以前からずっと、神崎神社方面から西へ戻る時に気になっていたこんもり。
小さいのに形が似ているためか必ず「えっ?! まだ神崎?」と驚いてしまいます。
今日はその台地を目指しました。
踏切を渡って直進すると、まさしく崖地!
この先の坂を登りつつ振り返ると↓
画像左端の建物が印西市立木下交流の杜歴史資料センターでしょう。
以前から気になっていた地名や地形を確認するためにやってきました。
うわぁ~、これぞ字(あざ)名の通り「平台」ですね。
旧千葉県立印旛高等学校の跡地とあるだけでそれ以前はわかりませんが、
右折すると歴史資料センターがあります。手前の左手が気になりますが。
古代人の居住区? と探索したい気持ちを抑えつつ、今日は素通り。
真面目に歴史資料センターへ行って展示を見、図録を4冊買って
学芸員さんに質問しました。
本題はもちろん「木下」の地名です。
学芸員さんによれば、ここ「木下河岸」は奥の(現)「竹袋」から木をおろして
積み出す拠点だったため、「きおろし」と呼ばれたのだとか。
しかし、アイヌ語地名を研究している方々がよく訪れるとも仰っていました。
結局、アイヌ語地名よりもずっと新しい地名ということになりそうですが、
崖地だし「ボッケ・ボックィ」地名の可能性を全否定はできない?(←しつこい)
縄文海進の図もあると有難かったのですが…と思っていたら、
購入した『本埜の歴史』に掲載されていました。
開口していた『古東京湾』と呼ばれる大きく遠浅な入り江下に沈んでいた
時間が長く、13万年前を少しさかのぼる頃にはリス・ヴュルム間氷期による
『下末吉海進』が訪れました。」と"下総台地の形成"の項にありました。
隣接する木下貝層もわかりやすく説明されていました。
では「平台」から下りて、実際に↑ここを通ってみましょう。
交流の杜広場にあるこんもりは、あとから造成されたのでしょうか?
取り敢えず、この道をくだります。
この左手が木下貝層です。
あそこまで上がらずに横へまわりこみます。
↑これは、貝層の見本でしょうか?
以下は神崎(こうざき)神社の"シマ"から木下(きおろし)貝層のある"シマ"へと
「香取海」を走ってみた私の印象です。
① カシマ・カトリ連合軍に征服されたことで祭神を「天鳥船命」に替えられた
神崎神社。日本神話に出てくる祭神ゆえ、官製の神なのでしょう。
父とされる「稜威尾羽張(いつおはばり)神」。官製の神の父ゆえ官製の神?
香島(鹿島)の神と香島郡の成立に関しては、孝徳天皇の御世(大化5年)に
下総の海上の国造の領と那賀の国造の領の一部を併せて新たに神の郡を置き、
そこに鎮座する天つ大神の社(現鹿島神宮)と坂戸社、沼尾社、三処を合せて
下総の海上の国造の領と那賀の国造の領の一部を併せて新たに神の郡を置き、
そこに鎮座する天つ大神の社(現鹿島神宮)と坂戸社、沼尾社、三処を合せて
③ 次は印旛の鳥見神社の元宮だったと伝わるものの、カシマの「建御雷神」、
カトリの「經津主命」を祭神に戴いた矢口一之宮神社が鎮座する"シマ"。
⑤ そして神崎神社の"シマ"に似たこんもりの印西市木下字平台。
これら5つの"シマ"をカシマ・カトリ連合軍が征服していったとしたら?
