「山背國葛野郡月讀神、樺井神、木嶋神、波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。」
とあります。
山背國葛野郡とは京都と呼ばれる前の地名の一つかと思われますが
「月讀神」とは、現在は松尾大社の摂社となっている月讀神社?
「樺井神」とは樺井月神社?
「波都賀志神」とは羽束師坐高御産日神社のことでしょうか?
「神稲」とは、朝廷から各社に奉納された稲ということですか?
それらを、今後、中臣氏に給付せよとの勅が出されたということは
藤原氏の台頭によって、秦・賀茂連合の利権の一部が移ったということでしょうか?
疑問文ばかりですみません。まず、「樺井神」とは?
↑こちらの樺井月神社かと思いましたが、違うかもしれません。
それとも701年の時点では葛野郡だった可能性があるでしょうか?
「木嶋神」へは足を運んでいます。
ということで、「月讀神」と「波都賀志神」へ行ってみることに。
どうやら当社は平安京の守護として創建されたらしいとの情報を得て来ました。
当社の正式名称は石清水八幡宮なんですって!?
「石清水八幡宮」と名付けた翌年(860年)2月9日、当社から対岸の男山の方へ一筋の光が
淀川となる重要なポイントを両サイドから監視できる場所に鎮座していることくらいわかりますが…)
明治9年に官営鉄道が敷設され、境内の北郭が失われたとありますね。
また、文中にある、奇跡的に残った「惣門」はこちら↓。
「東門」は↓下の画像です。
神職さんのご自宅が隣接していたので、御挨拶申し上げ演奏許可を頂きました。
一度は焼き払われてしまい、再興された境内です。
なお当社は、今では必ずしも史実ではないとされる斎藤道三の油売りの逸話とも
関連づけられることがあるようです。
油問屋 奈良屋又兵衛の娘を娶った庄五郎が油商人となり山崎屋を称したとか。
今ではこの庄五郎は道三ではなく、実は道三の父だったと言われているようですが。
次にここから10分ほどの小倉神社(小倉大明神)へ行きました。
駐車場から参道へ出ようとすると、神輿が安置されている蔵から境内社が見えました。
参道へ出ても、ずっと右手に境内社が並んでいました。
不思議なことに、神楽殿の左手に池のようなものがあり、亀の置物が並んでいました。
手水によく龍が置かれていますが、龍の代わりに亀が置かれている感じ?
そしてこの位置から右手を見ると↓
いわゆる斎戒沐浴のための水場でしょうか?
御所の裏鬼門除けにされたそうです。同じ大山崎に2つも裏鬼門除けがあったとは…。
このラインを更に北上すると、長岡京市粟生に子守勝手神社があります。
中間地点に長岡天満宮がありましたが、今回はパスしました。
ここまでの3社のうち最も標高が高いため、振り向くと視界が広がっていました。
「あの山は…まさか比叡山じゃありませんよね?」と訊ねると
「比叡山ですよ」と、果樹の世話をしていた方がお答え下さいました。
何と、神仏習合の形のまま残っていたんですね。
正面が子守勝手神社、左隣が観音寺でした。
これが普賢象(フゲンゾウ)なら、今年初めての桜です。きれいでした。
東経135.67を更に北上すると、「神宮寺の蔵王寺跡」があるようです。
勝手神社、蔵王権現なら、そのまんま吉野じゃありませんか?!
田畑の真ん中に唐突に小ぢんまりした社殿が!!
この入り口右手の公民館風建物が蔵王寺跡との情報を得てやってきたのですが…。
この奥の一段上がった平地の方が跡地らしく見えてしまいます。
こうしてみると、わざわざ足を運ぶほどのことも無かった気がしますが、
もう一つの情報が「入野社は現在の大原野神社が元の鎮座地だった」というもの!?
小14座のうちに入野神社があるため、信憑性は高いのではないでしょうか?
しかしながら、現在はこのような祠…。
では、ここから北西2kmの位置にある大原野神社へ急ぎましょう。
道は狭いけれど、古社としての条件が揃っていました。現在の入野神社との差が!?
