亀山のホテルに泊まったのは、鈴鹿峠を越えるためでした。
が、片山神社は1999年の放火で社殿が消失してしまったとか。
焼け残った神楽殿も崩れ果てるのを待つのみといった状況でした…。
早く社殿のあった場所を見たくて、先頭を切って階段を上る私。
やはり、最高部にあったはずの社殿は無い…。
さきほどの案内板にあった『室町殿伊勢参宮記』(1424)の
「鈴鹿姫と申す小社の前に」というのが、左手奥の祠でしょうか?
わかっていたこととはいえ、現実を目の当たりにすると落胆しますね。
と思ったので立ち寄りました。
とても立派な造りです。しかも右手に犬が!?
猟犬ですって。空海みたいですね。
「三上三郎」なる人物が実在したのか創作なのかは不明ですが、
御上神社とのつながりはわかりました。
大河原北土山線をさらに北上し、野洲川ダムから琵琶湖方面へ左折。
雰囲気が吉野の金峯神社に似てますね。
奥の階段を上ったら、さらなる階段の上に本殿が見えました。
本殿前で演奏しているところを階段の下から撮ってくれましたが、
カメラの性能が良いせいか、カラフルな光が写り込んでしまっています。
いつもこんな画像ばかりなのでボツにするほかなく、そんな一例をup。
実はここから西へ下って「日野」駅から近江鉄道に乗り
二手に分かれる予定だったのに、何とギリギリ遅れてしまい、
次の電車に乗れる場所までタクシーで行くほかなくなってしまいました!?
そもそも倭琴が二面入るケースを引っ張りながら電車に乗るなんて
無謀だったわけで、ずっとうら若きお嬢さんに持って頂いてました。
それゆえタクシーで移動することに決めたら気が楽になりました。
あとはiPadで地図を見ながら風まかせです。
しかしながら、昼間は1時間に1本の近江鉄道なので、
まずは桜川駅近くの勝手神社に立ち寄りました。
うわぁ、きれいな藤です!!
社名は地図とは違い、子守勝手神社でした。
次の駅「京セラ前」の近くには玉緒神社。
驚くほど立派な神社ですね…。
あまりに立派なので祭神を調べたら素盞鳴尊?
社伝によると、大宝年間の勧請? どこから?
中古は玉尾神社、明治初年頃より玉緒神社となる。ですって。
読んでも何もわからない社伝って、意味あります…?
え?! 大津に建部大社があるのに?
社殿に向かって左手に山があり、もし御神体山ならばなぜ
それを背後に社殿が建てられていないのか…不思議でした。
神殿を建立し建部新宮と号し建部の荘17ヶ村の氏神として(中略)建部祭礼を営む。
白鳳4年(675)に栗太郡へ移したというのが瀬田の建部大社ですね?
ここが元宮だったということになっているのでしょう。
さらに北上し、同じく五個荘七里町の五箇(ごか)神社です。
参道の狭さからは想像もつかないほど立派な神楽殿があり驚きました。
さっき行った玉緒神社に似てますね。
演奏修行していたら、上からパッカパッカ…大音響が聞こえるではありませんか?!
Nちゃんも気になったらしく、子育て中の蒼鷺さまを撮ってくれてました。
「静かに子育てしてるのに邪魔だわ!!」とお怒りのご様子。失礼しました。
「岩船」があるらしい…ということで坂を少し登ってみました。
古墳よりは磐境祭祀の方が古いような気もしますが、
「岩船」は神亀5年(728)に対岸の高島比良の山から琵琶湖を渡ってきたそうですよ?!
いやいや、この国には「ホント(正気)ですか?」と訊きたくなることばかり。
よもや「岩船」が社殿を建てて祀ってくれと言ったとは思えないのですが?
信仰心のない私は「岩船」に乗って演奏したかった…!?
人目もあって、返す返すも残念でした。
そろそろ明日の高松での奉納演奏の準備もあるので帰省の途についた方が
よさそうですね。東京へ戻るNちゃんともお別れです。
路線情報を見て「安土」から乗ることにし、駅近くの大己貴神社へ。
これは…広大な社地ですね。安土瓢箪山古墳に隣接し古社らしい雰囲気もあります。
今は小ぢんまりとした社殿のみですが、奥行きもあって
かつては「安土」の一大勢力だったかも知れません。
ようやく、特急しおかぜに乗りました。
昨日の夕方から京都駅まで、自分では和琴ケースを持っていないのに
座ったとたん異常に腰が痛く、クビもまわりません!?
朝起きてリュックを背負った時も両肩がすごく痛かったし、今後は
倭琴二面を持参する仕事はお断りするしかないと痛感しています。
15kg超のリュックを背負い、15kg超の和琴ケースを運んで
演奏するのは負担が重すぎます。年寄りの冷や水!? というわけで
ヨーロッパ行きも(小麦アレルギーもあるので)当分のあいだ控えます。
あ、もうすぐ宇多津です。明日の打ち合わせに行かなくては!