藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

しらき神

万葉集で「新羅」、出雲風土記で「 志羅紀」などと表記された
しらき」は、元来「 新羅」の意との説があります。
古代の朝鮮半島南東部にあった新羅(前57年〜935年)は、
半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て
7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一したとされています。
その時代、「遣新羅使」など、親新羅政策をとったのが
672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)でした。
すると宮中に「園韓神」の祭祀を採り入れたのは天武天皇だった可能性も?
 
大嘗祭新嘗祭に行なわれる豊明節会で、大歌所の人々の歌に合わせて
4~5人(大嘗祭では5人)舞姫が舞う《五節(ごせち)の舞》があります。
その歌詞は『年中行事秘抄』に
乙女ども乙女さびすも唐玉を袂に巻きて乙女さびすも」とあり、大正時代の
楽譜では句頭に「そのからたまを」の歌詞があったことが確認できます。
私の「その神」「から神」への疑問は、この《五節の舞》から始まりました。
 
さらに『続日本紀天平15年(743)5月辛丑条には
聖武天皇元正上皇のために阿倍内親王(孝謙天皇)五節舞を舞わせた際、
天皇上皇に対して「天武天皇が天下統治のために礼と楽を整備するために
五節舞を考え出された」と伝えたとあります。
 
しかし、宮中における「園韓神」については辞書を手がかりにするほかなく、
やっと以下の記述を2019.11.29のブログに引用して「韓神」をまとめました。
韓神(からかみ)=朝鮮から渡来した神の意。
古代より宮中の神殿には
北に百済神である韓神、
南に新羅である園神が祀られていた。
 
国語辞典の「韓神」の説明にも「新羅」が出てきます。
 
「韓」は朝鮮の意。よって、神名は朝鮮国の神の意。
朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神。
古事記』には、須佐之男の子である大年神伊怒比売との間に生まれた
第2子としてその名が挙げられており、新羅国の都である徐伐(現在のソウル)
そのまま名とした第3子の曾富理神と共に、古代朝鮮との密接な関係を反映する。
 
すると、上の「曾富理神」は「しらき神」なのでしょうか?
 
宮中の「韓神」が地方に進出し、「三島神」「大山積神」として国の運営に
関わったことを考えると、「新羅」も地方進出しているはず。
そう思って社伝などを読んでいたら、
804年、最澄が唐に渡る前に宇佐八幡に立ち寄った際の御託宣がありました。
此より乾方に、香春と云ふ所に、 霊験の神座まさしむ。新羅国の神なり。
吾が国に来往す。新羅・ 大唐・百済の事を能く霊知せらる。其の教を信ずべし」。
 
古代、豊前・豊後あたりは新羅系渡来人の多い所であったとされ、
豊前風土記』には「香春で新羅を祀る」と書かれていたそうです。
またこの地域の古代の戸籍には渡来系の名前が多く見られるとか。
 
持統天皇元年(687)、朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、
新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に置く。
持統天皇3年(689)新羅人を下毛野に移す。
持統天皇4年(690)帰化した新羅人を武蔵国や下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715)尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし
筑前の席田郡に移される。
というのも興味深い記述です。
「席田(むしろだ)」は平安時代催馬楽のタイトルでもあるからです。
《席田》や《山背(山城)》といったタイトルは渡来人の居住地でもあり、
歌詞の内容には日本で暮らす渡来人の心情が反映されています。
 
かねてより、岐阜県と福岡県に「席田」の地名があることが気になって
いましたが、古くから豊前・豊後に渡来系新羅人が住んでいたとすれば
8世紀に新羅人を北部九州へ移住させたことに違和感はありません。
 
さて、その新羅人が斎き奉る新羅です。
前述のように、最澄が宇佐八幡に立ち寄った際の御託宣では
香春に神座まさしむ新羅国の神とあります。
そして『八幡宇佐宮託宣集』に「我宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、
筑前国穂波郡(現 福岡県飯塚市)の大分八幡宮宇佐神宮の本宮で、
筥崎宮の元宮でもあるとされています。
ただし宇佐神宮の元宮には諸説あり、他にも
福岡県築上郡築上町の矢幡八幡宮(現 金富神社)
大分県中津市の薦(こも)神社などが有力視されています。
 
この宇佐神宮(宇佐八幡)と朝廷の繋がりは、称徳天皇時代の
"宇佐八幡宮神託事件"でつとに知られています。
道鏡皇位につかせたならば天下は泰平」との宇佐八幡宮の神託を奏上し、
道鏡自身も皇位に就くことを望んだとされます。
古くから皇室の崇敬を受けていたとはいえ、皇位の継承に関与するとは…?!
 
宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められた称徳天皇
虚弱な法均の代わりに弟の和気清麻呂を派遣。
8月に天皇の勅使として宇佐神宮に参宮した清麻呂
禰宜 辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣して
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、
いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り
奏上したところ、称徳天皇が怒り、清麻呂大隅国へ配流したそうです。
 
では、皇統にまで影響を及ぼす八幡神とは何か?
 
社伝に異同が多いため、ほんとうのところはわかりません。
よって一般的に読める文章をざっと並べるにとどめます。
 
豊前国風土記(733年頃成立?)逸文にこうあります。
田河郡。鹿春(カハルノサト)。此の郷の中に河有り。(中略)
此の河の瀬清浄(キヨ)し。因(ヨ)りて清河原(キヨカハラ)の村と号けき。
今、鹿春郷と謂ふは訛(ヨコナマ)れるなり。
昔者(ムカシ)新羅(シラキノクニ)の神、自ら度(ワタ)り到来(キタ)りて、
此の河原に住みき。便即(スナハ)ち、名けて鹿春神(カハルノカミ)と曰(イ)ふ。
 
この新羅の神は、彼らの生業からみて鍛冶神的神格をもつと考えられています。
 
香春の渡来人らは東進しつつ居住地たる「辛国(カラクニ)」を開いてゆきました。
宇佐平野西部の駅館川左岸にまで至ったのが辛嶋氏を中心とする一団で、
今も駅館川西側に大字辛島の地名が見えます。
かつての豊前国宇佐郡辛嶋郷に辛嶋氏が定着したのは5世紀末との説もあります。
 
その宇佐に先住していた宇佐氏と、
あとから入りこんできた辛嶋氏との間には抗争があったはずで、
もちろんそれは宇佐氏とそれ以前の氏族の場合も同じでしょう。
ただ、5世紀末から6世紀初頭にかけて、駅館川右岸(東)に宇佐氏、
左岸(西)辛嶋氏という棲み分けができていたとの説もあります。
 
さて「辛(カラ)」ですが、
「カラ」は「韓」にも「加羅」にも通じます。
そこに、新羅系渡来氏族を秦氏の一族または支族とする説が絡むと
ややこしくなるため、先ずは新羅八幡神についてのみ考えます。
 
ウサツヒコとウサツヒメを始祖とする宇佐氏は、
神奈備山たる御許山に降臨した三女神を奉斎していました。
では新羅は? と言うと、
朝鮮半島の民俗信仰に仏教や道教などの要素が複雑に絡み合った
シャーマニズム的なものではなかったかと推測されています。
 
その新羅は先ず香春岳に天降ったことになっています。
そして『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』では「宇佐郡辛国宇豆高嶋に天降った」ことに。
 
これを渡来系氏族辛嶋氏の新羅信仰が
日本列島土着の神奈備信仰を取り入れた結果と考え、
辛嶋氏の日本化とみる説があるそうです。
 
ところで、宇佐氏は"筑紫国磐井の乱"後、急速に衰えてしまいました。
"磐井の乱"については『日本書紀継体天皇21年(521)の条に
朝廷が新羅に出兵しようとしたとき、これを遮ろうとした筑紫国造磐井が
肥前・肥後・豊前・豊後などを押さえて反乱を起こしたため、
朝廷が物部大連麁鹿火を派遣して翌22年に磐井軍を破ったとあります。
そののち、
朝廷が宇佐氏の居た駅館川右岸一体に大和の大神氏を進出させたことで
宇佐平野駅館川の東に大神氏、西に辛嶋氏が居住することになったとか。
ここから辛嶋氏の新羅と大神氏が奉ずる応神天皇霊との競合が始まり、
宇佐神宮八幡神が形成されていったのではないかとのことです。