藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

本宮山リベンジ

先月24日、急遽ナビに「西寒多神社 奥宮駐車場」をセットして向かったところ、
分岐で「直進です」とナビが言ったのを無視して左折した運転手さん…。
ところが、それは本宮山山頂へ歩いて登るための登山道で、道幅が狭い上、
落石も多く、危うく脱輪しそうになりながら登って行ったのですけれど、
コンクリートに15cm以上も堆積した土砂と落ち葉のせいでタイヤが空転して
前進できず、後ろは崖で動けなくなってしまい、救急隊に助けて頂きました。
 
「ここで待機した2時間余りを返してほしい」と思っても始まりませんし、
事を荒立てても好転はしないので、運転手さんには失礼のないよう接しました。
私は 赤い印の「奥宮駐車場」を目指し、 緑の旗印の「奥宮」までの670mを
植林されてない自然林の「セラピーロード」を楽しみながら歩くつもりでした。
「奥宮駐車場」への道は舗装路でガードレールもあるようですし、
たとえ雨が降っていても行けたのではないかと思います。
6/23~25の3日間はずっと雨の予報で、タクシーで走っている間は
雨が降っていましたが、下りて歩いている時は一度も傘を使わなかったので
たぶん6/24に行けていたはず…。と悔やんでも時間は取り戻せないし、
いったん決めたことを完遂しないのも嫌なので再訪を決めました。
 
この間、調べものも出来ました。
それで、ちょっと考えられないようなルートになってしまったのですが。
大分駅から臼杵市野津町大字西寒田神尾まで走ってから本宮山に登ります。
「西寒田」の地名を見、大分市寒田(そうだ)西寒多(ささむた)神社はここから遷座した
と言われれば、たとえガセネタであっても足を運ばない訳にはまいりません。
 
江戸時代の『亀山随筆』に
西寒多紳杜は初め大野郡野津ノ荘寒田(さわた)村にあつたのを傅へによると、大友能直
十世ノ孫式部大輔親世、応永七年、将軍義満により従四位下九州節度便に補せられた時、
応永十年三月この神社を、居城の南に移して、この地を寒田(そうだ)と名づけたとある。
その後大野郡寒田の方は衰へ、今は祭日の定めもなく、神官なども絶え、
僅かに一茅宇が残るだけになつたとある。」と書かれ、
『豊後國志』にも
大野郡寒田神社西寒多神社とし、応永十五年大友親世が大分郡植田に移し
寒田と名づけた。とあり、今は一茅宇になつてゐる」とありました。
 
ただし、現在、臼杵市野津町大字西寒田に鎮座するのは権現宮(御霊神社)
権現は明治以前の呼称で、ここは西寒田なので「西寒田権現西寒田神社」です。
当社の真北 1.2kmにある豊後大野市犬飼町西寒田の西寒多紳杜と似ています。
↑が臼杵市西寒田権現宮、↓が豊後大野市西寒多神社
もちろん階段の数、社殿の規模は違うのですが、雰囲気と方角が似ているのです。
また、現在は豊後大野市臼杵市に分かれていますが、臼杵市西寒田権現宮
豊後大野市西寒多神社は、1889年(明治26年)4月1日の町村制施行により
今の豊後大野市臼杵市の一部が合併して発足し、1955年3月まで続いた
大分県大野郡の「戸上村(とのうえむら)」に鎮座していました。
どうもこの2社の住所と名称を混同した資料が多いようです。
そこで今日、午前中にバイクを借りて、豊後大野市を目指しました。
「佐伯(さいき)・犬飼(いぬかい)」方面へ向かってます。
バイク屋さんから約1時間で豊後大野市に入りました。
分岐から、登り道を選びました。先々で合流するのですが。
いわゆる縄文台地と考えて良いのでしょうか?
地図に道がないため不安にかられつつ走っています。
狭い道が民家で行き止まりになったため、お声がけしましたが留守のようです。
いったいどこに神社があるんだろう? 画像左寄りの上り坂しかありませんよね…。
あれ? さっきトンビが舞っていたのですが、もしかして待っててくれた?
雨が続いたせいか、コンクリート道が苔むして、ズルズル滑ります。
バイクを停め、滑りながら登ったら建物らしきものが見えて来ました!
滑りながら更に登りますと…
これが噂の「鎭國一宮」の扁額ですね。当社はあくまでも延喜式内社を主張してます。
延喜式神名帳(延長5年編纂分)豊後国から六座(大一座・小五座)選ばれています。
直入郡一座[小]建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]西寒多神社
速見郡三座[並小]宇奈岐日女神社、火男火賣神社二座。海部郡一座[小]早吸日女神社
 
