花輪台のヴィーナスが発掘された場所へ行ってきました!
現地へ行ってみると、新興住宅地の中にこの丘だけがぽっかりと残っていました。
まるで古代の祭祀場のような丸い台地に立つと周囲の家々が見えます。
そしてこの貝層の下には縄文時代早期の竪穴住居址群が眠っているそうです。
でも地面に座ると、一番高い土地だけあって、蝶々と私だけ?!
ずう~っと座っていたい場所ながら、ここが古代祭祀の場であったと仮定すれば
縄文人が「日」と「月」をその対象としていたであろうことが想像されます。
太陽神=昼目歌を練習するチャンスだわ!! と気づき、楽器を出しました。
ここが今日の舞台です。
いかばかり よきわざしてか 天(あま)照るや
ひるめの神を しばし止(とど)めむ しばし止めむ
いづこにか 駒を繋がむ 朝日子が
さすや丘べの 玉笹の上に 玉笹の上に
う~~む、まさに朝日も夕陽も存分に降りそそぐ丘の上でした。
名残惜しさをふりはらいつつ丘を下ります…。
ここはまるで桜井の土舞台のような感じでした。
土舞台は推古天皇20年(612年)、日本で初めて伎楽を奏したとされる場所です。
それを見た聖徳太子が少年を集めてこの地で習わしめたということです。
けれど土舞台はもっと前から存在していたはずで、花輪台ともども
古代人の祭祀場だったのではないかと思えます。
バイクで走っている途中、いくつか目にとまった場所へ立ち寄りました。
たしかに鳥居も社殿もあるのですが、社殿の裏というか奥にあるコレ↓
よくわかりませんが、古代祭祀っぽい?
この右手奥には古墳のような大きいこんもりも広がっているし…
と考えながら花輪台貝塚方面へ走りつつ振り向くと↓
まさにこの左側のこんもり!(古墳とのデータは見つけられませんでしたが…)
かつては人里離れた丘の上にあり、登る人も少なかったけれど
高台に町ができて道路が通ったので本殿に裏から行けるようになったのだとか。
北にもこんもりがあったので行ってみました。
こちらも古墳っぽく見えましたが?
「天照」は「アマテラス」ではなく「アマテル」のような気がします。
上掲の《昼目歌》の歌詞も「アマテル」でした。
つまるところ花輪台貝塚を頂点として、それを囲むように平野の中に
ポツンポツンと目立つこんもりがあったわけです(今は住宅が密集していますが)。
何の根拠もないけれど、祭祀の場を集落がグルリと囲むのが
縄文晩期のクニの形だったのかなぁ…?
ニッポニカによれば、
昭和21年(1946)と23年(1948)の発掘時に、方形の竪穴住居址5軒と縄文土器、
土偶、土錘(どすい)、石鏃(せきぞく)、磨製石斧(せきふ)、骨鏃(こつぞく)、やす、
釣り針、イモガイ製垂飾品(すいしょくひん)が出土している。
早期中葉の花輪台式土器は撚糸文(よりいともん)、羽状縄文と無文、
凹線(おうせん)文の尖底(せんてい)深鉢で、Ⅰ式とⅡ式に分類されている。
エイの魚骨もあり、海進が進み花輪台付近が利根川河口であったことを示す。
とのことです。
花輪台貝塚って「ハニワダイ」を美称して「花輪台」にしたんじゃない?
地元の資料をまとめるとこのような流れになるそうです。
BC7500―早尾塙台(花輪台貝塚)に縄文早期人が居住。
BC4000―海面上昇が進み(縄文海進)、花輪台縄文人が移住。
BC3500―海退現象はじまる。
BC2500―立木(立木貝塚)に縄文後期人居住。
BC 500―布川(布川貝塚)に縄文晩期人居住。