藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古代歌謡と五線譜のミスマッチ

今月末に古代歌謡を収録する予定ですが、
当然ながらエンジニア氏は墨譜が読めません。
予め楽曲を頭に入れていただくためには
五線譜が不可欠。ということで着手したものの、
これが、かのストラヴィンスキー(1882-1971)をして
宮内庁楽部で伝承されている雅楽全曲を五線譜化した
芝祐泰(1898-1982)氏の労作を認めつつも
雅楽の実演と、五線譜化した出版譜は別物である」
との感想を漏らされたほどの難物です。
十代から雅楽を研究分析していた伊福部昭(1914-2006)先生も
「日本の音楽を完璧に五線譜に書き写すのは無理」
と仰せで、自作品に雅楽的要素を生かすこと、それを
西欧の楽器で演奏することの意味を熟考しておられました。
 
実際、古代歌謡をうたいたくても、墨譜だけでは無理です。
墨譜では同じ音型でも、実演が異なる例は少なくありません。
私は師匠の演奏をなぞる形で記憶してゆきました。
『篠波(さざなみ) 本歌』の冒頭。
この箇所は次のように五線譜化されています。
 
この山形が二つ続くのが『薦枕(こもまくら)』の冒頭です。
上の墨譜は右から読みますが、下の五線譜は左から読みます。
最初の山は『篠波』の「さ」と同じ音型なのに、音の数もリズムも違います。
 
そして当たり前ですが、同じ五線譜を見て演奏したとしても
なかなか同じ演奏にはなりません。
 
そもそも古代歌謡は海人族が即興的に歌ったり、
祭祀に用いたりしていたと考えられています。
日本固有のコト(江戸時代に中国渡来の楽箏を改良した俗箏とは別物)
縄文時代弥生時代の遺跡から出土しており、それゆえ
紀元前から琴歌の形で演奏されていたと見做されています。
 
いわば悠揚自在に演奏されてきた古代歌謡ですが、
天武天皇の御代に宮中祭祀に入ったとされ、
大嘗祭での「琴歌神宴(きんかしんえん)」に用いられました。
そして一条天皇の御代(1002)には今に繋がる「御神楽(みかぐら)ノ儀」が
すでにコトと歌というスタイルを脱し、渡来楽器を加えたり、
歌う人数を増やす形で整えられています。
独唱ではなく、大勢で斉唱することで即興性は失われました。
斉唱が不揃いにならないよう、歌のメロディーの装飾音が
簡略化されたであろうことは想像に難くありません。
 
宮中祭祀に用いられることになって、不都合な歌詞は
替えられたり削除されたりしました。
一例として『篠波』の歌詞を挙げておきます。
赤字はカットされた歌詞。青字は替えられた歌詞。
① さゞなみや しかのからさきや みしねつく をみなのよさゝや
それもかも かれもかも いとこせの まいとこせにせむや
② あしはらだの いなつきかにのや おのれさへ よめをえずとてや
さゝげてはおろし(さゝげ) おろし(さゝげ)てはさゝげ かひなげをするや
日本国語大辞典に「稲舂(いなつき)蟹=米搗(こめつき)蟹」とあります。
「いなつきかに」の初出として神楽歌『細波=篠波』の末歌
「蘆原田の 以名津支加仁(イナツキカニ)の や 汝(おのれ)さへ 嫁を得ずとてや
捧げては下(おろ)し や 下しては捧げ や 肱挙(かひなげ)をするや」が
挙げられていますが、「や」の数が現行の歌詞より多いようです。
 
②の歌詞のテーマの一つに「いなつき蟹」が含まれるならば、
米搗きの動作、腕を上げたり下ろしたりする動作を指す
「肱挙」が「捧げては捧げ」では意味が通りません。
 
こうした歌詞の問題や、装飾音の記譜法を考え続けていたら
閉塞状態に陥り、練習すると疲労困憊するようになりました。
そこで、11/3に東京で「木枯らし一号」が吹き荒れ、
気温が急激に下がった気がするものの、古代の雰囲気を
感じられる場所で演奏修行し、現状を打開したいと考えました。
一つには、六弦琴に鯨筋を五本張ったので馴らす意味もあります。
室内でよく鳴っても、屋外だと音が散逸してしまう場合もあるので。

