藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

讃岐忌部

忌部(いんべ)氏は平安時代の歌謡「催馬楽」と関わりの深い氏族です。
阿波、讃岐、出雲など諸国の忌部は産物を馬に乗せて都へ運び
朝廷に献上する職種を担っていたと言われています。
その祖先神は天太玉命で、神話の上では
天照大神が天の岩屋戸に隠れた際、勾玉や鏡、和幣などを取り持って
祭りを行ない、招き出すことに成功したとされています。
 
讃岐は古代、西讃を中心として忌部氏が開墾殖民を行なったと言われ、
天太玉命氏神として藤目山(標高136m)の麓に鎮座する粟井神社
「承和9年(842) 粟井名神に預かる」と『続日本紀』にあります。
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以前、藤目山に上った時に一度訪れましたが、
今回は上流の粟井ダム経由で再訪しました。
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古くは刈田大明神とも称され、社紋に鎌が使われています。
創建年代は明らかでなく、「粟井」を「安房居」とする説もあるそうです。
しかしながら、忌部氏誕生以前に何の祭祀もなかったとは考えられません。
讃岐国一ノ宮の一つでもあります。
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隣接する岩鍋池。
この上流に造られた粟井ダムから下ってきました。
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上のダム湖までは行ってません。
(林道?)沿いにあった竜王神社から撮りました。
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急勾配の上、鎖があって車では上がれません。
徒歩であがって社殿を見ましたが、とても近づけませんでした。
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↑これって、ハチの巣じゃないんですか?!
山道に小さな巣箱がたくさん置かれていたので、ハチが多い地域なのかも?
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下を覗き込んでみましたが、水はほとんど流れ出ていません。
結構高い場所にあるのか向こうの山が低く見えます。
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こんな風に楽器ケースをZOOMERに積んで走ってます。
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鳥居をくぐって左手にある岩盤を見ていると、2002年のダム建設以前は
水が滝のごとく流れ落ちていたのが竜王神社の由来かも? と感じました。
そうなると、下流粟井神社忌部氏以前より、水が暴れないようにと
祭祀が行なわれていた可能性があるのではないでしょうか?
 
さて、温暖な讃岐といえども、今シーズンは寒い日も多いようで
山越え出来るかしら? と心配でしたが、大丈夫でした。
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通行規制解除中にて助かりました。
 
家からここまでの道はこんな感じ。
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私がイメージする讃岐の景色です。
善通寺市あたりかと思いますが、小さな山がポコポコありました。
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川も可愛い感じです。財田(さいた)川のようです。
さらに南下して、山本町河内まで来て振り返りました。
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これぞ讃岐の山ですね~。
前を見ると徳島との県境となる山が連なっています。
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この道を上っていって、徳島県まで直進したい気持ちを抑え、
右手の山を越えて粟井ダムを目指すのが今日のルートです。
 
その前に、せっかく河内まで来たので河内神社へ行ってみます。
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あれ~?? ネコちゃんが石段を登っていました。
石段下には駐輪スペースもないし、バイクで走れる道を探してみます。
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大きくカーブしつつ上まであがれました。
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きれいにお手入れされてますね。
しかし、瓦に「三」の社紋が付いているのが気になります。
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エエ~?! 河内神社じゃないの?
何処かから「三部大明神」が引っ越してきたともありますね。
でも社紋が三島っぽいんですよね…。
 
観音寺市大野原町有木には壇の浦から逃れてきたという平有盛三宝荒神
産土神として祀ったという「三部神社」が鎮座していますが。
 
よくわかりませんね。地元の方にお尋ねしても祭神すら知らないと仰います。
河内神社から粟井ダムへ向かう道沿いにあった國修神社もそうでした。
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先ず、社名が読めません。
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撮影していたら御近所の親子連れがいらしたのでお訊きしました。
「こくしゅう神社です」
え?! と訊き直してしまいました。
音読みですか…。
「神社というのは明治以降ですから、それ以前の○○明神をご存知ですか?」
「いえ、ここで生まれ育ちましたが、聞いたことがありません。
でも明治にはここにあったと思います。この集落だけの氏神です」
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情報を頂き、ありがとうございました。
「集落だけの氏神」…神社本来の正しい姿かと存じます。
 
