藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

平安京の裏鬼門

続日本紀文武天皇大宝元年(701年)4月3日条(夏四月甲辰朔)
山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。
とあります。
山背國葛野郡とは京都と呼ばれる前の地名の一つかと思われますが
(山背國に乙訓郡葛野郡愛宕郡紀伊郡宇治郡・久世郡・綴喜郡相楽郡)
月讀神」とは、現在は松尾大社の摂社となっている月讀神社
樺井神」とは樺井月神
木嶋神」とは木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)
波都賀志神」とは羽束師坐高御産日神のことでしょうか?
 
「神稲」とは、朝廷から各社に奉納された稲ということですか?
それらを、今後、中臣氏に給付せよとの勅が出されたということは
藤原氏の台頭によって、秦・賀茂連合の利権の一部が移ったということでしょうか?
 
疑問文ばかりですみません。まず、「樺井神」とは?
↑こちらの樺井月神かと思いましたが、違うかもしれません。
905年の『延喜式』に綴喜郡 14座のうちの大社とあるからです。
それとも701年の時点では葛野郡だった可能性があるでしょうか?
 
木嶋神」へは足を運んでいます。
 
ということで、「月讀神」と「波都賀志神」へ行ってみることに。
先ずはJRで大山崎へ。山崎駅の後方が天王山でしょうか? けっこう低い?
山崎駅の南に「離宮八幡宮」が隣接している…というか、かつて広大な社地を有していた
離宮八幡宮」の敷地の一部に鉄道が敷設され駅が作られた? また疑問符ばかり。
どうやら当社は平安京の守護として創建されたらしいとの情報を得て来ました。
嵯峨天皇の「河陽(かや)離宮」があった場所なので「離宮八幡宮」と呼ばれていますが、
当社の正式名称は石清水八幡宮なんですって!?
清和天皇貞観元年(859年)に神託によって、平安京の守護として宇佐八幡宮から勧請し、
石清水八幡宮」と名付けた翌年(860年)2月9日、当社から対岸の男山の方へ一筋の光が
放たれたため、4月3日に男山に遷宮。新たな「石清水八幡宮」を建立したとのことです。
(わざわざこんな説話を作らなくても、私ごとき者にも当地と男山が、桂川宇治川・木津川が合流して
淀川となる重要なポイントを両サイドから監視できる場所に鎮座していることくらいわかりますが…)
明治9年に官営鉄道が敷設され、境内の北郭が失われたとありますね。
また、文中にある、奇跡的に残った「惣門」はこちら↓。
「東門」は↓下の画像です。
神職さんのご自宅が隣接していたので、御挨拶申し上げ演奏許可を頂きました。
一度は焼き払われてしまい、再興された境内です。
栄枯盛衰をモロに感じることができる大山崎石清水八幡宮でした。
なお当社は、今では必ずしも史実ではないとされる斎藤道三の油売りの逸話とも
関連づけられることがあるようです。
油問屋 奈良屋又兵衛の娘を娶った庄五郎が油商人となり山崎屋を称したとか。
今ではこの庄五郎は道三ではなく、実は道三の父だったと言われているようですが。
いずれにせよ大山崎石清水八幡宮エゴマ油で有名な「本邦製油発祥地」なのでした。
 
次にここから10分ほどの小倉神社(小倉大明神)へ行きました。
今日は大山崎から松尾大社まで北上し、桂川沿いに南下するルートをとります。
駐車場から参道へ出ようとすると、神輿が安置されている蔵から境内社が見えました。
参道へ出ても、ずっと右手に境内社が並んでいました。
無人の神社へ行くことの多い私など、境内社が独立した一つの神社のように見えます。
祭神は春日大社春日神に似ていますが、経津主命が斎主命になってるんですね。
不思議なことに、神楽殿の左手に池のようなものがあり、亀の置物が並んでいました。
手水によく龍が置かれていますが、龍の代わりに亀が置かれている感じ?
そしてこの位置から右手を見ると↓
いわゆる斎戒沐浴のための水場でしょうか?
社伝によれば、養老2年(718年)の創建で、長岡京(784-794)平安京遷都の際には
御所の裏鬼門除けにされたそうです。同じ大山崎に2つも裏鬼門除けがあったとは…。
しかも当社は『延喜式神名帳に「山城国乙訓郡 小倉神社 大 月次新嘗」とある式内大社。
大山崎石清水八幡宮と同じ東経135.67に鎮座しています。
 