との仮説を立てたことで、「天鳥船命」も「稜威尾羽張神」も、
そして「まかた神」までもが官製の神のように思えてきました。
なぜなら、日本古来の神社は先祖を祀るもので、それゆえ例えば物部氏が
移動すれば物部守屋を祭神とする神社が列島各地に広がってゆきます。
ですから「まかた」のようにある地方にしか存在しない神社というのは
何らかの目的で為政者が創祀したとしか考えられないのです。
木下貝層の「平台」、麻賀多神社の「台方」とも崖上の台地にありました。
すでに台地にあがってかなり走りました。正面が麻賀多神社のようです。
当然ですが、麻賀多神社奥宮と同じような由緒ですね。
しかし、当社の方が社叢が広いようです。
すぐ横に交通量の多い道路があるのに、とても静かです。
スダジイの巨木。社叢好きの私には最高の空間です。
社殿を避けて歩いていたのに…↓
蜘蛛窟を思わせるこんもりの上に「大権現社」がありましたが、
何権現なのでしょう? 祭神がわかりません。
或いは「大」でカシマと同じ「大生氏=多氏」を暗示しているのでしょうか?
大生神社の社伝に、オフ(多・大生・飯富)氏が大和から常陸に移住した際に
多神社の祭神を祀ったとあります。
総は麻を表しております。
その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、
朝廷より国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。
その国造に多一族の伊都許利命が就任してたとの記録が
先代舊事本紀に記載されております。
その国造が代々祀ってきたのが当社であり、
「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。
その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、
朝廷より国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。
その国造に多一族の伊都許利命が就任してたとの記録が
先代舊事本紀に記載されております。
その国造が代々祀ってきたのが当社であり、
「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。
いえ、私のは当てずっぽうですよ…。
でも、だんだん「まか+多神社」に見えてきました!?
しかし手黒の奥宮にあった「まがたま」説はどこへ行っちゃったんですか?
しかも本社の神紋は「麻の葉」とされていますが?
奥宮の神紋は「三ツ巴」で、十八社とも言われる他の麻賀多神社の神紋も
「三ツ巴」が多いようです。実際、本社と奥宮はどんな関係だったんでしょう?
私が初めて麻賀多神社を知った数年前、話題になっていたのは
本社の麻紋が六芒星=ヘキサグラム(hexagram)ではないかというものでした。
ユダヤ人の象徴として定着しているというようなことが書かれていました。
真偽のほどはわかりませんが、人が創造した神が鎮座していると主張したり
その神とやらに手を合わせたりできること自体が私には信じられません。
いかなる根拠があって拝むのか説明して頂けると助かります。
いかなる根拠があって拝むのか説明して頂けると助かります。
その証拠探しの一環として墳墓や蜘蛛窟などに興味を持っています。
さ、家まで距離があるので「台方」からおりて帰途につきましょう。
印旛沼が見えました! そして右手に鳥居があったので停車すると
左手の木の下に幾つかの祠がありました。
道路に遮られていますが、元は参道だったのかも?
下った道の奥が見えないため、崖を守る神社かもしれないと思いつつ、
落ち葉に埋もれて歩けなくなることを恐れて素通りしました。
実は麻賀多神社へ向かっている時にも下ってゆく道がありました。
こちらはかつて舗装された形跡があったのでバイクで締め縄をくぐりました。
下り口にヤブ椿があったし、私の大好きな海辺でよく見かける極相林です。
古代「香取海」まで下りてきた感じ…?
左手を見ると、まさに海岸線です。
ほんとうはこういう道を走っていたかったのですが、
何とか踏みとどまって元の道に戻りました。
道の角に、1507年の合戦で焼失した龍腹寺の仁王尊が再興されていました。
「香取海」にある龍湖寺、龍角寺などにはそれぞれ伝説があるようですが、
もともと宗教に興味がないため、そこまで手がまわりません。
帰り道に戻りましょう。
「台方」を下りたら印旛沼の脇を北上することにしました。
しばらく走ると、見覚えのある標識が↓
そして「白鳥飛来地」の標識が立てられていたため、つい寄り道しました。
16:52、白鳥の群が見えて来ました。
池には1羽もおらず、全員が水田で食事中です。
あああ…ハクチョウというよりニワトリみたいです。
水田を提供して下さっているのは旧本埜村中根の増田邦夫氏だそうです。
もしや? と思い、確認したら、去年の2/7に初めて訪れていました。
16:59、ここからは寄り道をせず帰宅しました。