藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

土佐郡土佐町~長岡郡大豊町

おはようございます!
朝5時に部屋の窓から撮影して、8時まで眠りました。
9時に朝ごはんを食べようと部屋を出ました。
中2階に無料ラウンジがありますが、一度も利用していません。
朝食のメインは豊後水道のアジの干物。肉厚ふわふわでした。
 
今日は「高知市土佐山」のオーベルジュから、早明浦ダム方面へ向かいます。
鏡川沿いに仁井田神社が幾つもあったと書きましたが、
地図を見ると、早明浦ダムからの吉野川沿い「長岡郡本山町」にもありました。
早明浦ダムの北から別子銅山方面にかけては新田神社が並んでいます。
やはり仁井田神社新田神社は丹生を暗示しているのでしょうか?
 
また、土佐山の北「土佐郡土佐町」には夥しい数の河内神社があって、
長岡郡大豊町」には海津見神社が地図で確認できるだけでも 7社あります。
四国のド真ん中たる山間部に海神を祀る海津見神社があるとは?
信州の穂高と同じように、海人族が山に拠点を構えたということでしょうか?
なにしろ住所の「大豊町」は、海人族の祖神たる豊玉彦豊玉姫の名を冠し、
大豊町和田」の住所まであるのですから、海人族の一大拠点であったことは
明白です。そして「土佐町和田」には子守神社まで!?
子守(こもり)=籠(こもり・こも・この)=水分(みくまり・みこもり)
弥が上にも紀伊半島の吉野を連想しますね。
もちろん「和田」=ワタツミで、対馬も思い出されます。
 
ただし、高知のワタツミ系神社は、どこも行きづらい場所にあるんです。
一応、運転手さんにお願いしてみますが、何社行けるかわかりません。
 
先ずはオーベルジュからすぐの「土佐山東川」にある子守神社
近くに彼岸花群生地があります。
ここをラウンジから撮っていました。
このオーベルジュは土佐山村の方たちが10年の歳月をかけて作り上げられ、
地元の皆さんがオーベルジュから見える位置に彼岸花を植えたのだそうです。
彼岸花群生地から更に細い道を登り、地元の方にお訊きして子守神社裏に到着。
社殿の正面へまわり込むと、確かに子守神社でした。
下の鳥居からの参道は、最初は階段でしたが、あとは道なき道に見えました。
先端から下を覗くと物凄い急勾配で、雨が滝のように流れる様子が想像できました!?
裏からタクシーで登って来られたのはラッキーでした!
朝一番で演奏修行をしたら、徳島県でよく見かけたツマグロヒョウモンが飛んでました。
ここから山間部をウネウネと1時間以上かけて早明浦ダムまで北上します。
「えええ~~~!?」
「土佐山嫁石ですよ。昔、嫁入り道中の花嫁が腰をかけて休憩した岩と言われてます」
「ずいぶん身体の巨きなお嫁さんだったんですね…」
「高知の山は石灰岩が多いんですよ」
ずうっと眺望が無い道を走っていますが、そこここに巨岩が露出してます。
この山中では唯一の眺望でした!? 次の山に入ってから
「地図に『なんてん展望台』というのがありますが?」とお尋ねすると
「ここですね」と言われ絶句!!
へ?? これが展望台?
すぐ手前の「立割の棚田」は絶景でしたが、停車できるスペースがなく
後続の車に煽られて素通りしてしまいました。…残念です。
ここ「土佐町地蔵寺」の北に早明浦ダムがあり、ダム湖へ出たら左折して
「土佐町和田」へ向かい、和田小学校跡を目指すルートをとります。
地図を見ても道が細いし、はたして到達できるかどうかはわかりません。
かなり登ってますが、人家がほとんど無く、なぜこのように高い場所に
小学校がつくられたのか、皆目見当がつきません…。
え? ここですか?
手前にあるプールは夏のあいだ使われていたのか、落ち葉なども浮いておらず、
きれいな状態でした。体育館もあるし、今も利用されているのかもしれません。
ここから更に細い道を登ります。
この標識の意味が理解できませんでしたが、あとで、子守神社のずっと先に
西和田八幡社が鎮座しているのだとわかりました。
しかし、子守神社が吉野の水分神社からの勧請と書かれていたのは納得できますが、
鎌倉幕府和田義盛の名前が使われているとは…(義盛は「和田」を名乗っていたものの
三浦一族でした。従兄弟の三浦義村の裏切りで敗れた義盛をはじめ一族のほとんどが自刃しています。
他方「土佐町和田」の和田氏は「ワタツミ神」を奉斎する古代海人族ではなかったのでしょうか?)
 