このラインを更に北上すると、長岡京市粟生に子守勝手神社があります。
中間地点に長岡天満宮がありましたが、今回はパスしました。
ここまでの3社のうち最も標高が高いため、振り向くと視界が広がっていました。
「あの山は…まさか比叡山じゃありませんよね?」と訊ねると
比叡山ですよ」と、果樹の世話をしていた方がお答え下さいました。
一目で、平安京の鬼門(艮)比叡山で、裏鬼門(坤)乙訓郡葛野郡だとわかりますね。
何と、神仏習合の形のまま残っていたんですね。
正面が子守勝手神社、左隣が観音寺でした。
これが普賢象(フゲンゾウ)なら、今年初めての桜です。きれいでした。
 
東経135.67を更に北上すると、「神宮寺の蔵王寺跡」があるようです。
勝手神社、蔵王権現なら、そのまんま吉野じゃありませんか?!
小さな善峰川を渡ったら、もう西京区大原野上羽町。
田畑の真ん中に唐突に小ぢんまりした社殿が!!
この入り口右手の公民館風建物が蔵王寺跡との情報を得てやってきたのですが…。
この奥の一段上がった平地の方が跡地らしく見えてしまいます。
こうしてみると、わざわざ足を運ぶほどのことも無かった気がしますが、
もう一つの情報が「入野社は現在の大原野神社が元の鎮座地だった」というもの!?
延喜式』の乙訓郡 19座(大5座・小14座)の中に大原野神社はなく、
小14座のうちに入野神社があるため、信憑性は高いのではないでしょうか?
しかしながら、現在はこのような祠…。
あ、ここも「春日大明神」ですね…(春日神の鎮座は藤原氏が入ってきた証)
 
では、ここから北西2kmの位置にある大原野神社へ急ぎましょう。
道は狭いけれど、古社としての条件が揃っていました。現在の入野神社との差が!?
やはり春日神ですか…。
すばらしい参道ですね。
これは!? 久々に観光神社へ来た感じ…。「猿沢池」を模した「鯉沢池」ですね。
藤原氏はなぜ当地に春日神を奉斎したのか? なぜここでなくてはならなかったのか?
西山を背に、比叡山を望んだ時にわかりました。
御所の鬼門たる延暦寺から御所の上を通る線を引くと、一直線で繋がるのがここ。
まさしく当地が裏鬼門の一つだったのです。
恐らく朝廷は、幾つもの鬼門除けをつくり、裏鬼門と繋いでいったのでしょう。
そう考えれば、御所の艮と坤の方角に幾つもの鬼門除けがあることが理解できます。
 
では山背國乙訓郡から、月讀神社松尾大社のある葛野郡へ移動します。
途中、地図上に「桓武天皇御母御陵」があったので参道まで行ってみました。
桓武天皇の母 高野新笠の父は百済系渡来人和氏で史姓の和乙継(やまとのおとつぐ)
和氏は『続日本紀』では百済武寧王の子孫とされています。母は土師真妹(はじのまいも)
続日本紀延暦9年(790年)1月15日条にこうあります。
太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。
母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。
 
桓武天皇(737-806)桓武平氏の祖で、長岡京遷都(784-)平安京遷都(794-)を敢行。
3度の蝦夷征討を行ない、坂上田村麻呂征夷大将軍に抜擢したことでも知られます。
そのような桓武天皇がなにゆえ徹底的に御所の鬼門と裏鬼門を封じようとされたのか?
 
宝亀3年(772年)、前年皇太子となった光仁天皇の第4皇子で異母弟の他戸親王(761-775)の母
聖武天皇の皇女 井上内親王が大逆罪に問われ、母子ともに廃位された上、幽閉先で同時に
亡くなる事件が起き、延暦4年(785年)には桓武天皇自身が同腹の皇太弟 早良親王を廃し、
廃太子が身の潔白を証明するため抗議の断食をして命を断つという事件が起きています。
早良親王の憤死後、身内に不幸が続いた桓武天皇は、疫病の流行などもあって
長岡京から平安京への遷都を決めたと言われています。
そして遷都後も怨霊を恐れて数多くの御霊神社を祀り、
延暦19年(800年)早良親王へ「崇道天皇」を追号されました。
平安京の鬼門封じとして現在の京都市左京区上高野西明寺山に崇道神社
創建されたのは貞観年間(859-877)と伝わるそうです。
 
なぜ平安京の鬼門や裏鬼門が何社もあるのか不思議でしたが、
その背景に世間を震撼させた不幸な事件があったんですね…。
 
さて、山背國葛野郡月讀神です。
松尾大社の南に同社の境外摂社 月讀神社があったので立ち寄りました。
新しく立派な扁額です。
約1,500年前に鎮座と明記されてますが、856年遷座なら約1,150年が妥当かも…。
社殿は小ぢんまりとしていますが、神楽殿もありました。
が、905年の『延喜式』にある名神大社という雰囲気は感じられませんでした。
この神社の旧鎮座地は「山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすた)」とあります。
当社から桂川を挟んで東4kmに「京都市下京区西七条北月読町&南月読町」がありますが、
遷座前は約1.5km東の桂川左岸の「桂上野」あたりで水害に遭ったとも伝わります。
 
