徳島2日目の今日(8/19)は
経営しておられた神山スキーランドホテルで友人と待ち合わせ。
うわぁ~きれいな水の色!!
振り向くと神山スキーランドホテルがありました。
ド迫力ですが、営業されているのでしょうか?
ここへ来たのは近くに三足鳥居の稲飯神社があると知ったからです。
う~ん、新しい建造物なので当地に「ウガヤ朝があった」と言われても
困りますね…。そして↓これが地中氏の仰る神山文字なのでしょうか?
これは…?! トンデモと言われるのも無理からぬことかも?
神山スキーランドホテルで購入した地中孝著『かみやまの啓示録』によれば
神山に存在した神代文字ということになるようですが。
そして地中氏が「ウガヤ朝」の存在を主張する神山にも三足鳥居?
ということで、ウガヤフキアヘズノ命と同一視されることの多い
アヅミノイソラの神楽歌を演奏してみました。
佐那河内村周辺を治めていたのが海犬養連で、
8月に国々に設置された犬養部に、県犬養連、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連
の4氏が存在したということなので、対馬を拠点の一つとし、三足鳥居をもつ
阿曇犬養連が神山を治めた可能性があるのか? と思ったりしたわけです。
ここから一路 木屋平(こやだいら)へ。
奥の住職(?)宅で質問したら、現在は伝わっていないとのこと!?
不動明王はいったいどこへ行ってしまったのでしょう?
今日はここから438号線沿いの神社で演奏修行しつつ剣神社を目指します。
これはまた…!? とても人用とは思えない石段です。
脇道を上って社殿の高さから見た鳥居。真ん中が盛り上がって下が見えません。
高台に建つ当社は瀧宮神社。
真新しい御神輿が鎮座していました。
次は川上神社と妙見神社が道沿いに並ぶ川上地区へ。
川上神社から妙見神社を見ると、社殿よりも巨磐に目を奪われます!!
そして川上神社の御神体も巨磐?
神社だけでなく、棚田にも生かされていました。
さらに進むと剣山本宮槇渕神社がありましたが、以前
社殿が流されたそうで、不思議な形になっていました。
奥の囲いの中が気になりますが?
こののち、剣神社を探して彷徨う中で、再び槇渕神社の名を見ました。
ここから先は細い登り道に入ります。一応舗装路ですが、ずっとまっ縦でした!?
さあ、いよいよ地図上の剣神社の入り口まで上がってきました!
絶景ですが、剣神社が見当たりません。
剣山金剛院藤之池本坊?
左手には「当山派 修験道根本道場」とあります。
地図上ではもっと奥に剣神社があったので、ここからは入らず
再びタクシーに戻って舗装されていない道をどんどん登って貰います。
この登山道を歩く男性が居たので訊いてみましたが、
「下の寺に駐車して歩いてきたけれど、神社はありませんでした」とのこと。
諦めて駐車場まで降りて、さきほどの剣山金剛院藤之池本坊へ入りました。
少し上ると、左手に藤之池八大龍王がありました。
右手には階段が見えます。
この奥まで入ってみましたが、やはり剣神社はありません。
Google Maps を見ると、ここの画像が剣神社としてupされていました。
結局剣神社は見つからず、予定を1時間半オーバーして龍光寺へ戻りました。
友人がここに車を置き、私が徳島駅から乗っていった小型タクシーに
3人で乗って剣神社へ行ったのち、友人の車に乗って香川県を目指しました。
途中、重要文化財「三木家」住宅へ立ち寄りました。
大嘗祭を控え、麻を植える準備が行われていました。
ここに麻を植えたら、二重に囲いをして、監視体制が敷かれるそうです。
資料室も拝見しました。
すぐ上には三ツ木八幡神社がありました。
標高552mの高地にあって、創建は「吉野朝時代」?!
「大嘗祭」が区別されるようになった天武2年(673)とは年代に開きがありますね。
1464年から桜町天皇の1735年に至る270年間は中断されていました。
きわめて稀だったということになりましょう。
すると、それ以前は現在の松阪市阿波曽から貢進されていた可能性があるかも?!
ここからは一気に讃岐を目指したいところですが、元駐日イスラエル大使の
エリー・コーエン氏が訪れたという白人神社や奥宮の神明神社が気になります。
徳島県に多い白人神社ですが、未だ他県では目にしていません。
いざ、奥宮へ。
何と一日の最後に150段超の石段です!?
わが国の古代祭祀場としては理想的な地形ですが。
このような祭壇(?)が5基ありました。
神山~木屋平~穴吹と、やたら石積みを目にしました。
これをイスラエル式と言うも朝鮮式と言うも自由?
こののち高松から電車で帰るつもりが、宇多津まで送って頂きました。
同行して下さった方々に御礼を申し上げます。