やはり春日神ですか…。
すばらしい参道ですね。
これは!? 久々に観光神社へ来た感じ…。「猿沢池」を模した「鯉沢池」ですね。
西山を背に、比叡山を望んだ時にわかりました。
御所の鬼門たる延暦寺から御所の上を通る線を引くと、一直線で繋がるのがここ。
まさしく当地が裏鬼門の一つだったのです。
恐らく朝廷は、幾つもの鬼門除けをつくり、裏鬼門と繋いでいったのでしょう。
そう考えれば、御所の艮と坤の方角に幾つもの鬼門除けがあることが理解できます。
途中、地図上に「桓武天皇御母御陵」があったので参道まで行ってみました。
そのような桓武天皇がなにゆえ徹底的に御所の鬼門と裏鬼門を封じようとされたのか?
廃太子が身の潔白を証明するため抗議の断食をして命を断つという事件が起きています。
そして遷都後も怨霊を恐れて数多くの御霊神社を祀り、
創建されたのは貞観年間(859-877)と伝わるそうです。
なぜ平安京の鬼門や裏鬼門が何社もあるのか不思議でしたが、
その背景に世間を震撼させた不幸な事件があったんですね…。
さて、山背國葛野郡月讀神です。
松尾大社の南に同社の境外摂社 月讀神社があったので立ち寄りました。
新しく立派な扁額です。
約1,500年前に鎮座と明記されてますが、856年遷座なら約1,150年が妥当かも…。
社殿は小ぢんまりとしていますが、神楽殿もありました。
壱岐氏は、伊岐氏、伊吉氏、壱伎氏とも書かれます。
なお、壱岐氏と中臣氏はそもそも同祖ではないけれど姻戚関係で同族になった説があり、
「山背國葛野郡月讀神、樺井神、木嶋神、波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。」
の勅につながったのかも知れません。
ここが松尾大社ですか。平日でも観光バスなどで大勢の人がいらしてました。
この山吹を見にいらした方が多いのだそうです。
私は「霊亀の滝」を目指します。
鳥居より上の岩盤に天狗の顔のように見える「天狗岩」があると
聞いてきましたが、視力が0.05だからか、全くわかりませんでした。
境内が広く社殿も立派で、無住の神社へ行くことが多い私には敷居が高過ぎました。
さあ、ここからは桂川沿いに南下します。
最終的に長岡京駅から乗るつもりですが、それって朝一番に行った山崎の
一つ手前の駅なんですよね!? 逆U字に走るかジグザグに走るかの選択でした。
ただ、京都駅までは松尾大社からだと所要時間の計算が難しいのですが、
長岡京駅からは11分なので新幹線に乗り遅れる確率がゼロに近づきます。
無駄走りには目をつぶり、久我森の宮町の久我(こが)神社を目指したのですが…
いやはや…ここは公道に面していませんでした。ナビ通りに走っても走ってもぐるぐる
迂回させられるだけなのでタクシーを降り、勘を頼りに徒歩で細い川を渡りました。
延喜式内社って、結構こんな風に家が密集して到達困難になったりしてません?
かつての社地が広かっただけに、学校や住宅を建てやすいんでしょうね。
当久我神社は延喜式神名帳にある久何神社に比定されているそうです。
上賀茂・下鴨神社誕生とも関わりがあるとのことで、やって来ました。
「山代の国の岡田の賀茂」(=岡田鴨神社?)
→「久我の国の北の山基」(=大宮の久我神社?)
その功績によって大和から山城に移る際に祀った社の一つとされています。
かつては「大宮の森」と呼ばれた社叢があったようで、
そこを下鴨神社の旧社地とする伝承もあるそうです。
賀茂川を挟んで約1kmの距離にあります。
あ、さっき徒歩で渡った川が周回しているのでしょうか?
帰宅後、地図を見たら、ぐるりと川(用水路?)に囲まれていましたが、いつの頃からやら?