大分郡なので、大野郡の当社が延喜式内社を主張するのは難しいのではないでしょうか?
写本に一種類だけ大野郡と書かれたものがあるそうですが。
 
大分郡鎮座の西寒多神社の社伝にこうあります。
貞観11年(869)3月22日、朝廷から従五位下の神階を授けられた。
延喜5年(905)編纂が開始された延喜式神名帳で式内大社とされた。
(正確には延長5年(927)に式内大社に列せられた)
応永15年(1408)、大友家第十代の親世(ちかよ)が社殿を山麓の現在の地に遷した。
↑ ここが謎なのですが、すでに延喜式で大社に列せられているのに
その場所に更に本宮山から神を奉遷させたということでしょうか?
 
大分市西寒多神社「西寒多神」を
月讀尊(つきよみのみこと)
天照皇大御神(あまてらすおほみかみ)
天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)
としています。
 
ところが、豊後大野市西寒多神社の祭神は八幡大神!?
しかも宇佐八幡ではなく、筥崎八幡神としています。
祭神が異なる両者に、どんな繋がりが考えられるでしょうか?こ
 
ただし、臼杵市西寒田権現社の祭神は月讀尊ではないかと想像されます。
灯籠に三日月が彫られていたため。
西寒田川沿いにあるし、寒田川沿いの西寒多神社と関連があるかもしれません。
西寒田川の源流から1kmほどなので、こんなに細いんですね…。
 
さて、西寒多神社 奥宮の祭神はどうでしょう?
本宮山の信仰の対象は太古から磐座だったと思いますが、現在は西寒多神社と同じく
天照皇大御神、そこにイザナギイザナミという朝廷がつくった神が配されています。
天忍穂耳命は、日本神話ではアマテラスとスサノヲのウケヒ(誓)で誕生したとされ、
日本書紀』では正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
「西寒多神」の月讀尊西寒田権現社から、天照皇大御神が奥宮のある本宮山から
勧請されたとの含みを持たせようとしたのでしょうか?
 
俄かに月讀尊が気になり、西寒田権現宮の近くで探してみました。
複雑な山道をクネクネと30分ほど走り、大分市月形の月讀神社を目指しました。
どうやらこのこんもりの中に鎮座しているらしいです。
 
分岐だらけ…。一つ間違えたら、なかなか元の道には戻れません。
ナビの「目的地に着きました」の声がして、少し進んだら鳥居が見えて来ました。
とりあえず鳥居の横にバイクを停め、社殿に向かいます。
すると、右奥にも鳥居があって、また鳥がとまっていました!?
あとでこの鳥居を探すと、25号線から僅かに見えましたが、よくあるような
目立つものではなく、むしろ人目につかない位置に設置した感じでした。
この鳥居からは社殿に向かって上り、最初の鳥居からは下るという地形でした。
月讀神社にウサギの奉納額とは御愛嬌ですね。
 
そもそも、神階って何なんでしょう?
資料上、最初に登場したのは天武天皇元年(672)7月なのだとか。
その後、9世紀に神階の授与が集中したものの、授与されたうちの
400社近くは10世紀の『延喜式』には含まれていないそうです。
神階を授ける目的は、時の権力者が地方の富裕な豪族を掌握するためで
彼らの奉じる神祇に神階を与えて国家に紐づけすることにあったとか?
 
大分市史』は西寒多神社について「『日本三大実録』貞観11年(869)
3月22日条に無位から従五位を授けられたとあるため、その創建は
嘉祥4年(851)以降、貞観11年(869)以前ということになる」としています。
 
平安時代従五位を授けられ、一ノ宮を名乗ってきた西寒多神社
851年~869年までに現在地でその基盤を確固たるものとし、
朝廷に一目置かれる存在になっていたと考えるしか無さそうです。
その後、武力が必要な大名が、1408年に太古からの磐座信仰をもつ修験の
力を借りるべく、徒歩で2時間以上かけて登らなくてはならない山頂から
修験らの奉じる神を山麓西寒多神社へ勧請したということでしょうか?
 
