藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

我孫子

前々から興味のあった地名「我孫子」へ行ってみることに。
アビコ」はアイヌ語地名だと聞いていたのですけれど…?
我孫子市史』によれば縄文晩期~弥生後期までの800年間にわたり
遺跡が見つかっていないことからアイヌ語地名説は低調のようです。
 
印西市の白鳥飛来地へ行く時に通った「安食(あじき)卜杭(ぼっくい)」、
「酒直(さかなほ)卜杭」という地名にも興味をひかれています。
印西市東洋経済新報社「住みよさランキング2016」の1位に輝いたとか!?
 
「安食卜杭」については
寛文年間(1661-73)に安食村卜杭野を開発して安食卜杭新田が成立。
「安食」はアイヌ語由来の「アシ(崖)・クィ(処)」で崖地という意味。
「卜杭」は「傍杭」で境界を示す傍示戸があったことから名付けられたか?
との説がありました。
しかし、江戸時代にはすでに「卜杭野」があったんですよね?
 
ジキボックイ」に関して、私は水戸の「アボッケ」を連想してしまいます。
 
アビコ」の場合も、「クィ・ケ・コ」は「処・所」として、
「アバ・アビ・アブ・アボ」という崩壊地形をあらわす言葉と
連結した地名と考えられないでしょうか?
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今日、最初に見た高野山桃山公園内の前原古墳群です。
手賀沼沿いに走ると、ずっとこんな景色が続きます。
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↑左を見れば手賀沼、右を見れば崖↓。
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古墳群を見るには崖地を登る必要があります。
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急勾配を少し上がったところで撮影。
もっと上ると人家があって手賀沼が撮れません。
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あ?! あれは…。ビッシリと民家に囲まれて、どこから入れるのかわかりません。
左折する道がなかったので右折すると、また古墳がありました!
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す、すごい!! 巨大です。これが香取神社古墳群でしょうか?
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右を見たら社殿がありました。
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正面にまわって「香取大神」の扁額を確認。
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古墳の前にはこんな標識がありました。
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社叢大好き人間の私にとっては最高の場所です!
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かなり小さめの、こちらは2号墳のようです。
1号墳の社殿側に「伊勢太々御神楽奉奏紀念」の石碑がありました。
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↓こういうものですかね?
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かなり趣が違いますが、今日の舞台はここにしました。
さて、さっきの周囲を住宅に囲まれた古墳を見られる場所を探します。
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住宅街をクネクネと曲がって看板を見つけました。
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さすが我孫子市内最大の古墳ですね…。全景を撮ることはできません。
4世紀末頃に築造された全長約65mの前方後円古墳だそうです。
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しかも、こんなにきれいなガラス玉が埋葬されていたんですよ(欲しい!!)。
実は先にこの画像を見て水神山古墳へ行きたい! と思ったのでした。
 
我孫子市では宅地造成のたびにたくさんの埋蔵物が出て
出土品や調査結果がまとめられていますが、結果的に
「消滅」した遺跡が少なくありません。
次の子の神古墳群は一部残存しているものの、ナビが案内してくれません。
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これではナビもどこへ案内してよいか判断がつきませんよね…。
この↑「子の神古墳群全体」図(1969『我孫子古墳群』より)を見ると
私は一番右の14号墳へ行ったようです。そこはお墓でした!?
現在は「子之神大黒天延寿院」の中に位置しているようです。
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周囲のお墓をぐるぐる廻ったのに、これが古墳とはわかりませんでした。
帰宅後に検索したら、
「もとは13基の円墳と1基の前方後円墳で構成されていました。
現在は5基の円墳と前方後円墳1基が残っています。
6世紀に築造されたようです」とありました。
とても得るものが大きかったとは言えないプチ旅でした。
よく調べないでフラッと行くとダメですね…。
 
帰途、走っていたらこういうもの↓が目に入りました。
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取り敢えず写真を撮り、帰宅後調べました。
志賀直哉は『白樺』(1910-23)同人の柳宗悦から我孫子の売り家を勧められ、
生涯はじめての持ち家として25,6坪の茅葺の家を即決で購入しています。
大正4年(1915) 9月、3部屋を増築して我孫子住まいを始めた直哉は、
のちに崖の上と邸内に書斎を作り、この地にて『城の崎にて』『和解』
小僧の神様』『暗夜行路(途中まで)』を執筆したそうです。
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母屋は既に無く、茶室風書斎のみが当時の庭木の中へ移築されていました。
 
かつて「水戸街道」の宿場町だった我孫子は、手賀沼を見渡せる
静かな環境が別荘地として人気を博し、大正時代には
多くの文化人が移り住んで「北の鎌倉」とも呼ばれていたそうです。
志賀直哉邸跡へ立ち寄ったことで武者小路実篤邸があった理由もわかりました。
武者小路実篤我孫子へ誘ったのが志賀直哉で、
志賀直哉我孫子へ誘ったのが柳宗悦柳宗悦嘉納治五郎の甥で、
天神坂にあった嘉納の別荘の向かいに住んでいました。
『白樺』つながりだったんですね…。
関東大震災(1923年9月1日)の発生により『白樺』は廃刊。
同年、志賀直哉我孫子を去っています。
 
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