今日のテーマは大分県最大を誇る全長116m超の「亀塚古墳」(国指定遺跡)と、
ほぼ同緯度で東に位置する「築山古墳」(国指定遺跡)です。
「貝塚、集落跡、古墳その他」と記載されていました。
「築山古墳」は、豊後水道を支配した海部民(あまべのたみ)が暮らした土地に、
5世紀前半頃に造られたと考えられている女性の首長を埋葬した古墳の一つであり、
副葬品としては鉄剣、管玉などが多数出土し、県指定有形文化財になっています。
女性の人骨の腕にはイモガイ製の貝輪が装着され、頭上には銅鏡が置かれていたとか。
海部民が暮らした土地での巨大な古墳としては、5世紀初めに丹生川河口に築かれた
「亀塚古墳」が最大で、海部王の墳墓と推測されているそうです。
今日は、海部(あまべ)の謎を解き明かす貴重な遺構として注目されている
「亀塚古墳」と「築山古墳」を見るため、幸崎駅でタクシーを予約しました。
「さかのいち」と聞いた瞬間、文字上は無関係に見えた「坂ノ市」と「佐賀関」が
「さか・さが」という地域の「市」と「関」なのでは? との疑問が湧いてきました。
実は、以前「大昔は亀塚古墳から築山古墳が見えたはず」との書き込みを読み
「まさか…」と思った記憶が、実際に足を運ぶことにした背景にあります。
先ず「築山古墳」へ行こうとしたところ、山に遮られて駅からは見えません。
はたして約6km離れた「亀塚古墳」から見えるのでしょうか?
この境内から上がって行けると言われました。
「石棺さま」ですって!?
その「石棺さま」に使われた石は緑泥片岩なのだそうです。
ここは全長90m(前方部50m, 後円部径40m)の前方後円墳の後円部で、高さは約10m。
何だかよくわかりませんね。葺石でしょうか?
1932年、植林作業中に2基の緑泥片岩製箱式石棺が発見され、その後の調査で
女性の人骨1体が「北棺」から、男性の人骨3体が「南棺」から見つかったそうです。
発見後、後円部頂上に神崎八幡神社が建立され、露出した石棺に玉石が充填されたとか。
そうか…これは発見後に建てられたものだったんですね。
いくら何でも人様のお墓の上で演奏修行するほど厚かましくはないので下ります。
分厚い雲に覆われた曇天ながら、境内からでも海が見えました。
ふと目を移すと、古墳を遥拝する形で神楽殿がありました。
来た時から大ウグイスが鳴いていたので、共演させてもらい、勉強になりました。
社殿の後ろから撮った「築山古墳」です。
こんもりしているだけで、前方後円墳の全貌を見ることすらできません。
ランドマークにはなり得ないとわかりました。
その「築山古墳」から10分足らずで「亀塚古墳」にやってきました。
ここでは、歩くのに注意が必要らしいです。
何気にこういうものが置かれていました。
後円部まできたら、上がれそうだったので、階段を昇ってみました。
ここから「築山古墳」が見えるかどうか、確認しなくてはなりません。
やはり、山、山、山…。ここから「築山古墳」が見えたとは思えません。
と言いつつも気になったので、帰宅後、国土地理院のGSI Mapsで検証(?!)したところ、
「亀塚古墳」の後円部(直径64m,高さ10m)は北に位置している上、標高が44.1kmでした。
これなら直線で5.79km離れた「築山古墳」(標高20m以下?)を見下ろせます。
目の前の木々がなければ肉眼で見えたかもしれません。
墳頂部の石棺の内部に朱が塗られていることが気になります。
「築山古墳」の埋葬にも、総量34kgもの朱が使われていました。
丹生川は坂ノ市駅と「亀塚古墳」の間を流れ、「亀塚古墳」の南南西に丹生神社。
丹生神社は西暦698年創建の古社で、住所が大分市佐野567。昨日に続く「佐野」です。
途中の松岡にある御手洗神社へ立ち寄りました。
現在地に「龍穴」があったためかも知れませんが、当社の西側鳥居から入ったら
そこここに「穴」がありそうな気配が漂っていました。
最初、あの「キケン」の左奥に入ったので、そういう雰囲気を味わえました。
ここは本殿の後方ですが、同じような空気感です。
「龍穴」? 呼び名は何とでもつけられますけど?
古墳以外はオマケ的な気持ちで来たとは言え、テンションが下がりますねぇ…。
ここからは移動距離ばかりが長いので、余計にそう感じます。
どうです? 豊後国一ノ宮にして、このどんより感。
運転手さん曰く「ここは藤の季節以外はダメなんですよ」。
たしかに、このアーチはきれいですね!
