「しらき」は、元来「 新羅城」の意との説があります。
7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一したとされています。
すると宮中に「園韓神」の祭祀を採り入れたのは天武天皇だった可能性も?
その歌詞は『年中行事秘抄』に
「乙女ども乙女さびすも唐玉を袂に巻きて乙女さびすも」とあり、大正時代の
楽譜では句頭に「そのからたまを」の歌詞があったことが確認できます。
私の「その神」「から神」への疑問は、この《五節の舞》から始まりました。
五節舞を考え出された」と伝えたとあります。
しかし、宮中における「園韓神」については辞書を手がかりにするほかなく、
やっと以下の記述を2019.11.29のブログに引用して「韓神」をまとめました。
韓神(からかみ)=朝鮮から渡来した神の意。
古代より宮中の神殿には
北に百済神である韓神、
南に新羅神である園神が祀られていた。
国語辞典の「韓神」の説明にも「新羅」が出てきます。
「韓」は朝鮮の意。よって、神名は朝鮮国の神の意。
朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神。
第2子としてその名が挙げられており、新羅国の都である徐伐(現在のソウル)を
そのまま名とした第3子の曾富理神と共に、古代朝鮮との密接な関係を反映する。
すると、上の「曾富理神」は「しらき神」なのでしょうか?
宮中の「韓神」が地方に進出し、「三島神」「大山積神」として国の運営に
関わったことを考えると、「新羅神」も地方進出しているはず。
そう思って社伝などを読んでいたら、
804年、最澄が唐に渡る前に宇佐八幡に立ち寄った際の御託宣がありました。
「此より乾方に、香春と云ふ所に、 霊験の神座まさしむ。新羅国の神なり。
またこの地域の古代の戸籍には渡来系の名前が多く見られるとか。
筑前の席田郡に移される。
というのも興味深い記述です。
《席田》や《山背(山城)》といったタイトルは渡来人の居住地でもあり、
歌詞の内容には日本で暮らす渡来人の心情が反映されています。
かねてより、岐阜県と福岡県に「席田」の地名があることが気になって
8世紀に新羅人を北部九州へ移住させたことに違和感はありません。
前述のように、最澄が宇佐八幡に立ち寄った際の御託宣では
香春に神座まさしむ新羅国の神とあります。
そして『八幡宇佐宮託宣集』に「我宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、
筥崎宮の元宮でもあるとされています。
ただし宇佐神宮の元宮には諸説あり、他にも
"宇佐八幡宮神託事件"でつとに知られています。
古くから皇室の崇敬を受けていたとはいえ、皇位の継承に関与するとは…?!
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、
いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り
では、皇統にまで影響を及ぼす八幡神とは何か?
社伝に異同が多いため、ほんとうのところはわかりません。
よって一般的に読める文章をざっと並べるにとどめます。
田河郡。鹿春郷(カハルノサト)。此の郷の中に河有り。(中略)
此の河の瀬清浄(キヨ)し。因(ヨ)りて清河原(キヨカハラ)の村と号けき。
今、鹿春郷と謂ふは訛(ヨコナマ)れるなり。
此の河原に住みき。便即(スナハ)ち、名けて鹿春神(カハルノカミ)と曰(イ)ふ。
この新羅の神は、彼らの生業からみて鍛冶神的神格をもつと考えられています。
香春の渡来人らは東進しつつ居住地たる「辛国(カラクニ)」を開いてゆきました。
今も駅館川西側に大字辛島の地名が見えます。
その宇佐に先住していた宇佐氏と、
あとから入りこんできた辛嶋氏との間には抗争があったはずで、
もちろんそれは宇佐氏とそれ以前の氏族の場合も同じでしょう。
ただ、5世紀末から6世紀初頭にかけて、駅館川右岸(東)に宇佐氏、
左岸(西)に辛嶋氏という棲み分けができていたとの説もあります。
さて「辛(カラ)」ですが、
「カラ」は「韓」にも「加羅」にも通じます。
ウサツヒコとウサツヒメを始祖とする宇佐氏は、
神奈備山たる御許山に降臨した三女神を奉斎していました。
では新羅神は? と言うと、
シャーマニズム的なものではなかったかと推測されています。
その新羅神は先ず香春岳に天降ったことになっています。
これを渡来系氏族辛嶋氏の新羅神信仰が
日本列島土着の神奈備信仰を取り入れた結果と考え、
辛嶋氏の日本化とみる説があるそうです。
朝廷が物部大連麁鹿火を派遣して翌22年に磐井軍を破ったとあります。
そののち、
朝廷が宇佐氏の居た駅館川右岸一体に大和の大神氏を進出させたことで