ちょっと読みづらいのですが、「桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(784年)
王城の艮(うしとら)角の守護神として御鎮座」とあるのは困りますね。
位置関係は、長岡宮大極殿が北緯34.943で、当社は34.940となります。
ただし、下図の中央からだと「寅」に近い感じですね。
それよりも気になるのは「武内久我神社」と明記された地図があることです。
武内宿禰絡みと考えるべきでしょうか? 今のところ皆目見当がつきません。
(いや…これは恐らく「式内」を「武内」と誤植しただけでしょう)
創建当時は、山背久我国造だった久我氏の祖神 興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ)を
祭神として祀っていたのだろうと考えられていますが、久我氏の衰退後、賀茂氏が
取って代わり、祖神の賀茂建角身命を祀ったのではないかとも言われています。
もう一つ重要なのは川だと思います。当社の由緒に
久我の地では、当地におられた玉依比賣命に西の方から丹塗矢が飛んできて当たり、
身ごもられ、この地で別雷神がお生まれになったと伝えられており、
賀茂伝説のふるさとの地でもある」と書かれています。
では、賀茂伝説とは?
この伝説は、古代の人々にとって、水運がいかに重要であったかを物語っています。
裏鬼門にしても、単に怨霊を恐れ鬼門を封じようとしたというだけでなく
その名目で京(都)を外敵から守ろうとしたのではないでしょうか(むしろそれが主目的)?
次の羽束師坐高御産日(はつかしにますたかみむすひ)神社も水関連でした。
この1809年から1825年にかけて造られた人工水路のことを読むと、先の
久我神社を取り巻いていた水路もこの時のものではないかと…。
通称「はづかし神社」の前で撮影しました。
わざわざ松尾大社から引き返してまで当社へ来たのは、
「草津湊」から乗船したと伝わるためです。
もしやこの社頭から出発? と思いましたが、こちらは19世紀の人工水路でした。
では、「草津湊」はどこ?
川の湊ですが、度重なる洪水や河川改修で川の形状が変わり痕跡が失われたそうです。
「山背國葛野郡月讀神、樺井神、木嶋神、波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。」
についても記載されていました。
「当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料」
だそうです。やはり、藤原氏の台頭で秦・賀茂の独占体制が崩れたのでしょうか?
477年創建を謳い、タカミムスヒ・カミムスヒを奉斎する古社のようには見えませんし、
古来「羽束師の杜」と歌に詠まれた面影もありません。
振り向くと、鳥居右の木の向こうを住民らしき方々が通過してゆきます。
反対側まで来てみますと、境内が抜け道として利用されていることがわかりました。
…で、この祠は?
えええ~羽束師大神? これは祭神じゃないんですか?
長い正式名称は、羽束師の地に坐すタカミムスヒ神社を装っているものの、
その実、羽束師+高御産日というWネームの神社だったとか?
いつものように妄想を逞しくすると、
スカ・ソカ・シカ(?)の地に渡来系技能者集団が入った?
↓
「はつかし」の語源は「はにかし」?
「はに」=「埴土」+「かし」=「水に浸し練る」
律令制以前に、伴造(とものみやつこ)の管掌下で種々の職能をもって大王に奉仕した人々の
集団「品部(しなべ・ともべ)」に卜部(うらべ)・忌部(いむべ)・山部・鍛冶部(かぬちべ)等があり、
その中に「はつかし部」があったらしい(土師部の仲間?)。
泊橿部(はつかしべ)、泥部(はつかしべ)といった表記もありました。
ここ羽束師西部から、長岡宮大極殿の南にかけての土壌が粘土質だったことで
「はつかし部」が活躍した地として「波都賀志」「羽束師」と名づけたのかも?
またしても疑問だらけで終わってしまいましたが、いつの日か
パズルがピタッと嵌まることを夢見て旅を続けます。
最後に当地で詠まれた菅原道真(845-903)の和歌を。
(菅原古人=道真の曾祖父のとき土師氏改め菅原氏になったため「はづかし」の地に思い入れがあったのか?)
昌泰の変(901)で太宰府へ左遷された道真は、再び京の土を踏むことはありませんでした。
捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 杜といふらむ