藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

紀伊国 2

和歌山市紀の川市中央構造線紀の川の北部に位置しています。
そこで先ずは海南市から紀の川南岸を目指して北上する道々、
今回を逃したら二度と来ないであろうと思われる神社へ立ち寄ってみました。
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うわぁ~最高ですね、こういう景色! 大好きです。
道はもう農道と言うか、車一台通るのがやっと!! 右折左折にも時間がかかります。
地図に國主(くぬし)神社とあり、「くづ」じゃないんだ…と思って検索したら
明治以前は「九頭(くづ)」だったとわかりました。
突き当たりをどちらへ曲がればよいのかわからず、運転手さんに待機して貰って
細い坂道を上っていったら鳥居が見えてきました。
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お!? ↑「上の宮」と書かれた小さな標があります。
すると、ここは國主神社の「上の宮」なんですね。
どうやら住吉神社などが祀られているようです。
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住吉神社なら安曇磯良でよいのかしら?
と、数年振りに《磯等》を演ってみたら、スラスラと歌えました(安堵…)
思いがけず人里離れた「上の宮」へ行けてラッキーでした。
 
ここから北西に数分走ると道路脇に「武内宿禰 誕生ノ井」がありました。
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享保年間(1716-1736)に囲いが造られ、現在は覆屋におさめられています。
 そもそも武内宿禰が実在したのか、はたまた世襲だったのか、さまざまな説があるようですが、それを問題視しても始まりません。
 母方が紀伊国造家の出自であったとされる武内宿禰の存在を強調することで紀氏が朝廷との繋がりを大切にしていたことがわかりますし、紀州徳川家が200年以上ものあいだ天皇家に忠誠を尽くした長寿の人にあやかって代々この井戸の水を産湯として使っていたというのも面白い。
 紀州らしい史跡を見られて大満足でした。
今はこんな感じ(覆屋の窓の棧からカメラを入れて撮りました)
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さらに北上して向かったのは小倉神社上小倉神社
明治の神仏分離と一村一社の合祀令で社名が意味をなさなくなっています。
祖神を祀る縄文の信仰から遠く遠くかけ離れたことを痛感せざるを得ません。
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こ、これは、馬場ではありませんか?!
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「古は明神の神幸ありし地なりとぞ境内の外に二町の馬場今にあり」と
紀伊風土記』巻三十五の「那賀郡 小倉荘 金谷村 蔵王権現」の項にあります。
けれど、地図では小倉神社になっていたので確かめに来ました。
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この社殿の真向かいのこんもりに境内摂社のような小さな社がありました。
蔵王権現を金峯山より勧請して一地に祭りしより今は社地の内の小堂の如く
になれり」とあるので間違いありません。馬場に面したこれが蔵王権現でしょう。
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ここは小高い丘で、かつては金峯山とも呼ばれていたそうです。
 
この丘から下って更に北東へ進むと上小倉神社が見えてきます。
社名はやはりどうでもよく、社頭の石灯籠に「九頭大明神」とありました。
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ものすごく立派な社殿でビックリです!!
そしてもっとビックリなのがこちら↓
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蔵王権現にあったらしい…。
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非常に読みづらいのですが、「新庄山」の別名が「金峯山」なら
小倉神社が建つ前に立派な蔵王権現があり、そこに置かれていたことになります。
光恩寺とも近いので先の蔵王権現でほぼ間違いないでしょう。
 
人が勝手に神を作り、社を建て、名前をつけ、祭神や社名を変えてきたのが
日本の神道の歴史ですか…。
正統でないものは長い歳月の中で輝きを失ってゆくのではないかと思われますが。
神の流転は、しかし、氏族の勢力図や移動を考える上で役立ちます。
上書きされた社名や社伝や祭神を信じていては大元の祭祀が見えてきません。
やっぱり現地へ足を運んでみないと…
ということで詳しく見ていたら呆気なく時間切れとなった旅でした。
 
紀の川を渡って、これからという時に行った風市森神社が最後となりました。
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丹生を塗られた愛らしい本殿に対し、おそろしく広い拝殿でした。
そして社殿は南向き。やはり紀の川から直接あがってこられる位置にありました。
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