かつて江戸と房総を結ぶ房総往還の宿場町として栄えた上総国「姉崎」。
馬と人足を貸す継立場があったことから、石工に馬乗り馬頭観音を
彫ってもらうようになったのではないかと私は考えています。
現在、全国で確認されている300基弱の馬乗り馬頭観音のうち、
79基が西上総に集中しているのだそうです。
それに対抗しようってわけでもないのですけれど、
宿場町で馬を使役した人と、直轄牧で馬を育てた人とでは
馬に対する思い入れや心情が違うだろうとの考えから、
東下総の馬乗り馬頭観音は何基くらい遺っていて、上総と下総の
馬乗り馬頭観音の違いは何か? を知りたくてウズウズしてるんです。
……………
9/20に定価の倍以上の価格で売られていた新古品のプレミア本⁉︎
『房総の馬乗り馬頭観音』を見つけて購入しました。
著者の町田茂氏のお考えを読んで、我が意を得たりの心境です。
第一に見られる大きな差異は、東総地方では殆どが一面二臀で、
持物は持たずに馬口印を結ぶものが多い(20年以上経って指が摩滅?)。
上総は三面多臀で、第一手が馬口印を結ぶ他、輪宝・三叉鉾・法棒・数珠・
宝鏡等の持物を持ち、施無畏を結ぶ例もある。(中略)
つまりこのことから上総地方の馬乗り馬頭観音と、東総地方の
馬乗り馬頭観音とは全く別の発生経過を辿ることがはっきりとわかる。
さらに私は同じ下総国なのに、幕府の「御狩場」や「御鷹場」があった西総では
ほとんど馬乗り馬頭観音が見られない点にも疑問を感じていましたが、
それもすでにきちんと分析されていました。

東下総の佐倉7牧の中でも、東端の油田牧には野間土手などの
遺構が比較的多く見られるだけに、馬乗り馬頭観音も
数多く遺された可能性が高いのではないでしょうか。
乗馬倶楽部イグレットさんへ行く時に通る「香取市大根(おおね)」に
油田牧の野馬土手があるのに、馬乗り馬頭観音がないなぁと
思っていたら、5年前に行った切手(きりて)大神(神社/大根1106)の
斜向かいのお堂にあった…との古い情報を得ました。
なんたることでしょう、何度も通っているのに見落としていたとは!?

「大根」の北「牧野」あたりを走っています。
申すまでも無く、側高神が香取神に命じられて奥州から盗んで来た
馬1,000疋を放牧したと伝わる地名「牧野」です。
この16号線沿いに切手神社があります。

ありました。道路際なので殺風景に見えます…。

ぐるりと一周してみましたが、お堂は見当たりません。
隣接するお宅でも訊いてみましたが、「知らない」とのこと!?

鳥居前の道の反対側に空き地がありました。もしかしたら
ここにお堂があったのかも知れません。が、何も分からず仕舞い。

少し南下したら、「大根」の油田牧の野馬土手が見えました。

ここからは「仁良」にある香取市山田支所を目指すため
まだまだ南下しなくてはなりません。

あ!? 左折したら太郎左衛門米が作られている「府馬」だ!yumiaikawa.hateblo.jp
「府馬の大クス」へは行ったし、今日は行かないと決めている…というか
↑ のブログの編玉神社周辺にも馬乗り馬頭観音があるとの情報を
得たため、いずれ同じルートをまわろうと考えています。
56号線を左折したら、もう「仁良」のようです。

「花内墓地の塚」に天明2年(1782)作の馬乗り馬頭観音があると書かれて
いましたが、ここがその墓地でしょうか?
以前学習した通り、Google Map には共同墓地は殆ど載っていません。
墓地の中をくまなく歩きましたが、馬乗り馬頭観音は見当たりません。
今日は初っ端から空振りでしたからねぇ…。

バイクの向こう、墓地の反対側の景色を撮っておくことにしました。

そして、バイクの方へ戻ろうと振り返ったら!?

馬乗り馬頭観音ですよね!?