この先、道はますます狭くなり、車一台がやっと通れる幅なのにベテラン運転手さんは
颯爽と走り抜けます。思わず年齢をお尋ねしたら、82歳でした!?
なぜ、このような高地に大きな神社が? と不思議でしたが、地図を見ると
近くに「和田本城跡」があったのでそれなりに栄えた地域だったのかと思ったら、
実際に「本城跡」へ足を運ばれた方が「(和田本城跡の)説明板には東出城跡とあって
子守神社こそが本城跡である」と書いておられました。だから、社地が広い…?
本殿の造りも立派で驚かされました。
周囲をぐるっと回って撮影していたら、クロアゲハが現れました!!
光が強すぎて色が飛んでますね。スケルトンアゲハ?
境内に子守神社の字はありませんでしたが、演奏修行させて頂きました。
さて、我々はこの鳥居の右手からやってきましたが、運転手さんが
「本来は、鳥居から真っ直ぐに進む道が参道ですよね?」と仰います。
当社までの道は地図に載っていないため「そうですねぇ…」と考えていたら
「直進してみましょう」と言いつつ進まれました。
しかし、進めば進むほど道が狭くなり、とうとう金網で進路を阻まれました!?
何度もバックしましょうと進言したのですが、かなりの凸凹道を無理やり
直進して来たため、今さらバックでは引き返せない距離まで来ていました。
「私が金網を開けますから、その先の草むらで方向転換しましょう」と
申し上げると、「私が行くから大丈夫」と言い置いて行かれました。
金網の先はますます狭くなっていたので、ここがラストチャンスとばかり、
とうてい82歳とは思えないハンドル捌きで、エイッと方向転換されました。
あっという間に鳥居までの道を戻って、再び早明浦ダム沿いの道へ。
和田小学校跡を過ぎてすぐ、「桜だ!!」と運転手さんが仰います。
まさか…と思いつつ見たら、10年近く前に吉野で見た「四季桜」に似ていました。
四季桜は、エドヒガンとマメザクラの雑種と推定されるコヒガン系の桜で
春は4月上旬から、秋は10月頃から咲き始め、暖かい場所では冬の間も咲き続けます。
「吉野郡上北山村小橡(ことち)」の水分大明神で見た「四季桜」と
土佐郡土佐町和田」の子守(=水分)神社の近くで見つけた桜。
高知県長岡郡本山町には「北山」の地名もあるし、
この桜はちょっと忘れられませんね…。
 
西日本一の貯水量を誇り、吉野川水系における水資源開発の中核をなす
早明浦ダム(1975年4月~)は、今年管理開始から50周年になります。
早明浦湖の東端には水没した村を見下ろすように八坂神社が鎮座しています。
あまりにも目立たないため、いったん通り過ぎてしまい、引き返して来ても
なかなか見つけられませんでした。
ここでは由緒がわからず、社殿まで行ってみることにしました。
階段を登りつつ、ダム湖を見ると、凄くきれいなブルーでした!
早明浦ダムの建設により、大川村の中心部はダム湖の底に沈みました。
そのとき、当社はどこにあったのでしょう?
やはり足を運んだ甲斐があり、歴史的事実がわかりました。
早明浦部落 代表者のお名前が和田さんと川村さんだったことも興味深い事実でした。
運転手さんから、先ほどの和田集落は和田さんばかりだとおききしていたため。
階段を下りつつ見たダム湖もきれいでした。ダムはいかつく聳えていましたが。
大川村は高知県北部の四国山地に位置し、愛媛県に隣接しています。
愛媛県側には別子銅山高知県側には白滝鉱山がありました。
鉱山開発や林業の最盛期だった1960年代には、大川村の平均所得は
高知県のトップクラスだったそうですが、1972年の白滝鉱山の閉山、
1975年の早明浦ダムの完成・湛水に伴ない人口が激減しました。
ダム渇水時に湖底から姿を現す旧村役場庁舎は、ダム計画反対の
意思表示として、あえて水没予定地に建てられたのだそうです。
 
現在の人口 349人は、四国の自治体で最も少なく、離島を除く
日本の市町村の中では全国最下位に次ぐ少なさなのだとか。
父祖の地を離れて移住された村人の皆さんの心のよりどころと
されているのが八坂神社なのかもしれません。
 
