今日のテーマは以前から取り組んでいるヤト・ヤツ討伐です。
常陸国はまだありません。
荒ぶる賊を従わせるため、建借間命(たけかしまのみこと)を派遣。
そこでは二人の国栖(くず)、夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)が長となって
穴を掘り、小城を造って住んでいました。
官軍を見ると抵抗し、建借間命が兵を放つと、賊は一斉に小城に逃げ帰り
門を固く閉じて立て篭もります。
建借間命は一計を案じ、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませました。
次に武器を造って渚に並べておいて、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を
雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)を波音と
調べ合わせて潮と流し、杵島(きしま)ぶりの歌を七日七夜うたい踊って、遊び
楽しんだのです。
楽しい歌舞を聞いた賊どもは家族もろとも揃って出て来て、浜辺に群れて
喜んで笑っていました。
その隙に、建借間命は潜ませておいた兵に小城を封鎖させ、背後から賊を
襲って捕らえ、火を放って滅ぼしたのです。
この行方郡でのやり方から、つい那珂郡での殺戮を想像してしまう私です。
建借間命の武勇談として頼もしく感じる人や、逆に
悲惨な歴史として辛く感じる人などがおられることでしょう。
茨城町谷田部の殿部神社に着きました。
創建は長徳元年(995)、古墳は6世紀の築造だそうです。
古墳…と言ってますけど、蜘蛛窟じゃないんですか?
反対側の参道にまわって見て固まっています。
こんな階段…登れないでしょ!?
一社目から強烈すぎてダメ…。
でも今日で当分のあいだ演奏修行はお休みしなくてはなりませんから…。
こちら『和名抄』に「八部(やたべ)郷」の本郷とある「谷田部」の殿部神社古墳、
現住所も「谷田部」ということで、ヤト・ヤツを連想してしまった私でした。
ここから笠間へ向かうため、次は通り道にあった笠原神社へ。
以前、水戸市の同名の神社へ行ったことがありました。
それでご近所の方がいらしたので祭神を尋ねてみましたが御存知なく、
拝殿の裏にあったのは稲荷でした。
どこへ行っても元の祭神がわからなくなっていますね(それとも隠してる?)。
さて、笠間の大井神社です。
以前、参道まで来た際に、先が舗装されていないからとタクシーの運転手さんに
断られただけあって酷いヌカルミでした(その日は歩く元気が残っていませんでした)。
泥でズルズル滑りながら行ったら、大井神社じゃない!?
太郎明神て何ですねん?!
まだ常陸国がない頃、初代「仲国造」になったという建借間命を祀る
水戸市の大井神社と比較するためにやって来たのに…。
こちらが水戸市の大井神社です。
現住所の「水戸市飯富町」は
建借馬の出身地とされる九州は肥の国の意冨臣(おふのおみ)から
意冨→飫冨→飯富と変じたとも言われているそうです。
そして社名は意冨比(おほひ)神社から大井神社に転じたとの説があるそうですが、
大井なら「おほひ」ではなく「おほゐ」です。
とても納得できません。第一、元宮は↓この有り様ですよ。
これが、意冨臣の祖神に敬意を表している姿でしょうか?
奥の奇妙なオブジェを見に行ったら、顔もカメラも蜘蛛の巣だらけになりました。
水戸の大井神社には見たことの無いオブジェがたくさんあって驚きました。
こちらもその一つ↓
出雲地方で見られる藁蛇に捧げる御幣のようなものを覆っているのでしょうか?
こちらが阿太加夜神社と揖夜神社の藁蛇の祀り方です。
今回、延喜式内社「大井神社」を名乗る水戸と笠間の二つの大井神社を
見に行ったところ、両社はそもそも祭神が異なっていました。
笠間の大井神社(太郎明神)の祭神は神八井耳命。
太郎とは神武天皇の長男とか頭領とかを暗示しているのかも知れません。
常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする)
水戸の大井神社は社伝に「奈良時代に宇治部氏が建借馬命を奉祭」とありますが、
やはり光圀公はやりたい放題ですね。
もはや何でもアリの日本の神社?
本日にて私の「倭琴の旅」は小休止。
10kg超のケースを背負っての山歩きに復帰できるかどうは未知数です。
けれど、まだ《其の駒 三度拍子&揚拍子》も《朝倉》も
歌にふさわしい場を見つけて演奏できていません。
自動車で言えば教習所でのみ乗っている状態!?
できれば一般道を走りたい!