水不足の香川県に生まれ育った私は、子供時代から小学校の校庭で
給水車に並んでタンクに水を入れてもらうという体験をしています。
それゆえ「吉野川上水」という言葉に特別な思い入れがあるんです。

貯水された吉野川の水を、国内最大級約8kmの阿讃導水トンネルで
香川県へ運び、農業・水道・工業用水として供給するシステムです。
昭和43年(1968)から工事が進められ、昭和50年(1975)に通水しました。
それが2019年だったか、YAHOO! ニュースに上がっていた巽好幸博士の記事に

日本三大暴れ川と呼びならわされてきました。
ところが、この吉野川が、かつて北へ流れていたことを示す地層が
香川県で見つかったと巽博士は説明しておられます。

讃岐平野の南部、讃岐山脈の北麓には約300万年前に河川で堆積した地層(焼尾層:図1)が
特徴的な石の礫が見つかったのです。三波川変成岩と呼ばれる、地下数10kmから
持ち上げられたベラベラに剥がれやすい岩石です。一方でこれより新しい地層には
この類の岩石は全く含まれず、讃岐山脈を作る砂岩などの礫が堆積しています。
讃岐平野へと、図1に示したような流路で流れ込んでいたことになります。
東へと変えざるを得なくなったのです。
300万年前に、一体何が起きたのでしょうか?
フィリピン海プレートの大方向転換です。
かつては北向きに沈み込んでいたフィリピン海プレートでしたが、
その東の端が地下で巨大な太平洋プレートにぶつかってしまい、押し負けた
フィリピン海プレートが「45度カックン」と、やや西向きに運動方向を変えたため
いわば地盤の古傷とも言える「中央構造線」が横ずれ断層として活動を始めました。
この断層が生じたことで、フィリピン海プレートの南海トラフに直交する成分によって
讃岐山脈が隆起を始めたのでしょう。
もしそうならば、現在の吉野川が大きく方向転換する池田と、かつての北側への
流路の起点であった地点との約20kmの隔たりが、300万年間の
「中央構造線」の断層運動でずれた距離を示すことになります。
割り算をすると年間 1cm弱の猛烈な変位量になりますが、この値は、
過去1〜2万年間に起きた地形の変化から求められた値とほぼ一致するのです。
「中央構造線」は、フィリピン海プレートの斜め沈み込みによって生じる西向き、
つまり南海トラフや構造線と平行な成分(図2のVP)によって、
どんどんと西へとずれているのです。
学者じゃないし、完全に理解できるはずなどありませんが、
「年間1cm弱」ものズレが断層運動によって生じているのだとしたら、
私の生存中だけでも 50cm以上ズレてしまったことになる? と嘆息しました。

1854年の次が1944年なら、90年しか経ってませんよね。
1946年に90年を足せば、次は2036年じゃありませんか!?
ま、そこまでに人生を終えていることを祈るばかりです…。
2019年の桜の季節に ↑ 池田ダムを撮っていました。
2019年2月2日の誕生日着で愛車ZOOMERをStudioAIKAWAへ送ったことで
阿波池田駅は高知方面・徳島方面への乗り換えで立ち寄る機会もあるため、
いつでも吉野川や池田の町並みを見られるだろうと素通りしていました。
ところが、コロナでの自粛を経て、久々に帰省したのは2025年4月でした。
知りましたが、本数が少なく、利用する機会はないだろうと踏んでいました。
それが、高知空港のレンタルバイクが休業中とわかり、全四国で
レンタルバイクを探したら、阿波池田でレンタルバイクの営業が
始まっていたこと、乗り捨てができることなどを知ったのです。
ただ今回のJALの場合、待ち時間が80分もあるためタクシーを利用します。
土曜日とあって、旅行サイトでは駅前のホテルが満室だったにも拘らず、
直接電話を掛けたら「一番広い部屋なら空いています」と言われたので
即決しました!! 運が良ければタクシーで琴平駅へ行き、特急に乗れます。
そして翌日は先月の続きで早明浦ダム周辺を走ろうと決めました。
それが、よもや急に気温が下がり、雨になろうとは…。
しかし、阿波池田行きだけは諦め切れず、仲の良い運転手さんにお願いして
戻るというルートに変更しました。往復とも猪ノ鼻峠を通ります。
我々の世代、池田高校野球部の"さわやかイレブン"は憧れの的でした。
その県立池田高校と三好市立池田中・池田小が並ぶ池田町ウヱノの台地の
すぐ北に池田ダムがあります。ウヱノ台地の南面は「中央構造線」池田断層です。