次は同じ道を引き返して「土佐町溜井(ぬるい)」の子守神社へ向かいます。
ここまで土佐郡の2つの子守神社はかなりの難所にありましたが、次も
地図上には道がありません。とりあえずナビの指示通りに進みましたが、
距離的に最も近いお宅で訊いたら「家の裏山の頂上になりますが、
ここからは絶対に登れません」と教えて下さいました。
「車では登れませんか?」
「いや行けますよ。来た道を少し引き返すと、左手に急な登り坂が見えます。
少し走ると右手に倉庫がありますから、そこを左折して道なりに走って下さい」
素晴らしく簡潔なご説明により、無事山頂に着けました!
でも、神社っぽくありませんね…。
山頂の神社に回り舞台のある社殿? なら本殿は?
これはこれは、完璧な覆い屋!
我々は裏から入ってきたようで、反対側に鳥居が見えてます。
こちらが表参道でした。
しかし、どこがこの石段の入り口なのかも見つけられず(それもそのはず、帰宅後、
この石段を下りたけれど出口へ至らず再び石段を登って来た道を引き返したとの話を読みました)
子守神社は 3社ともハードルが高かったです…。
今日の目的の一つ、子守神社 3社は私の予想に反して全社探し当てられました!
そして朝一番の子守神社で見たツマグロヒョウモンに似た蝶が現れました。
保護色のようですね。
山のてっぺんを古代祭祀場に見立てて演奏してみました。
あとは金峯神社のみ。昨日の勝手神社を含め、すべて紀伊半島の吉野にまつわる神社です。
午前10時に出発して早や15時前!?
長岡郡大豊町葛原」の金峯神社への通り道「長岡郡本山町」の
ハーベステラス本山でランチ。この近辺の食堂は営業が13:30までの
お店が多いので、今の時間帯に食事ができるのはここだけです。
しかもグルテンフリーのカレーと高知赤牛、コーヒーは有機栽培と
私にピッタリなんです。実は宿を探していた時、こちらを調べました。
ハーベステラスの左隣が宿泊棟。お風呂は手前の別棟にあります。
「コテージ」は 1棟 6名以内で基本室料 22,750円~に 1名 2,750円~3,300円を加算、
お風呂も食事もない、トイレのみのコテージを 22,750円+2,750円で借りますか?
営業時間は「れいほくの湯」は20:00まで、食事は19:30(Lo.19:00)まで、
これでは到着が遅れたら食事もお風呂もアウトです!?
それで、車で 1時間ほど南に位置するオーベルジュを予約したわけです。
 
さて、ここから吉野川沿いを走って、上がれるかどうかわからない金峯神社へ。
あまりにも道が狭く、約300段という石段の入り口は撮影できませんでしたが、
舗装された車道の急勾配を見て、バイクでは無理と分かっていました。
しかしながら私と同じくらい冒険野郎度の高い82歳の運転手さんが、
「急勾配を300mも登るのはかなりキツいけど頑張る」と、登り切って下さいました!
石段の参道は社殿と一直線になっています。
とても下までは見通せません。
帰宅後、大豊町の資料「信仰と神社、寺院」にあたりました。
金峯神社は大杉葛原シロヤマ鎮座。
葛原(かづらわら)の地名は大和葛城山(かつらぎやま)方面の人が土佐に来て
祖神を祀り葛原の地名が生じたものではないか?
蔵王権現(ざおうごんげん)又は佐王権現という。明治元年金峰(かねみね)神社と改称。
当郡 古田、木能津、助藤、津家、小川、杉、高須、日浦敷の岩、和田、磯谷、
穴内、尾生、谷、川口、下関、上関の惣鎮守とする。
 
ともあれ「吉野のクズ(国栖・九頭・葛)」ゆかりの金峯神社に来られて
よかったです。今まで高知県の何を見ていたのか、印象が一変しました。
 
これまで、海人族には海辺に住んで漁業などを生業とする人々と
山へ上がって製鉄精錬に勤しむ人々が居たと朧げながら想像していました。
古事記』に出てくる神武天皇東征の際に吉野で出会った国津神「井氷鹿(イヒカ)」や
岩を押し分けて現れた「石押分之子(イシオシワクノコ)」は、吉野の先住民たる
国栖(クズ)の祖と考えられています。
ざっくりと「海の物部」「山の物部」と呼ぶ人もいらっしゃるようです。
このあたりを更に詰めていって、コーチ(高知)で大和のコーチ(河内)
吉野との接点を見つけられたら楽しいなぁ…と思っています。
 

無人の大杉駅で特急「南風」を待ちました。
けれど、アンパンマン列車ではありませんでした。
多度津駅ですれ違った高知行きは黄色いアンパンマン列車でした!
 
18時過ぎに宇多津駅の改札を出たら、友人に声を掛けられました!?
まさか迎えに来てくれているとは思わなかったのでビックリ。
それから Yさんにお鮨をご馳走になった上、帰りにはお土産まで!!
Hさんは、お友だちの農園のシャインマスカットが
シーズン最終になったからと、わざわざお取り寄せ下さっていました。
すみません、帰りにちょっと立ち寄らせて頂くつもりが
車で送って頂いて帰宅したら 23時でございました。
ホントに喋り過ぎですね…ごめんなさい!!