そして明治4年(1871)、西寒多神社国幣中社に列せられた当時は
建造物がみすぼらしく、国幣中社の名に値するものではなかったそうです。
国幣中社にふさわしい体裁を整える必要にかられる中、神殿のみ
官費1,026円での新築が決まり、明治15年に建て替えられました。
みすぼらしかった西寒多神社国幣中社に列せられるまでの経緯が、
江戸時代に代々西寒多神社の神主を務めた佐藤家の歴史を綴った
『佐藤家の事績』の第6代佐藤孝兵衛の項にあります。
 
西寒多神社國幣中社列格二努力ス 佐藤秀男氏ノ談ニヨレハ
西寒多神社カ國幣中社ニ列セラレタノハ明治四年六月デアル、當時
直入郡城原村ノ神官日野資計カ大分郡乙津村ノ後藤今四郎(碩田ト號ス)」ト
協力シテ時ノ太政官神祇官ニ申請シタモノデ日野資計ハ其レ迄ハ、
西寒多神社大野郡野津荘寒田ニアルモノトミ思ッテ居タガ
申請ノタメ上京途中鶴崎ニ於テ碩田カラ、東稙田ノ今ノ神社カ本社テアルコトヲ
教ヘラレ上京ヲ中止シテ寒田在ノ今ノ神社ヲ實地に調査シテ申請シタノテアル」ト
 
驚きましたね。日野資計なる人物が「西寒多神社大野郡野津荘寒田
あるものと思って居た」ことが、ハッキリ書かれています。
日野資計とは直入郡城原村(現 竹田市)城原八幡社の神官で、
佐藤孝兵衛らに詳しく説明を聞き、佐藤家の意を酌む形で
列格を申請したのち、西寒多神社禰宜をつとめています。
ちなみに、西寒多神社国幣中社に列せられた明治4年当時、当社は
延岡藩の一部でした(初代大分県参事の森下景端が府内に着任したのは明治5年1月以降)
 
幕末の延岡藩の領地は以下の通り。
臼杵郡のうち - 63村
宮崎郡のうち - 24村
国東郡のうち - 32村
速見郡のうち - 16村
大分郡のうち - 36村
延喜式内社や官幣・国幣社は現在の地図や常識では論じられませんね。
 
それに、本宮山の磐座信仰と西寒多神を結びつける決定的証拠がないとしたら
日野が握り潰した「西寒多神社大野郡野津荘寒田にあるものと思って居た」
を無視することはできないように感じます。
 
大分市史』にこうあります。
もともと西寒多神社は寒田川と敷戸川の流域を開発した富豪層と、それに
率いられた農民が祀った神で、9世紀初頭から九州を襲った凶作と飢饉の際に
富豪層が貧窮農民を率いてこの地域の開発を進め力を付けてきた。
このため中央政府は在地の神を国家の神祇体制の中に組み込み、
それによって地方の富豪層を従わせる方策をとったのだ、との見方が強い。
 
では、9世紀初頭にこの地域を開発したのは誰なのか?
現在の敷戸駅北で寒田川から岐れた敷戸川と寒田川の間は、鋭角で幅の狭い
三角州で、狭い場所が約390m、最も広い場所で約820mしかありません。
この狭い土地を開発した人々こそが、大分郡西寒多神社の南南東
約12kmに位置する大野郡西寒田の人々だったのではないでしょうか。
古代人は恐らく、神は自分で移動する性質のものではないとの発想から
御神輿をつくって運ぼうとした。そう仮定すれば、その神を奉じる氏族の
移動があったと考えるのが普通で、氏子とともに氏神遷座したはず。
 
大分市史』は西寒多神社の創建を851年~869年の間としています。
この時に「西寒多神」が遷座したとして、
応永15年(1408)に大友親世(?-1418)が本宮山の神を大分市寒田の地に
奉遷したのは居宅の南面の守りとしたとの伝承もあるため、やはり本宮山を
本拠地とする修験らを武装勢力として住まわせたのではないでしょうか?
 