朝廷は壱岐島から奉斎した月神に山代国葛野郡歌荒樔田の地を献上し、
壱岐から月神の裔と称する押見宿禰を呼びよせて社を造営し、奉斎したと言います。
その子孫は世襲祠官をつとめ、本貫地の壱岐(伊岐)を名のったそうです。
壱岐氏は、伊岐氏、伊吉氏、壱伎氏とも書かれます。
なお、壱岐氏と中臣氏はそもそも同祖ではないけれど姻戚関係で同族になった説があり、
そのあたりが『続日本紀文武天皇大宝元年(701年)4月3日条(夏四月甲辰朔)に出された
山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。
の勅につながったのかも知れません。
 
ここが松尾大社ですか。平日でも観光バスなどで大勢の人がいらしてました。
この山吹を見にいらした方が多いのだそうです。
私は「霊亀の滝」を目指します。
鳥居より上の岩盤に天狗の顔のように見える「天狗岩」があると
聞いてきましたが、視力が0.05だからか、全くわかりませんでした。
境内が広く社殿も立派で、無住の神社へ行くことが多い私には敷居が高過ぎました。
 
さあ、ここからは桂川沿いに南下します。
最終的に長岡京駅から乗るつもりですが、それって朝一番に行った山崎の
一つ手前の駅なんですよね!? 逆U字に走るかジグザグに走るかの選択でした。
ただ、京都駅までは松尾大社からだと所要時間の計算が難しいのですが、
長岡京駅からは11分なので新幹線に乗り遅れる確率がゼロに近づきます。
無駄走りには目をつぶり、久我森の宮町の久我(こが)神社を目指したのですが…
いやはや…ここは公道に面していませんでした。ナビ通りに走っても走ってもぐるぐる
迂回させられるだけなのでタクシーを降り、勘を頼りに徒歩で細い川を渡りました。
延喜式内社って、結構こんな風に家が密集して到達困難になったりしてません?
かつての社地が広かっただけに、学校や住宅を建てやすいんでしょうね。
久我神社延喜式神名帳にある久何神社に比定されているそうです。
上賀茂下鴨神社誕生とも関わりがあるとのことで、やって来ました。
山代の国の岡田の賀茂(=岡田鴨神社?)
→「葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)との会ふ所(=久何神社・久我神社?)
→「久我の国の北の山基(=大宮の久我神社?)
のルートで遷座(鴨・賀茂氏が移動)したとあるそうです。
 
大宮通りにある京都市北区紫竹下竹殿町の久我(くか・くが)神社の由緒には
賀茂建角身命が初代神武天皇の東征の折、八咫烏となって皇軍を導き」と明記され、
その功績によって大和から山城に移る際に祀った社の一つとされています。
かつては「大宮の森」と呼ばれた社叢があったようで、
そこを下鴨神社の旧社地とする伝承もあるそうです。
なお、大宮の久我神社賀茂別雷神社第八摂社で、その上賀茂神社とは
賀茂川を挟んで約1kmの距離にあります。
あ、さっき徒歩で渡った川が周回しているのでしょうか?
帰宅後、地図を見たら、ぐるりと川(用水路?)に囲まれていましたが、いつの頃からやら?
ちょっと読みづらいのですが、「桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(784年)
王城の(うしとら)角の守護神として御鎮座」とあるのは困りますね。
位置関係は、長岡宮大極殿が北緯34.943で、当社は34.940となります。
ただし、下図の中央からだと「寅」に近い感じですね。
それよりも気になるのは「武内久我神社」と明記された地図があることです。
武内宿禰絡みと考えるべきでしょうか? 今のところ皆目見当がつきません。
(いや…これは恐らく「式内」を「武内」と誤植しただけでしょう)
創建当時は、山背久我国造だった久我氏の祖神 興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ)
祭神として祀っていたのだろうと考えられていますが、久我氏の衰退後、賀茂氏
取って代わり、祖神の賀茂建角身命を祀ったのではないかとも言われています。
もう一つ重要なのは川だと思います。当社の由緒に
祭神は建角身命・玉依比賣命・別雷神の三柱で、上賀茂神社下鴨神社と同神であり。
久我の地では、当地におられた玉依比賣命に西の方から丹塗矢が飛んできて当たり、
身ごもられ、この地で別雷神がお生まれになったと伝えられており、
賀茂伝説のふるさとの地でもある」と書かれています。
 
