藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

風早審麿

こんなはずじゃなかったんです。
『続日本後記』に見える風早審麿という人物など知りませんでした。
私はただ、呉線で三原から呉へ行くと2時間近くもかかり、
東京からだと新幹線で広島、広島から快速安芸路ライナーで呉
というルートが出るため、地図を眺めていただけでした。
 
そのとき目にとまったのが「風早」の地名でした。
「風早」とくれば古代伊予国(愛媛県松山市の北)にあった「風早郡」。
以前、古墳の上に建つ延喜式内社櫛玉比売命神社国津比古命神社
二度訪れています。早大神宮という小さな神社もありましたが、
当地と何か関係があるのでしょうか?
それだけの興味で、呉からの帰途「風早」駅で途中下車することに。
 
初めての土地では、聞いたことのない名前の神社へゆくことにしています。
八幡系の神社なら宇佐八幡宮春日神社なら春日大社、それぞれ元宮へ
行けばよいわけで、一々同名の神社をまわっていたらキリがありません。
ただし「風早」で社名が読めないのは審麿神社だけでした。
「風早」駅で途中下車したのち次の安芸津駅から乗車すると決め、
荒神神社
●審磨神社
祝詞(のりとやま)八幡神社
●榊山(さかきやま)八幡神社
の順にまわりたいと、タクシーの運転手さんに地図を見せました。
たいていの場合、運転手さんは神社などわからないと仰るのですが、
「場所はだいたい分かります」と言われ、スムーズにまわれました。
12/22のことです。
JR呉線の「風早」駅は眼下に海が見える高台にありました。
それでも縄文海進などを考えると、神社はもっと高い場所にあるはず。
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「ここが荒神神社ですよ」
数分でずいぶん上がりましたね。
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海沿いの工業地帯は、江戸時代に塩田として開かれた場所だったようです。

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小ぢんまりとした社殿ですが、「荒神」と称する以上
朝廷にまつろわぬ者というレッテルを貼られているのでしょう。
 
ここから次の神社へ向かいたいのですが、社名が読めません。
運転手さんが「次はアキマロ神社ですね?」と仰いました。
アキマロとは人の名前みたいですね?」
「いえ、わかりません。そう呼ばれているだけで…」
狭い道をクネクネと走り、ほんの数分で着きました。
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「えっ?! この道をあがるんですか?」
「すぐそこの石垣の中です」
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いや、これはまたド迫力ではありませんか。足が進みません。
階段手前の石碑が気になったので撮りました。
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「風早浦薬師丸」とはまた意味深な名前じゃありませんか!?
ここでの「丸」は船の名前ではなく、ワニ氏を暗示しているのでは?
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渋々社殿までゆきますと、扁額が真ん中で割れてる!?
本殿を見るために裏へ廻り込もうとすると…
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うわっ!? 怖すぎます。防空壕かお墓みたいですね…。
ここまで撮って車へ逃げ帰ることにしました。
あとで「五十年記念塔」↑碑文を読むと、審麿公の墓石を発掘した縁でここに
社を創建したらしく、以前は薬師堂だった可能性も否定できないと感じました。
 
出入り口の石段を降りようとした時、小さな石碑が目に飛び込んできました!!
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審麿墓跡」ですって?!
実在の人物だったんだ…と驚いた次第。
 
検索したら、風早審麿がこの一帯を勢力圏とした人物だったとわかりました。
安芸加茂郡の人。徳のある行いが立派で、孝行に力を尽くした。
両親が亡くなった後、美味しいものを食べず、喪に服して絶えず両親を慕っていた。
天長十年、三階を叙せられ、田租を免除された。(『前賢故実』)
 
当初、伊予国風早国造との関係を疑っていた私としては
いったいどんな切り口でまとめればよいものやら…と悩んでいたら
帰宅後、地元の風早自治協議会のWebサイトが見つかりました。
「風早」の地名は、伊予風早氏の一族が、6世紀頃に北上し定着したことに由来し、
天平8年(736)新羅国へ派遣された使節団が乗った船が風早浦に停泊した夜に詠んだ
歌から、当時すでに地名として定着していたと考えられていることがわかりました。
 
そういえば、祝詞八幡宮の境内に万葉陶壁や万葉歌碑が建っていました。
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吾が故に妹嘆くらし風早(かざはや)の浦の沖邊に霧たなびけり (万葉集 巻15 3615)
沖つ風いたく吹きせば吾妹子が嘆の霧に飽かましものを (万葉集 巻15 3616)
 
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しかし、一地方の孝行者という程度で租税を免ぜられたりするでしょうか?
あれほど大山積=三島神=百済神に瀬戸内の島の港を抑えさせた朝廷が
遣新羅使節団が使った風待ちの港を欲しがらないわけがないのでは?
 
『続日本後記』の原文です。
《天長十年十月辛卯》
 勅以山城國綴喜郡區毘岳一處爲圓提寺地。
 安藝國言。賀茂郡風早審麿。徳行懿美。孝養自厚。父母歿後。口絶五味。哀慕之情無暫忘時。勅叙三階。免戸田租。
 又言。力田佐伯郡人伊福部五百足。同姓豐公。若櫻部繼常等、所耕作田各卅町已上。貯積之稻亦各四萬束已上。並立性寛厚。周施困乏。往還粮絶、風雨寄宿之輩。皆得頼焉。詔各叙一階。
 
833年ならまだ空海(佐伯眞魚)が存命中ですから、空海ゆかりの佐伯郡
伊福部氏の名前があることの方に興味をひかれます…。
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この高台にある神社が八幡神に変わったのは貞観3年(861)とのことですから
それ以前に風早氏が居たとすると物部の祭祀が行なわれていたはずです。
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そして当社にも「鬼=先住民」を想起させる面が。
朝廷が風早氏=物部氏を平らげて祭祀を宇佐八幡に変えたのでしょうか?
遣新羅使節団が風早浦に停泊した天平8年(736)には、
未だ風早氏が勢力を保っていたと考えてよいのでしょうか?
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眼下に風早浦が広がる当地は、風早氏の重要な拠点だったのでしょう。
 
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祝詞山の社叢も、榊山の社叢も、重要です。
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今回は時間がなかったので、次回は社叢を歩きたいと思います。
 
榊山八幡神社の参道をタクシーで上がる前に常夜燈を見つけました。
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左折して正面に立つと新しい石碑で隠れてしまいますが、
この常夜燈はここが船着き場だった可能性を感じさせます。
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やはり、当社からも風早浦が見えました。
振り向くと、社殿への参道がありましたが、信仰を目的としない私はここまで。
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日本列島における民族移動も、朝廷のオセロゲームも、
もっともっと掘り下げる必要がありますね…。
ただし、こういう由緒にひっかかったら迷路に入ってしまいます。
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用明天皇(586-7)の御代」「宇佐八幡宮三座」を勧請とありますが、
宇佐神宮公式webサイトによれば宇佐八幡宮の創建は725年です。
 
宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮です。
八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神にお祀りし、
神亀2年(725)に創建されました。