完敗の一日でした。
雷雨の中わざわざ出掛けたのに知識の浅さに因る誤解が露呈したのです。
でも、間違いに気づけたので一歩前進…かな?
最近のテーマは「まつろわぬ民」「さへぎる民」「土蜘蛛」「鬼」etc.
関東から東北にかけて征討された民を祀ったのが「星」のつく神社と
書かれた本があったので「甕星(みかぼし)香々背男」と同一視していました。
かの大甕神社の「甕星香々背男」=日本神話で悪神と明記された天津甕星。
「甕(みか)」と言えば甕棺墓(かめかんぼ)を連想します。
縄文時代の遺跡から甕棺墓の風習が東北~近畿~九州の各地にあったと判明。
弥生時代前期までは小児が甕棺で埋葬されていましたが、
前期から中期にかけて北部九州で成人専用の甕棺が作られ始めました。
成人用の「大甕」を造る技術は北部九州でしか確認できていないそうです。
北部九州の代表的な民といえば志賀の海人。
1万年とも言われる外洋航海史をもつ日本の海人族の中の有力氏族で、
常陸国鹿島の源流は志賀(鹿)の海人にあったとするのが定説です。
それで私は常陸国に大甕神社があるのも「大甕」を造る技術をもつ
北部九州の海人族が移住したためだと思い込んでいました。
先日「久地楽神社」へ行ってから「クジラ・クシラ・クシ」が気になり
地図を見ていたら「䦰(くじ)神社」がありました。
近くの「星宮(ほしのみや)神社」の参道にあるというので行ってみました。
曲がる場所を間違えたため、「䦰神社」ではなく、先ず「星宮神社」。
あれまあ、とても負け組とは思えない立派な神社じゃありませんか!?
由緒書を読むと、
「延長2年(924)正月13日肥後ノ国八代郡八代の神社から勧請して祀った」!?
これじゃあ土着の「まつろわぬ民」とは無関係ですよね。
しかも祭神は甕星ではなく天御中主命?
「天の真中とは北斗七星(北極星)と考えられ」って、妙見信仰ですか?
ともあれ「甕星香々背男」ではないとわかったので「䦰神社」を探します。
あれま!? こんなところに突然ポツンと空海の祠ですか。
ではここを曲がってみましょう。
おおお、まるで異次元への入口のようです。
うわっ?! と思わず声が出てしまいました。恐らくここでしょう。
真新しい石柱が建っています。難しい字です(書けません…)。
階段を上ってみましたが、怖くて祠までは行かれません。
望遠レンズで撮ってみますと「しゃもじ」が!!
「しゃもじ」に願い事を書いて奉納するのはミシャグジ様でしょう。
「クジラ」の「クジ」じゃなくて「ミシャグジ」の「クジ」だったとは!!
またしても勘違い。ですが、「ミシャグジ」は縄文の神なのでよしとしましょう。
とはいえ、たぶん古墳(墳墓)だと思われるので階段の半分から上へは行けません。
階段の真中あたりで演奏することにしました。
こわごわ演奏し、ちょうど最後の一節にさしかかった時、こともあろうに
細くて小さな白い蛇が一段上に置いた倭琴ケースの下から出てきて
私の敷いているプチプチの下に入ってゆくではありませんか!?
先日、蜂が落ちてきたショックで演奏を間違えてとまったばかりなので
今日はとまらないよう頑張りましたが、一瞬にして声がかすれてしまいました。
今にも途切れそうなガラガラ声でしたが、何とか終われました。
自分の未熟さに嫌気がさし、ここで帰ろうかと思いましたが、
悪天候の中、もう一社まわることにし、グルグル迷いました。
道路にはみ出した樹木の内側に御嶽(おんたけ)神社があるはずなのですが?
引き返して路地を入り、鳥居を見つけました。
しかし、この〆縄!? 独自のスタイルなんでしょうか?
修験が禁止された明治初年に○○権現と名乗れなくなりました。
改称した際の名称の違いは何に由来していたのか?を調べています。
当社の場合、「寛治6年(1092)9月、大和金御岳の蔵王権現の分霊を遷祀」とあり、
明治以降、社名変更と同時に、こうした祭神の変化が見られるようです。
それゆえ、なかなか実態が見えてこないのでしょう。
どうしましょう? 今後の研究と演奏修行。