つまるところ私は、臼杵市西寒田権現宮神社の現住所の字(あざ)「神尾」は
大分市西寒多神社を神の頭(龍頭)と位置づけて両社を関連づけようとしたもので
遷座したとはいえ、大元はここだよと主張していると妄想している訳です。
そして時代が武家の世に移り、室町時代に本宮山から神を下ろしたと。
 
結局、急峻な崖に南面しているという「本宮社」へは辿り着けませんでした。
ここでナビが「左折です」と言った時、「本宮山セラピーロード 安田駐車場」の
表示に気づかず、手前を左折したことで30分以上ニュータウンをグルグル回りました。
こんな急勾配を上るとか…想像を超えていました。
ニュータウンニュータウンを結ぶトンネルを何度も行ったり来たりしたのですが、
実は、そのトンネルの上に古い集落があったのです。
もしかして、正面に見えるのが本宮山ですか?
この下の、どこにトンネルがあったのでしょうか?
ブンブン走っていたら、突然「建礼門院之塔」が目に飛び込んできてビックリ!
なんでも建礼門院徳子の異母兄 兼子次郎兼高の墓所なんだそうです。
あ、地図を見たら、さっき何度も通ったトンネルの位置がすぐ先だとわかりました。
本当に無駄な時間を過ごしてしまいました。よほど相性が悪いのかな?
この先にあった「米良釈迦堂」。反対側に案内板。
これが、この道の起点にあれば…。先日タクシーで走った林道は載っていません。
ともかく悪路をひたすら登るしかありません。
この先に「奥宮駐車場」があるので、見えているところまで行ってみましたが、
その先の勾配がきつくて登り切れず引き返しました。
↑ この「奥宮駐車場」も草地でした。↓ 「安田駐車場」はこんな感じ。
しかし、私は大切なものを見落としていました。
下りて来た時に、杖を見つけたんです。
ここから登り始めたら、ズボズボと落ち葉に足が埋もれて、登りはともかく、
下りで足を滑らせた跡(穴!?)が沢山あって、気をつけなきゃと思っていたのに
下りで一度ズルンと滑って転びそうになりました。
かなりストレスフルな「セラピーロード」でした。
これ、道ですか? けっこう勾配がキツいし…。
この坂を目にした時、楽器ケースは重いし、蒸し暑いし、もう嫌になりました。
何で私は我慢して登らないんだろう? 恐らくそれは信仰心がないため。
私はただ古代の雰囲気が残っている場所で古代の歌を演奏してみたい
だけなので、八合目で十分。山頂まで行かなくても良いのです。
 
「本宮社」の本来のご神体は、社殿より西にある巨石群と考えられているため、
山頂まで行けたら数個の石を組み合わせた高さ10m超の磐座を見たかったけど。
往古、磐座の下から清水が湧き出し、その流れが安田川へ合流し、
米良川につながっていったと伝わるそうです。近隣の集落では、戦前まで
旱魃の時にこの磐座の下から湧き出る「御神水」を汲んで持ち帰り、
雨乞いの神事を行なっていたのだとか。
先日タクシーの運転手さんがナビを無視して林道に入った分岐まで下りてきました。
バイクだから楽々登れそう…と思いましたが、やっぱり信仰心がないので
山頂まで行くという選択肢は浮かびませんでした。
鋭角の曲がり角とか(右側の道を登ってきて、すぐ左の坂を上がりました)、落石とか、路面が
苔で滑るため撮影も出来ない悪路を走りたがる私がおかしいのだと気づきました。
ちょっと冒険が過ぎましたね。でも予定していた17時ジャストにバイクを返せました。
本宮山からの下りは先日通った41号線へ出ましたが、徐々に晴れて青空が見えました。
一応、18歳で原付免許を取得してから50年間無事故。
違反は一時停止を怠った2回のみ。
あと少しだけ乗りたいと思っています。
 
本日の夕食も探し歩かなくていいようにホテルで予約しておきました。
昨日より少し奮発して(?)豊後牛の柳川風鍋 3,300円です。
無料のワンドリンクはカボスジュースにしてみましたが、甘過ぎて…パス。
またしても前菜がたくさん。揚げ出し豆腐以外は食べられました。
小麦粉を使わなければいいのではなく、天ぷらと同じ油で揚げたものはダメかな? と。
湯気が上がったら卵を入れて下さいと言われましたが、大分は
フンドーキン醤油でもわかるようにお醤油が甘いので、
汁を残すべく、柳川風ではなく、すき焼き風に食べました。
豊後牛は100g以上入っていたし、3,300円はやはり安いのでは?
 
あと、忘れてましたが、バイク屋さんの近くに春日神がありました。
大分市で一番立派(派手)な神社ではないかと感じました。
今日は夏祭の準備をしているようでした。
↓ こちらは春日大社へ行った時のブログ。