「千五百河原」が見えるそうで、なぜ阿波に諏訪神社が? と思ったら、
とのことで、祭神はもちろん建御名方神でした。


この河川敷は「千五百河原」と呼ばれ、ダムができるまでは川港として
使われていたそうですが、私的にはこの名称がひっかかります。
もしここが「千五百河原」なら、神社はかつて「千五百神社」だったのでは?
大水上神社の境内地に「千五百皇子社」が鎮座しています。

「中央構造線」「池田断層」「千五百河原」…とても興味深い地域です。
高知に多い「イケ(伊氣・神母)神社」が「イケ(醫家)神社」として鎮座していることも!!
地図上では、「イケ(伊氣)神社」は高知市内を中心に15社以上、
「イケ(神母)神社」も範囲を同じくする地域に25社以上あります。
その高知県の「イケ神社」の北辺から約40kmも離れた池田町に
表記の異なる「醫家(イケ)神社」があると知っては行かずにおられません。
「イケ」の社名や、『記紀』に日本国の美称として登場する
「豊葦原千五百秋瑞穂国」の「千五百(チイホ)」の名をもつ河原に
薄っすらと伊福部氏との関連を感じているからです。
海人族を表わす「豊」+「葦原」+「千五百」+「秋」+「瑞穂」…
神楽歌となった古代歌謡の歌詞にも「葦原田」があります。
「豊葦原千五百秋瑞穂国」の初出は『日本書紀』(720)神代下です。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は是れ、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可き地(くに)なり」
古代歌謡の歌詞の意味すら容易にはつかめませんけれど、
ここも一つの「磯良崎(いそらがさき)」かと思い、演奏修行をしに来ました。

実はここ、ネコちゃん神社だったんですよ!?

私が調絃をし始めたら、シロちゃんとシャムちゃんが擦り寄ってきて
「ねえ、パン持ってないの?」と脅しをかけてきたので、
「何も持ってないよ」と言ったら拍子抜けしたように去ってゆきました。

吉野川を渡って、普通に走ってきたと思っていたのですが、
境内から来た道を見たら、小高い場所にありました。

巨木がたくさんあるし、古代に「千五百河原」と関連づけて
当社を高知(河内)から勧請した可能性が疑われます。

では、今日のメイン、池田ダムへ行ってから帰りましょう。

さっき、南面を撮ったウヱノ台地の北側を下って吉野川沿いの道へ出ると
池田ダムが見えました! 運転手さんも初めてということで、
ダムを渡って対岸へ行けるかどうかわかりません。

「たぶん渡れると思いますよ」という何の根拠もない私の言葉通りに進むと
道がありました! ここを渡って右折したら、猪ノ鼻峠の手前に出られるため
市内の道を走って戻るよりもずっと時短になります。

そして、おそらく吉野川を挟んだこの位置からなら見えるだろうと思っていた
池田高校のあるウヱノ台地が見えました。
これで、私が阿波池田で見たかったものは全て見られました。
悪天候にも拘らず演奏修行もできて、感謝です。
明日の早明浦ダム行きを諦めて、ホテルをキャンセルしましたが、
いずれ再訪して四国山地をレンタルバイクで走ろうと思います。
明日はどんな風が吹くことやら…。