あとはこのお太鼓橋ですね。飾りじゃなく、人が歩けるんです。
藤の花の季節に来てみたくなりましたが、駐車場が満車になり身動きがとれないとか!?
ここで、ふと、西寒田神社奥宮へ行ってみたくなり、ナビにルートを入れてみました。
これが不幸の始まりで、あと10cm違っていたら死んでいたかも!?
ずっとこんな道だったんですよ…。そのうえ途中の六叉路で!?
ナビは直進と言っているのに、左手の「本宮山」と書かれた道標に拘る運転手さん!?
そこへ運悪くウォーキングをしている3人連れが通りかかりました。
運転手さんが「左へ進むと本宮山山頂まで行けますか?」と尋ねています。
ナビを見て「真っ直ぐだと思いますよ」と言う私の意見に反して、その3人が
「行けますよ。ただ、道が悪いので気をつけて行って下さい」と言ったため
運転手さんは鬼のクビでも取ったかのように意気揚々と左折したのでした。
800mは走ったでしょうか? 上り坂で泥と落ち葉にタイヤを取られ、万事休す!
「もう車を動かさないで下さい」と言っても、懲りずに坂を登ろうとして逆に後退。
「外へ出ます」と言ってタイヤを覗き込むと、右の後輪に残っている地面は10cm程度!?
落ち葉が積もって地面のように見えますが、コンクリート道からは外れてます。
「一度、外に出て、タイヤの現状をご覧になって下さい」と言うと、やっと外へ出て
現実を見、「これはダメだ! 谷底まで落ちてしまう!」と仰るではありませんか。
「ともかくレスキューを呼びましょう」と言って、待つこと1時間半。
結局、3人(私を含む)でタクシーを押して泥濘みから脱出させたものの、前進できず、
バックするしかないと言われたため、七十代の運転手さんが頑張って下さいました。
せめてこれくらい道幅のある道路を走らないと…ね。
メチャクチャせっかちな私ですが、こういう場合、2時間のロスがあっても焦る
ようなことはなく、動けずに待機していた間の料金も全額お支払いしました。
ただ、2時間のロスにより、柞原八幡宮はカット! 6時間半の貸切となりました。
最後に訪れたのは別府市内成の大神峰神社で、祭神は大神比義(おほがのひぎ)でした。
宇佐八幡宮内の大神祖神社に「大神比義命」として祀られています。
『三輪高宮家系図』は、大和三輪氏の中に大神比義を入れているそうです。
暗くて、怖いのですが、宇佐八幡に関わる大神氏の神社とあってはパスできません。
移住説などがあります。よって、877年に大神比義の後裔を名乗る大神道国が、ここ
大神比義を祀ったというのは、辻褄の合わない話ではありません。
ニノ鳥居の扁額は「八幡宮」。
大神比義は、最初に八幡神を感得した人物として知られています。
三ノ鳥居で社殿が見えました。石段は百段ほどだったでしょうか?
大神比義については『修身科郷土資料集成』(大分県教育会)にこう書かれています。
辛島勝乙目と共に朝廷に奏聞し 勅定を得て 始て八幡大神の宮殿を建て奉仕せり
此即ち大神氏の祖にして 子孫祝部 小山田の両家を始め数百家に繁栄せり
「霊媒」とも言われており、『八幡宇佐宮御託宣集』にこうあります。
これに因って大神比義(おほがのひぎ)、穀を絶つこと 3年、籠居精進して、
即ち幣帛を捧げ祈りて言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。
即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。
我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいけんいりきじんつうだいじざいわうぼさつ)なり」
「鷹居社」を建立とあるものの、宇佐神宮の元宮には諸説あります。
奉仕していましたが、769年の道鏡事件の頃に宇佐氏と争ったという逸話もあります。
当社の祭神が大神比義になったのは、子孫がこの地に移り住んだ結果と言えそうですね。
なお、「大神峰」の表記は、「嶺」「峯」などで統一されていません。
今回は短い旅程ながら、いろいろありました。が、行きづらくて、
これまで先送りにしていた場所へ行けたので良しとしましょう。
ただ、ホテルに着いたら、お鮨を食べに外へ出て行く気力が失せてしまいました。
ホテルの夕食は7,700円のハーフバイキングしかないと言われ、小麦アレルギーで
食べられるものが少ないためガッカリでしたが、しかたありません。
こちらが前菜で、あとはバイキングでした。
和牛ハンバーグなど、小麦たっぷりの料理ばかり並んでいました。
アルコールもソフトドリンクも飲み放題ということで、アルコールを飲めない私には
残念な夕食でしたが、広い空間でリラックスできました。
明日は貪欲に、空港へ行く道すがら立ち寄る場所を決めていましたが、
何かあって遅れるといけないので、ホテルからタクシーで空港へ直行します。