どこからどう見ても、今日最初の馬乗り馬頭観音でした。
この先に香取市の山田支所があるそうです。

日曜なので閑散としています。
支所前の交差点が「長岡の三叉路」なら、馬乗り馬頭観音が
あるはずなのですが、それを訊くこともできません…。
歩いている方にも尋ね、かなり探したのですが、見つからず、
南下していたら、再び「府馬」方面への道に出ました。

坂を下って左折したら「府馬」です。
最初に行った時は、馬の府という地名に興味を持っていました。
千葉氏の一族・国分氏の子孫たる越前五郎時常が、室町時代にこの地に
城(府馬城)を築き、地名をとって府馬氏を名乗ったと言われますが、
それ以前の「府馬」についての資料は見つけられていません。
馬に直結する名前では? との疑問はさておき、今日はあちこちで
こんな光景を見たので、「府馬」の田んぼが気になっていました。

稲穂がここまで寝てしまっては収穫は難しいのではないでしょうか?
先ずは「府馬」の観音堂へ上がり、何も無いことを確認しました。

石像もないし、どんな観音を祀った観音堂かも書かれていません。
西から上って南へ下りる途中、東側の田んぼが見えました。

刈り取られてる!?

しかし南へ下りきると、まだ稲穂が残っていました。
ここを左折して墓地に立ち寄ってから元のルートに戻ります。

当初、日曜日は久々の晴れ…という予報だったので
収穫を計画されたのだと思いますが、つらい光景ですね。

墓地へあがってみましたが、馬乗り馬頭観音かどうかわかりませんでした。

割れてるし…。状態が悪い石像が集められていました。
ここから当初の予定通り香取市鳩山の圓満寺を目指します。

真っ直ぐな道が少なく、高低差のある道が多い印象でした。

狭い道をクネクネと登って辿り着きました。

左手から裏にかけて夥しい数の墓石や石像が並んでいました。

この一角にありそうなのですが…。

草を手で除けたら、お馬さんが見えました!!
次は
香取市新里「根柄見」集落の路傍に横たわっているとのことで見つかるかどうか?

この道を進みましたが、見つかりませんでした。

集落を出るあたりに共同墓地があったので探しましたが、ありませんでした。
さらに西へ進み、70号と125号の三叉路を目指します。

途中、ぬかるみで滑りそうになりましたが、何とか舗装路へ。

「南無馬頭観世音菩薩」とあります。宗教色強め?

台座に乗ったような意匠の馬乗り馬頭観音は初めてです。

圧迫されているように見えるからか、お馬さんが苦しそうです…。
ここから更に南下し、125号線から56号線に入ります。
住所は「旭市鏑木」なのですが、北緯は次の医王寺(香取市小川)とほぼ同じ
稚兒霊社に安永5年(1776)の馬乗り馬頭観音があるというので向かってます。

牧っぽい場所を過ぎたら、突然「目的地は右です」と言われました。

稚兒霊社というネーミングから、新興勢力なのかと疑ってます。

鳥居をくぐるのが憚られ、外から覗くと、画像中央あたりに
石像の背中らしきシルエットが見えました。

怖々近づくと…馬乗り馬頭観音でした。

勇気を出して入って正解でしたが、馬乗り馬頭観音の背後の
こんもりは、蜘蛛窟なのか? と思うほど迫力満点でした。
稚兒霊社(北緯35.7639)から香取市「小川」の医王寺(北緯35.7623)までの
道は入り組んでいて直進できないため、南下しつつ迂回します。

ノーマークで74号線を爆走していた時、馬乗り馬頭観音だ!!
と思い、バイクを道の左端に寄せて撮影しました。

こちらはずいぶん埋没していますが、馬乗り馬頭観音だと思います。

「馬頭観世音」の石碑の左も馬乗り馬頭観音ですね。
思いがけず 2基に出合え、遠出してきた甲斐がありました。
ただ、2基の現住所は旭市なので、古代の住所が知りたい。
……………
この点も『房総の馬乗り馬頭観音』が解決してくれました。
上記(現在、旭市となっている)3基の馬乗り馬頭観音は、
2005年までは香取郡干潟町(ひかたまち)でした。
……………

そのまま74号線を西進していたら「御塚古墳」がありました。
この円墳は「鏑木古墳群中の1基。径21.8m、高さ5.5m。
供養塚に改築されている」そうです。
さらに進むと、114号線と交叉していたので香取市方面へ右折。
直進したら匝瑳市。旭市と香取市と匝瑳市の境界でした。

ここから医王寺を目指して北上します。

夥しい数の墓石が並んでますね。

ここが医王寺かな? と思って正面にまわると、門前に
寛政12年(1800)の馬乗り馬頭観音がありました。

今日の馬乗り馬頭観音はここまでですが、
せっかく近くまで来たので、石田大神へ行ってみます。
境内に並んでいるという石仏を見ておきたく。

2分ほどで着きました。あっさりした境内ですね。
創建は承和2年(835)8月とありますが、本当でしょうか?

