藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

秩父

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レッドアロー号で秩父へやって来ました。
当初は台風絡みで雨の予報でしたが?
 
三峯神社へのバスが40分待ちで、バス停に並んでみたら
直射日光が強烈で倒れそうになったのでタクシーにしました。
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「バスだと駐車場から徒歩ですが、タクシーだと本殿の高さまで
上がれますよ」と運転手さんが案内してくださいました。
左下の神楽殿がいい味を出していますね…。
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拝殿の近くから撮った神楽殿
横から見ても立派な拝殿↓
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この拝殿の手前に国常立神社がありました。
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社伝に
淳和天皇の御代、勅命により空海が十一面観音の像を刻み、
三峯宮の脇に本堂を建てて天下泰平・国家安穏を祈り、三峯宮の本地堂とした
とあったので探したのですが、見当たりませんでした。
天文2年(1533)、山主が聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上。
宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号を賜り、坊門第一の霊山となる。
以来、天台修験の関東総本山として観音院高雲寺と称す。
 
天台宗になったのなら、空海の痕跡が残っているはずがありませんね。
では、空海が天長2年(825)に訪れて橋立堂の洞窟内部に道場を開き、
37日間の護摩秘呪を行なったという橋立鍾乳洞へ。
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隆起したままの姿をとどめている橋立鍾乳洞
洞内の3分の2が竪穴になっている珍しい竪穴式鍾乳洞だそうです。
(洞内は撮影禁止)
橋立堂は、明治以前は今宮坊の末寺で、修験道の道場でしたが、
明治5年(1872)修験道禁止令に伴ない、曹洞宗の寺院になっています。
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せり上がった岩盤を背に、馬頭観音堂が建てられていました。
当地は武甲山(ぶこうざん=1.295m)の西麓に位置し、
セメントで有名な秩父石灰岩の露頭は武甲山の東側にあります。
 
では、橋立堂と密接な関係があったとされる今宮坊(現 今宮神社)へ。
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壬申の乱前後、修験道の開祖「役行者」の導きで秩父の勢力は
大海人皇子=天武帝に協力したと伝わります。
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さらに文武天皇の御代、「役行者」が伊豆から三峯山に往来して修行し、
霊泉の傍に観音菩薩の守護神である「八大龍王」を合祀したそうです。
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この周辺、真っ赤っかでしたが、この案内板に目がとまりました‼
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「駒つなぎのケヤキ」⁉
江戸時代とは新し過ぎますが、秩父らしい伝承です。
 
武蔵国には「石川牧」「小川牧」「由比牧」「立野牧」「小野牧」「阿久原牧」
といった官牧のほか、「秩父」「石田牧」の名が見え、
他にも文献に現れない小規模な牧や私的な牧があったと考えられています。
秩父」は、武蔵国秩父郡から児玉郡の一部にかけて設置された牧。
埼玉県秩父郡北部の石田牧と児玉郡神泉(かみいづみ)村=神川町
阿久原(あぐはら)牧から朝廷へ料馬を貢納していました。
明日は、その「秩父」をまわりますが、
前日に「駒」絡みの天然記念物に出合えたので
神楽歌『其の駒』を演奏修行させていただきました。
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「蚊がたくさん居て痒いね…」と話していたら、
社家の奥様が蚊取り線香に火をつけてお持ち下さいました。
御厚情に感謝申し上げます。
 
今日の最後は秩父神社です。今宮神社から徒歩圏内なので。
『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、創建は第十代崇神天皇の御代に
知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命
祖神を祀ったことに始まるそうです。
いわば武蔵国成立以前よりの知知夫国の総鎮守。
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お⁉ 表記が「知知夫」です‼
それにしても派手な装飾ですね…。
当社の社殿は、天正20年(1592)徳川家康公が寄進したそうです。
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神門も豪華です。
神職さんが歩いておられたので神楽歌の演奏許可を得ました。
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本殿の横で演らせて頂いてます。
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こんなに光に満ちた一日になるとは想像もしていませんでした。
明日も楽しみです!
 
今日のディナーはこちらで頂きました。
浅草国際劇場を模して建てられた松竹秩父国際劇場を改装した
イタリアンダイニングです。
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秩父には何度かミューズパーク音楽堂でのレコーディングで来ていますが、
町の印象がかなり変わりました。
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