さて、どこへ行きましょうか?
神社は、海人族の古代歌謡を歌うには時代が新し過ぎます。
そこで、以前行ったつもりで、ちゃんと見ていなかった(けど画像があった!?)
布瀬(ふぜ)貝塚で演奏修行しようと思い立ったのです。
6年前は道に迷いましたが、今日は迷わず来られました。
以前は地図に道が無く、この高さにある香取鳥見両神にだけ行きました。
今日はナビが左折せよと指示しています。
左折…すなわち「香取海」まで下りると、未舗装路でした。
だから地図に載っていなかったのでしょうか?
道の左手に貝塚らしきものが見えてきました!!
近づくと、物凄い埋蔵量(!?)です。
ざらしで、よく状態が保てるものですね…。
目の前には「香取海」が広がっています。
紀元前から大勢の人がこのシマで暮らしていたのでしょう。
しかも関東では鹿島に近い地域からだけ五弦のコトが出土しています。
志賀島→鹿島ということで、北部九州の海人族の歌を演奏してみますと
さすが「香取海」パワーとでも申しますか、歌ったら頭がスッキリし、
五線譜での記譜も何とかなりそうな気がしてきました。
南面しつつ演奏したのち、ぐるっと北にまわって走っていると、
さっきの台地が「香取海」に浮かぶシマだったと実感できます。
そして、次のシマに「北ノ作1・2号墳」があるらしいので、
かつての「香取海」の沿岸部を約4km直進しています。
柿がたわわに実っていますね。本州で唯一、クマが生息していないと言われる
千葉県なので、木に登って柿を食べるクマはいません。
「北ノ作1・2号墳」方面へ回り込むと、さっきの柿の木が見えました。
しかし、ここが「北ノ作1・2号墳」とは…!?
薮へ分け入る趣味は無いので、ここで退散いたします。
何より、マダニが最も活躍するのは10月11月なのだそうです。
ただ、せっかくここまで来たので、先月帰省の折に行った
「妙見=天御中主命」について知りたく、我孫子市総鎮守の
柴崎神社まで足を延ばすことにしました。
手賀あけぼの橋(手賀沼調節水門管理橋)を見ながら手賀川を渡ってます。
ホームページの社伝を読んでも来歴がよくわからないのですが、
地名をとって柴崎神社と称したのが明治13年(1880)で、
妙見社の号を北星社に改称したのが明治4年(1862)と書かれていました。
現在、当社が管理する北星神社我孫子市台田にあるそうです。
妙見について学びたく思いましたが、よく整備された、
地域の立派な神社という以上の気づきはありませんでした。
古い石祠などは隅にまとめられていました。
歴史を感じさせる空間ですら、石畳を敷き詰めて歩きやすくなっています。
昔からの丘を利用し、残すべきものは残して、昭和62年に総改築され、
神明造の近代的な社殿が造営されたのだとわかりました。
駐車場から下りてきた時、ここが旧水戸街道沿いの神社だと気づきました。
 
結局のところ、空海が祀った妙見と、鎌倉時代以降に武士の守護神として
広がった妙見信仰は、別物だったようです。
とくに関東では、北条氏に上総千葉氏を滅ぼされ、領地を奪われた千葉氏が
一族の団結を図って危機を乗り越えるべく、北辰妙見を甲冑をまとい剣を持つ
勇壮な軍神として顕現させるという独自の解釈で発展しています。
 
古代歌謡とは全く無関係の寄り道をしてしまいましたが、
外の空気を吸ったことで、一日中家の中で唸っているよりも
楽曲のつくりや演奏法に迫れた気がいたします。
月末まで、また気の向くままにバイクで走りたく思います。
ミニミニ演奏修行でした。