では、賀茂伝説とは?
上賀茂神社の起源に、祭神の賀茂玉依媛命が雷鳴とともに現れた丹塗矢を賀茂川上流で
見つけ、御子神を懐妊したのが祭神の賀茂別雷神で、祖父に当たる賀茂建角身命が八尋殿を
造り、678年に賀茂氏一族が神山とする加茂山に賀茂別雷神を祀って創建したとあります。
 
そして、江戸時代まで上賀茂神社の境外摂社だった貴船神社の社伝によれば、
初代 神武天皇の母 玉依姫命が黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って
水神を祀ったのが起源で、貴船の名は「黄船(黄色い船)」に由来するとのこと。
 
この伝説は、古代の人々にとって、水運がいかに重要であったかを物語っています。
裏鬼門にしても、単に怨霊を恐れ鬼門を封じようとしたというだけでなく
その名目で京(都)を外敵から守ろうとしたのではないでしょうか(むしろそれが主目的)
 
次の羽束師坐高御産日(はつかしにますたかみむすひ)神社も水関連でした。
この1809年から1825年にかけて造られた人工水路のことを読むと、先の
久我神社を取り巻いていた水路もこの時のものではないかと…。
通称「はづかし神社」の前で撮影しました。
わざわざ松尾大社から引き返してまで当社へ来たのは、
 菅原道真が九州太宰府に流された時、崇徳上皇讃岐国に流された時、
高倉上皇厳島神社へ参拝した時、法然上人が讃岐国に流された時などに
草津湊」から乗船したと伝わるためです。
菅原道真太宰府へ出発する前に羽束師坐高御産日神へ立ち寄ったらしいと知り、
もしやこの社頭から出発? と思いましたが、こちらは19世紀の人工水路でした。
 
では、「草津湊」はどこ?
平安時代~明治時代初頭まで、京都市伏見区横大路草津町付近の桂川左岸にあった
川の湊ですが、度重なる洪水や河川改修で川の形状が変わり痕跡が失われたそうです。
現在の草津町羽束師坐高御産日神とは桂川を挟んで約1kmの距離にあります。
 
これで菅原道真羽束師坐高御産日神に立ち寄った可能性が高まりました。
続日本紀文武天皇大宝元年(701年)4月3日条(夏四月甲辰朔)
山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻、自今以後、給中臣氏。
についても記載されていました。
当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料
だそうです。やはり、藤原氏の台頭で秦・賀茂の独占体制が崩れたのでしょうか?
477年創建を謳い、タカミムスヒ・カミムスヒを奉斎する古社のようには見えませんし、
古来「羽束師の杜」と歌に詠まれた面影もありません。
振り向くと、鳥居右の木の向こうを住民らしき方々が通過してゆきます。
反対側まで来てみますと、境内が抜け道として利用されていることがわかりました。
…で、この祠は?
えええ~羽束師大神? これは祭神じゃないんですか?
長い正式名称は、羽束師の地に坐すタカミムスヒ神社を装っているものの、
その実、羽束師+高御産日というWネームの神社だったとか?
 
いつものように妄想を逞しくすると、
ヤマト王権神道思想上の根源神=造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)を祀る
スカ・ソカ・シカ(?)の地に渡来系技能者集団が入った?
「はつかし」の語源は「はにかし」?
「はに」=「埴土」+「かし」=「水に浸し練る」
律令制以前に、伴造(とものみやつこ)の管掌下で種々の職能をもって大王に奉仕した人々の
集団「品部(しなべ・ともべ)」に卜部(うらべ)・忌部(いむべ)・山部・鍛冶部(かぬちべ)等があり、
その中に「はつかし部」があったらしい(土師部の仲間?)
泊橿部(はつかしべ)、泥部(はつかしべ)といった表記もありました。
 
ここ羽束師西部から、長岡宮大極殿の南にかけての土壌が粘土質だったことで
「はつかし部」が活躍した地として「波都賀志」「羽束師」と名づけたのかも?
 
またしても疑問だらけで終わってしまいましたが、いつの日か
パズルがピタッと嵌まることを夢見て旅を続けます。
 
最後に当地で詠まれた菅原道真(845-903)の和歌を。
(菅原古人=道真の曾祖父のとき土師氏改め菅原氏になったため「はづかし」の地に思い入れがあったのか?)
昌泰の変(901)太宰府へ左遷された道真は、再び京の土を踏むことはありませんでした。
 
捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 杜といふらむ