感。
「我、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」
強調して軍功を募ったことはよく知られています。
私が"怨霊"に心惹かれるのは、敗者となって抱いた「民」への視線とこころ?
それゆえ「判官贔屓」ならぬ「怨霊贔屓」になったんですね!?