道路脇に並べられていましたが、馬乗り馬頭観音はありません。
住所が 字(あざ)「馬場先」だったので、ちょっと期待してました。
ここは矢作牧・取香牧に近いし、「馬場先」地名は意味深ですよね。

石田大神に着いた瞬間、17時のチャイムが流れました。
あとはひたすら走って帰るだけです。

成田空港へ向かうルートを選びました。

17時を過ぎても、まだ農作業を続けておられます。
曇りとはいえ、湿度が高く、肌寒い一日でした。
道が空いていたのはよかったのですが、このルートは失敗!?

次々と私を目掛けて飛んでくるかと思うほどうるさかったし。

道が曲がりくねっていて、結構距離がありました。
3ルート出て、一番左が最短に見えたのですが、実際には一番右の
佐原駅へ戻って利根水郷ラインを走るのがベストでした。
ほとんど信号が無いので。
いつも失敗ばかりですが、収穫もあるので楽しくやってます。
今回、私は「姉崎」発祥の馬乗り馬頭観音に関して仮説を立てました。
なぜ全国的にも稀な形状の馬乗り馬頭観音が誕生したのか?
房総往還の宿場町だった「姉崎」に近い妙見本宮、上総国と言えば
千葉氏ゆえ、その祭祀について考えてみたいと思います。
千葉氏とその一族は、天正18年(1590)に北条氏に従って豊臣軍と戦い、
小田原城等の守りに就いて敗北したことで、大名としては滅亡しました。
ただし、長保2年(1000)9月13日に創建されたと伝わる北斗山金剛授寺は
現在も、妙見本宮 千葉神社として千葉市中央区院内に鎮座しています。
千葉氏が妙見信仰をもったのは始祖とする平良文(886-953 ?)の時代からと
伝わりますが、明治37年(1904)の火災で社殿・神宝・古文書の大部分を
焼失してしまったそうです。残念ながら、馬乗り馬頭観音が誕生した
江戸時代の北斗山金剛授寺尊光院の信仰については、守護神を
曽場鷹大明神・堀内牛頭天王・結城の神明・御達報の稲荷大明神・
千葉寺の竜蔵権現・弓箭神と申す妙見・八幡・摩利支天大菩薩と
していたことをヒントにするしかないので、千葉氏から出て
千葉氏滅亡後も大名として残った相馬氏の資料を拝借します。
元亨3年(1323)、相馬氏は奥州合戦の功績で陸奥国行方(なめかた)郡、
現在の南相馬市飯館村に所領を得たとされています。

相馬郡飯館村の初発神社の御札に「水鏡妙見社」とあります。
妙見信仰は北極星(北辰)を神格化したもので、北を司る「玄武」と習合し、
中世以降、妙見菩薩像や武神像が亀や亀蛇(きだ)に乗る姿で描かれる
ことが多くなったそうです。また、妙見菩薩は、神仏習合によって
天之御中主神と深く結びつき、同一の存在として信仰されていました。
『古事記』の天地(あめつち)の初発(はじめ)の時に登場する天之御中主神と
習合したことで、妙見社を初発(はじめ)神社と称ぶようになったとか。

相馬郡小高町の相馬妙見本宮では、妙見菩薩の乗り物が
「玄武」ではなく、馬になっています。
千葉神社のもう一つの守護神 摩利支天大菩薩はどうでしょう?

摩利支天は、イノシシに乗る姿で描かれる仏教の守護神です。

千葉県以外で馬乗り馬頭観音が見られる長野県でも
イノシシに乗る摩利支天の石像が作られていました。

そして、千葉県のイノシシ乗り観音!?
千葉神社と姉崎は直線で15km程度ですし、妙見菩薩像や武神像が
亀蛇(きだ)やイノシシ、馬に乗る姿に影響されなかったとは思えません。
上総国の馬乗り馬頭観音が下総国の馬乗り馬頭観音と比べて
宗教色が濃く、緻密に彫られているのは、千葉氏の妙見信仰の
影響を受けたためではないかと愚考しています。
西上総の馬乗り馬頭観音は、石工が技を競い、芸術性を高めようとしたあとが
見て取れますが、東下総の馬乗り馬頭観音は、全体的に小ぶりで、
精密さを求めず短時日に仕上げられたことが、村人やその妻が
石工をもてなしつつ彫ってもらったとの伝承からも窺えます。
今日見つけた下総国の馬乗り馬頭観音と、
以下の上総国の馬乗り馬頭観音を比較して頂ければ…。
袖ケ浦市代宿 (1808) 総高 137.5cm

こちらは、まるで天空を翔ける神々といった風情です。
君津市西原 (1804) 総高 118cm

もっともっとデータを集めなくてはなりませんが。