この國修神社の先を徳島方面へ直進せずに右折したら粟井ダムがありました。
竜王神社粟井神社を経て宇多津方面へ戻る途中、
前々から気になっていた「ひさご塚古墳」のある母神山へ行ってみることに。
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こちらは粟井神社から見た荘内半島ですが、手前のこんもりが母神山かと。
発音は「はがみ」のようです?!
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あの石組みは何なんでしょう??
地図も見ずに引かれるように直進しました。
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年老いたヤギが草を食んでいました。
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鳥居の横に「千尋神社・木下神社」とありました。
この道を後方に登ると、上に「ひさご塚古墳」があるはずなのですが、
通行止めになっていたので下りてきました。
千尋神社1~19号墳」の下に鎮座していた千尋神社
現在は丘の上に遷座していますが、母神山周辺の肥沃な平野を本拠地とする
有力氏族を祖先神として祀っていると言われています。
6世紀前半から継続して築かれた横穴式石室を持つ千尋神社の円墳は
「母神山古墳群―千尋神社支群」(観音寺市木之郷町/粟井町)に分類されています。
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もっと下の道を迂回すれば「ひさご塚古墳」へ辿り着けそうでしたが、
石組みを見て上がってきたので、この段々の上で演奏修行することにしました。
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ここはきっと、お花見の名所ですね!
夕日を浴びながらの演奏があまりに気持ち良く、《神擧》まで演りました。
案内板が倒れていて読まなかったのですが、帰宅後に検索したら
「農村歌舞伎の桟敷石組跡」と書かれていたようです。
元々ここに千尋神社があったのを、昭和9年に現在の丘の上に遷座
そののちここに芝居小屋が建てられ農村歌舞伎が盛んに行なわれたとか。
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終わったら丁度17時半。
晩ご飯の約束があるので19時までには帰らなくては!
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荘内半島の手前に見えるのが高屋神社のある稲積山ですよね?
前回の「天空の鳥居」高屋神社より、ずいぶん南まで来ていました。
 
思いつきで走っているため、帰宅後調べてビックリすることが多いのですが、
千尋神社昭和9年に丘の上へ遷座した際、残っていた棟札に
之郷千色 大明神宮一宇 元和元年(1615)十一月七日 大旦那孫兵衛」
とあり「千色」がいつの間にか「千尋」になったのだろうということです。
 
しかし「之郷」とは…!?
常陸国風土記』に「筑波の県は、昔、(き)の国といった」とありました。
同じように、ここにもの国から来た人々が住んでいたとしたら?
その可能性はゼロとは思えません。
 
たとえば千尋神社支群「4号墳」からは
鉄鏃31、刀子1、鉄鎌1、鉄斧1、杏葉2、銅釧1、耳環1、玉類多数、須恵器etc.
が出土しており、6世紀の築造ですから讃岐忌部氏の古墳ではあり得ません。
鉄や銅を扱える広義の物部の拠点だったのでしょう。
一説に、縄文時代の物部に関しては、 陸に上がった海人族と言われています。
 
ここ観音寺市之郷町の「木下神社」の祭神は、
西讃府誌に「木下大明神は木郷の里に和田姫命を祭りたるものなりしを、
年月不詳(三豊郡史に天正の乱火災にかかり)氏神千尋大明神に合祀せしものと云う」
とあるそうです。和田姫の名は「わだつみ」など海人族を想起させます。
 
常陸国の大生古墳群(6世紀後半~7世紀後半に築造)が大同元年(806)
大生神社を創祀したオフ氏の古墳である可能性が低いように、
6世紀に讃岐国之郷(之郷)に築かれた千尋神社支群(1~19号)
後に西讃を支配した忌部氏の古墳ではないらしいとわかりました。